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美しき月閃
登場人物一覧
夕陽の沈んだ浅緋の空が次第に菫色へと変わっていく。
黄昏時の刹那の刻、昼と夜の境目のこの瞬間は不思議と寂しさが胸に広がるのだ。
僅かな不安と寂しさを覚えるからこそ、人々は家路に急ぐのかも知れない。
それは元の世界でも、この無辜なる混沌でも同じだった。
夢見ルル家は胸の中に流れる感情を、ありのままの自分を受け止め菫色へと染まる空を見つめる。
仄かに光るだけだった星が、幕が上がったと言わんばかりに一斉に輝き出した。
夜空の星に負けじと豊穣の街も明りが灯される。
煌々と照らされる電気の明りではない、蝋燭の火の揺らめきが心地よいとルル家は目を細めた。
「あら、もしかして飾りが足りない?」
ルル家が天香邸の厨房に顔を出した瞬間、聞き慣れた女房の声が聞こえてくる。
「どうしました?」
「ああ、ルル家さん。いやね、夕餉の菓子に桜の塩漬けを乗せようと思っていたのだけれど、買い忘れていたみたいで……」
桜の塩漬けはこの時期ならではの季節ものなのだろう。見目も良いため重宝される。
「では、拙者が買ってまいりますよ!」
「ごめんなさいね。お願いできるかしら?」
夕餉の用意をする女房たちを今から外へ出すより、身軽なルル家が買いに出た方が効率が良い。
天香家にとってルル家は既に『客人』というよりは、『家人』に含まれるのだろう。
それだけ、遮那や家の者との仲も良い。頼りにされている気がしてルル家は少し嬉しくなった。
「では、行って参ります! 直ぐ戻りますので!」
空を見上げれば菫色から紫紺へと染まり往くのが見える。
手持ちの提灯を持ってルル家は天香邸から街へと歩き出した。
女房も待って居るし、何より遮那の喜んだ顔が見たかった。
足取りは次第に楽しげなものに変わる。
「……夕餉を食べたら遮那君と稽古でもしようかな、それとも甘いお菓子を買って帰ろうかな」
何時もは大通りを通っていくけれど、今は急ぎだ。
少し昏いが提灯の明りもあるし近道をしようとルル家は小路へと入る。
大通りの明りも届かぬ暗闇に手元の明りだけがぼんやりと映った。
ふと、妙な気配がした。
此方を伺うような、纏わり付く嫌な視線を感じる。
「……誰ですか」
「…………」
暗闇の向こうからの返事は無い。
大方、天香に相反する貴族が差し向けた忍か何かだろう。
「待ち伏せですか、いいでしょう。拙者は強いですよ」
買い物に出たのが自分で良かったとルル家は思った。
これが、力の無い女房達だったら、簡単に捕えられていただろう。
ルル家は背負った刀を抜こうとして空を掴んだ。
「……っ」
――――刀が無い!
天香の当主である遮那の側仕えの他にもルル家には御庭番としての仕事があった。
豊穣に滞在している時は朝晩の見回りをしているのだ。
だから、いつも通り背中に刀を背負っていると思い込んでいた。
「天香の女房でも捕まえられればと思ったが」
暗がりの中から現れたのは口元を隠した黒づくめの忍だ。
「当主のお気に入りが丸腰で出てくるとは、……これは良い獲物ではないか?」
ルル家は拳を前に出して相手の出方を伺う。
刀が無くとも並大抵の人間ならば戦う事が出来る。冷静さを欠くことは一番の敗因となろう。
「……行け」
黒づくめの忍が発した言葉と共に、建物の影から更なる刺客が飛び出してきた。
背後から迫る刃を難なく躱し、続けざまに振り下ろされる太刀筋を足裏で弾く。
連携が取れた相手の攻撃にルル家は眉を寄せた。
正確な人数は把握出来ないが、影に潜んでいる者もまだ居るだろう。
されど、このような窮地、何度も潜り抜けてきたのだ。
「どうしましたか? こんな攻撃では拙者は倒せませんよ。貴方の飼い主の目は節穴のようですね?」
「ほう……この人数を前にして減らず口を叩けるとはな」
相手は貴族に仕える忍だ。雇われた傭兵よりもずっと主人を大切にしている。
だからこそ、その主人を貶された時には怒りを覚えるのだ。
冷静を装っているけれど、相手が僅かに感情を乱したのがルル家には分かった。
横薙ぎに振り抜かれた刃の先がルル家の腕を割く。
「……っ」
袖の隙間から血が零れて地面に赤い染みを作った。
痛みに気を取られた一瞬の隙に、もう一撃、肩に熱が走る。
それでもルル家は次の手を読んで後ろへ飛躍した。
