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君を欲す
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窓際は明るくて、近づきたくない。今までは朝起きた時、まだ光に目が慣れていないときに眩しいと感じる程度で、不快感を覚えることはあまりなかった。だけど今は、光が怖い。
ただ窓を開けたいだけだ。朝の空気を室内に入れたいだけ。ただそれだけなのに、日陰から出られない。
「カンちゃん、おはよう」
史之の声に振りかえると、起きたばかりであろう彼が後ろに立っていた。彼は睦月の脇をすり抜け、睦月が触れることすらできなかった窓に手を掛けた。からからと窓が開き、柔らかな風が睦月の頬を撫でる。
「おはよう、しーちゃん」
日陰が狭くなり、つい下を向いてしまう。それに気が付いた史之が、睦月の前に歩いてくる。
日陰と日向。その丁度間で彼は立ち止まり、睦月を見下ろした。陽光から庇おうとするようなその姿に、睦月はほっと胸をなでおろした。やっと、史之の顔を見られる。
「おはよう」
今度こそ目を見て言えた言葉に、史之は笑みを浮かべる。
「朝ご飯にしようか」
ラサでの仕事。吸血鬼との闘いの最中に、睦月は「烙印」を与えられた。首筋に吸血鬼の手が触れただけだというのに、睦月の身体はすっかり別の物に変わりつつある。
性格が変わったわけではない。だけど見た目はいくらか変わった。首には花の模様が浮かび上がっているし、涙は水晶に変わって零れ落ちる。悲しくて泣いたときだろうが嬉しくて泣いたときだろうが、涙は乾くことすらせず宝石にすりかえられていくのだから、流れた気持ちは消えることを知らない。
ただ、睦月が一番くるしんでいるのは、血が欲しくてたまらないということだ。
「カンちゃん、どうしたの」
睦月が少しの間ぼんやりしていたことに、彼は気が付いたらしかった。食欲ないの? なんて尋ねてくる彼に首を振りながら、睦月は箸を持ち直した。
食欲がないわけではない。史之が作ってくれた朝食はどれも美味しそうで、それを前にして要らないと思うような不調ではない。ただ、血が欲しいのだ。
夫の手作り料理は大好きだ。彼の料理の腕は確かだし、彼が作ってくれたというだけで特別な味になる。しかし睦月の身体が、口にするものは血が最もふさわしいと訴えてくるのだ。
「少しぼんやりしていただけだよ」
睦月が微笑むと、史之はならいいとばかりに話を変えた。今日は依頼がないけれど、領地の様子を見て回りたい。どこで何をするつもりだ。そんな彼の予定を聞きながら、睦月はゆっくりとみそ汁をすする。
血が欲しいという欲求は、飢えに等しい。それがなくては生きていけないのだと、明確に身体が叫んでいるのだ。腹を満たすだけの食事を得られなかったときのような空腹が、烙印を与えられたときからずっと続いている。
睦月は「かみさま」だったとはいえ、今では普通の人間だ。血を欲し摂取するなんて、思わぬ意味で人間を辞めることになりかねないから、したくない。飢えを誤魔化すようにそれらしいもの――例えばトマトジュースなんかの赤い飲み物だ――を口にしても、「違う」と身体は告げてくる。
一度も飢えを満たしていないせいなのか、身体が刻々と変化しているからなのか。或いはその両方のせいなのか。睦月の飢えは強くなっていくばかりだ。
血が欲しい。その言葉ばかりが頭を埋め尽くして、目の前が真っ暗になることがある。史之の腕に浮いた血管や、白い首筋に噛みつきたくなってしまいたくなる時がある。その度に、「愛する人を傷つけたくない」と言い聞かせて、ずっと、ずっと、耐えているのだ。
「カンちゃん。辛かったら言ってね」
烙印を与えられたのは、史之も知っている。それから彼は、睦月が吸血衝動と闘っているのだと気が付くと、切ない様な、甘く優しい様な、そんな笑みを浮かべてくる。それはきっと、血を欲すれば許してくれるということなのだろうけれど、その一線はまだ超えたくなかった。
「うん。でも、大丈夫だから」
努めて明るく呟きながら、再びみそ汁をすする。血の味がしないことが不満で、そう感じてしまうことが怖かった。
その日史之が帰ってきたのは、陽が傾き始めた頃だった。陽の下に出ることを躊躇う睦月の分の仕事もこなしてくれたのだから、精一杯労ってあげたかった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
今日は普段は史之にやってもらっている家事を、できるだけやってみた。それを史之が喜んでくれたのが嬉しくて、思わず口元が緩む。
「これ、今日貰ったんだ」
史之が抱えていた袋を開ける。そこには果物や野菜をはじめとする食材が詰め込まれていた。聞けば、睦月が外に出ていない理由を体調不良と伝えたところ、心配した人々がくれたとのことだった。
「いつもカンちゃんが頑張ってくれているからだね」
史之は誇らしげだが、睦月はそれがほんの少し申し訳なかった。領民の心遣いはありがたいが、ありがたいからこそ後ろめたかった。睦月の「病」は食べて療養すれば治るものではない。睦月が意図したことではないし、史之が意図したことでもないが、騙してしまったような気がする。
「親切はありがたく受け取っていいと思うよ」
睦月の心のうちに気が付いたのか、史之は苦笑した。そして袋の一番底に眠っていた袋を取り出した。
「釣ったばかりの魚だってさ」
生臭い。血の匂いがする。
求めているものではない。求めているものではないのだが、ぞくりと背筋を何かが這った。
「新鮮なうちに食べるのが美味しいらしいんだ。今から捌くから、夕飯は刺身にしようよ」
「あ、うん」
領民の好意も、彼の好意も無駄にはできない。だけど、ほんのわずかに漂う血の匂いに、飢えが刺激されているのは知られたくなかった。
「それなら、僕、待っているよ」
ありふれた笑みを浮かべて、台所から逃げ出す。調理が終わるまで耐えれば、飢えを余計に刺激する要素はなくなるだろうと思っていたのに、事はそううまくいかなかった。
「痛っ」
飢えのせいで真っ暗になりかけていた頭が、覚醒する。史之の痛みを孕んだ声に台所へ飛び出すと、彼は指先を水で洗い流しているところだった。
「手、切っちゃったの?」
「胸ビレが尖っていてね。うっかり刺しちゃったんだ」
ぴたりと水道が止められる。傷の具合を確認するように彼が指先を見つめている間に、じわりと傷口から血が滲んでいく。それが玉のような塊になり、指先をつぅと伝った。
紅い。彼の指先から流れるその鮮やかな色が、黒く染まる視界にちらちらと花を咲かせる。
「しーちゃん」
その血をちょうだい。傷、大丈夫? その二つの言葉がせめぎ合って、何も言えなくなった。喉元でつかえたそれが、ぶつかり合うように砕けていく。
「カンちゃん、要る?」
恐らく睦月の目はぎらぎらと輝いているだろうに、彼は動じることはなかった。それどころかいたずらっぽく笑って、睦月の目の前に血が滲んだ指先を差し出してきた。
「しーちゃん、どうして」
「さすがに辛いでしょ」
口元に近づく彼の指。血の匂いに誘われるまま、衝動のままにそれを舐めとろうとして、彼を突き放した。
「できない」
腕を振り払ったのは咄嗟だったが、正気に返ってから胸が痛んだ。そろりと彼の顔を見上げると、驚いたような表情をしているのが目に入った。
傷つけて、しまった。
「ごめん」
「ううん。こちらこそ、ごめん」
揶揄いすぎたね。彼はそう言って、手を身体の後ろに隠した。血の匂いはたいして遠ざかることはなかったけれど、赤色が視界に入らないだけで、まだ衝動を抑えられるような気持ちになれる。
傷ついていない方の彼の手が、睦月の頭を撫でる。ごめんね。彼はもう一度そう繰り返した。
「絆創膏、持ってくるね」
「ありがとう、助かるよ」
彼の手が離れていく。それに名残惜しさを感じつつも、今は彼には触れない方がいいと思った。膨らんだ欲求は、まだ元の形に収まっていないのだ。彼に喰らいつかない自信なんて、どこにもない。
これ以上、彼を傷つけたくない。血に対する飢えはどんどん強くなっていて、留まるところを知らない。睦月が耐えられるのも時間の問題だろう。彼が人間にしてくれたのに、その人間性を放り捨ててしまうのは、彼が与えてくれた信頼や愛情を裏切るように思えるのだ。先ほど彼の手を振り払ってしまったのも、彼の愛情を失うのではないか、という不安が横切ったからだ。
彼はきっと、受け入れてくれる。例え睦月の身体が水晶に変わり果てて、人間の姿を失ったとしても、変わらずにその愛情を捧げてくれるのだと思う。血を求め、禁忌に自ら触れるようになったとしても、彼は愛しむようにこちらを見てくれるのだと思う。血をちらつかせる戯れだってその表れに他ならないはずで、変わっていく睦月を恐れるのなら、決してするはずのない行為だ。
分かっているのだ。ただ、不安なだけ。変わっていく睦月を受け入れられないのは、他でもない自分自身なのだ。
史之と話さなければ。自身がまだ人の姿を保っているうちに、彼の心を引き出さなければ。そう決心するも、すぐに話し出すのは難しかった。
月が煌々と辺りを照らす頃。散歩に行こうと史之に誘われ、睦月は外に出た。
陽射しがないだけで、身体はいくらか楽だった。肌を焼き目を刺すような陽光とは違い、月光は包み込むような光だ。変化しつつある肉体には、月光の方がずっと優しい。
「やっとデートできるね」