「敵ながら見事よな。のう、我が主人の下へ参らぬか。お主ほどの力ならば……」
「誰が! 力の無い女房を攫うような輩の元へ行くものか!」
ルル家の言葉に忍は「だろうな」と笑った。
瞬間、肩に鋭い痛みが走る。
「ぁ……」
男の言葉に気を取られた一瞬の隙に、放たれた毒針がルル家の肩に刺さっていた。
肩から広がる痺れは、やがて全身に回る。
「どうだ、熊をも動けなくする神経毒だ。よぉく効くだろう?」
「……」
近づいて来る男を睨み付けるルル家。
どうすればこの窮地を脱出できるか、冷静になろうとすればするほど思考が鈍る。
「くくっ、先程まで暴れ回っていた小娘が、無様だな」
ルル家の髪の毛を掴み上げた男が顔を近づけて下卑た笑いを見せた。
口元が布で覆われていてもよく分かる程の低俗な笑み。
「天香の当主はこういう幼女が好みなのか?」
「まだ、尻も青いだろうからのう」
「違いない」
下品な笑いが薄れ往く意識の中で聞こえてくる。
このまま殺されるのだろうか。この場で殺されるだけならまだいい。
捕えられ、遮那に迷惑を掛けるのは御庭番として情けないことだ。
――ああ、怖いな。
そう思った。以前のルル家だったなら噛みついてでも抗い、死に物狂いで戦っただろう。
自分が傷付くことなんて怖くも無かった。痛みに恐怖なんてしなかった。
弱くなってしまった心を抱えて、死んで行くのかと涙が溢れ出す。
「おうおう、ようやくしおらしくなったぞ。泣いておるわ」
「そうして泣いている方が可愛げがあって良いぞ。嬲り甲斐が出て来た」
着物の襟を掴まれ引っ張られた。抵抗する手には力なんて入らない。
――嫌だ、嫌だ、いやだ!
「助けて、遮那くん……」
毒が回り薄れ往く意識の中、ルル家は愛しき人の名を呼んだ。
「――――ルル家ッ!!!!」
銀刀に月光が走り、一陣の風と共に黒き翼が舞い降りる。
琥珀の瞳は何時もより紅く深い色をしていた。
現れる筈の無いその姿に、ルル家の瞳が見開かれる。
「遮那くん……」
ルル家を一瞬見遣った遮那は彼女の服が乱れているのに気付いた。
「これはこれは御当主自らお出ましとは」
黒づくめの男はルル家の腕を掴み喉元に剣を突きつける。
「執務にかかりきりで随分と大人しくなられたとか、我々に敵いますかな?」
「逃げて、遮那くん」
自ら立つ事もままならないルル家が懇願するように首を振った。
「待っておれ、今助けるからのう」
一瞬だけルル家へと向けられた優しい笑顔。
次の瞬間には、遮那の纏う風が怒りに満ちていた。
「ルル家をこのような姿にしたのは貴様らか」
剣柄に手をかけ抜きはなつ遮那。
風が吹いた。
ルル家はそう感じた。
一呼吸置いてルル家の真横から血が吹き上がる。黒づくめの男のものだ。
表情は冷静に、されど瞳には紅き憤怒を揺らす遮那。それは嘗ての忠継を思わせるもの。
確実に相手を討ち取る殺人剣。迷いすらない、美しき一閃だ。
怒りを内包した遮那の剣はこれ程までに研ぎ澄まされているのか。
遮那の剣尖は、月の光のように冷たく命を刈り取る――
おまけSS『揺り籠の中』
どう、と最後の一人が倒れた頃に屋敷から御庭番達が駆けつけてきた。
遮那は彼らに後を任せ、ぐったりとしたルル家を抱き上げる。
「ぅ……」
「ルル家、大丈夫か?」
声を出すのも億劫な程、神経毒はルル家を蝕んでいた。
遮那は急いで屋敷へと戻り手当を行う。
薄らとした意識の中、遮那が頭を撫でてくれているのが分かる。
御庭番なのに、ごめんなさいと言おうとして目をそっと開ければ思ったよりも近くに遮那の顔があった。
心配そうに自分を見つめる遮那の瞳はいつも通りの琥珀色。
月光の下で輝く紅い琥珀も美しかったけれど。
やっぱりこっちの色の方が好きだとルル家は思った。
「起きたか?」
「……は、ぅ」
腫れぼったい喉から変な声が出て、仕方なくルル家はこくりと頷く。
先程の神経毒と負った傷で熱が出ているのだろう。
「まだ痺れる感じはあるか?」
少しだけ身体が動かしにくいが先程よりは随分と回復していた。
ルル家は遮那へとゆっくり手を伸ばす。
少しだけ心細くて。泣いてしまいそうだから。
遮那は傷口に響かぬようにルル家をそっと抱き上げて膝に乗せる。
「よく頑張ったなルル家」
あたたかな遮那のぬくもりに包まれて、ルル家は瞼を閉じた。
揺り籠のようにあたたかくて、安心する遮那の腕の中。
いつまでもこうしていたいと思ってしまうのだ。