彼は冗談めかして笑った。もう人が誰も通らない時間だから、手を繋いで歩いても恥ずかしくない。指を絡めあうようにして握ると、彼の指を包む絆創膏が皮膚を掻いた。
夕食の時から、何度も話をしようと試みた。だけどその度に躊躇いが勝って、まだ何も話せていない。睦月が何か言いかけているのを理解しているであろう彼も、睦月から話を引き出そうとはしなかった。睦月の心が整うのを待ってくれているのは嬉しいが、同時に、早く伝えなければと心が逸る。
「手の傷、どう?」
やっと告げた一言は、思ったより声が小さかった。彼が聞き取れたか不安になって顔を上げると、彼はにこやかに笑みを浮かべていた。
「血は止まったかな。しばらく絆創膏は外せないけど」
「よかった」
終わりかけた会話を引き延ばす術を探していると、史之の声が被された。
「まだ血の匂い、する?」
血の匂いは、もう分からない。だけど、塞がりかけの傷を剥けばまた血が出てくるのだと思うと、落ち着いていたはずの欲が再び溢れてくる。
言わなければ。そう強く思った。
「しーちゃんは、僕のことが怖くない?」
首筋に浮いた烙印を見せ、ゆっくりと言葉を選ぶ。
本来、人が変わり果てていく過程なんて、醜いはずだ。恐ろしくてたまらないはずだ。それなのに彼は、睦月から目を逸らさない。
「怖くないよ」
「本当?」
「本当だよ」
彼の手が花の模様をなぞる。くすぐったいけれど、なんだかほっとする。
「僕が僕でなくなっても、愛してくれる?」
首に添えられていた手が、頬に触れる。優しく温かい手。次第に彼の体温が睦月の頬にも伝わって、お互いの境目が分からなくなる。
「俺は、カンちゃんがどんな姿になっても、ずっと好きでいるよ。愛し続けるよ」
俺の血、飲んでもいいよ。彼はそう付け足した。
「カンちゃんが苦しいのは、俺も辛い。カンちゃんが怖がっているようなことにはならないから」
絆創膏に包まれていた指が、空気に晒される。赤い傷口が月明りでよく目立って、ごくりと唾を飲んだ。
「でも、俺以外からは血を貰わないで。欲しがらないで。約束して」
睦月が頷くと、彼が傷口を強く掻いた。薄く繋がり始めていた皮膚が裂け、再び赤い血が覗く。
「カンちゃん、愛しているよ」
伸ばされる指。迷わずに口に含むと、血の味が舌の上に広がった。
ああ、甘い。血なんて苦いものだと思い込んでいたけれど、こんなに美味しいなんて。
腹が満たされていく幸福。脳を満たしていく甘い感情。これは身体が変わってしまった証拠なのだろうけれど、今はこの幸福に溺れていたいとすら思う。だって彼が受け入れてくれているのだ。怖いことなんて、ひとつもない。
「足りたかな?」
彼の指から流れたのはほんの一筋だけだった。長いこと飢えに苦しんできたこの身体を幸福にするには十分な一滴だったけれど、まだ、飢えている。満たされる喜びを知ったことで、もっと、と求める欲が溢れてくるのだ。
「ま、だ」
睦月が答えると、彼はそうだろうねと呟いて、首がよく見えるように衣服を乱していった。
「どうぞ」
月光に照らされる首筋。躊躇って一歩下がると、彼の手が背中に回され、抱えあげられた。
目の前に迫る白い首。耐えきれなくなって噛みつくと、彼の口から息が零れる。
口内に零れてくる血。吸い付いて、溢さないようにすくいとって、ゆっくり飲み干していく。泣きたいくらい、美味しかった。
「痛かったよね」
「これくらい平気だよ」
史之は睦月を地面に降ろすと、睦月の目の端で作り出されている水晶をぬぐった。
「またお腹がすいたら俺に言ってね」
「ありがとう」
月明りの下、お互いの身体を離さないように抱きしめ合う。二人を照らしているきらきらとした光は、明るくて、優しくて、心地よかった。
彼に愛されているのだ。そう強く感じられて、胸がいっぱいになった。
***
あれから睦月は、血が欲しいのを無理やりに押し込めなくなった。毎日のように血を強請らないのは史之の健康を心配してのことのようだが、彼女のためなら貧血になろうが構わない、というのが史之の本音だ。
吸血衝動と闘い続けている睦月の様子は苦しそうで胸が痛んだけれど、こちらの事を慮って耐えてくれているのは、嬉しかった。可愛らしいとすら思った。だけど今、飢えが強くなると、「血が欲しい」と甘えてくる姿は、もっと可愛らしい。
彼女が次第に人間から離れていくのは、怖い。これから先彼女が元に戻るなんていう保証もないのだ。失うことは恐ろしくてたまらないから、ただこの状態を享受しているわけではない。だけど、このひどく不安な日々にも、甘い喜びはあっていいのだと思う。
今日彼女が血が欲しいと言ってこなかったら、こちらから尋ねてみようか。彼女の葛藤し、やがて幸福に溺れていく様子はきっと、この胸を満たすだろうから。