SS詳細
灰になるまで、抱きしめて
登場人物一覧
出会いがあれば別れもある、なんて。
他人から聞くのも、自分に言い聞かせるのも――幾度その決まり文句を反芻しただろうか。
「聞き飽きてしまった」と、簡単に切り捨てられたらよかったのに。
幻想のとある地域。鬱蒼と繁る森の奥に、一軒の洋館が在った。悪霊共が棲まうと噂されるその館は、噂の内容こそ真であるものの、最近は生者の声で賑わってきている。
洋館の裏手に回って、しばし獣道を歩くと小さな広場に辿り着くというのは、洋館の一部の住人、あるいは来訪者だけが知っている。晴れた夜には星が綺麗に見えた。
時計の針は、そんな夜より少し前。夕暮れの時刻だ。クウハは独りきりで広場に姿を見せた。宙を眺めるように、ぼんやりと視線を漂わせながら広場の端に腰を下ろす。
彼は話し相手も居ない中、手持ち無沙汰に懐中時計の鎖をいじっていた。だが、次第に心が重くなり、懐中時計を懐にしまう。代わりに取り出したのは金色のネックレスだった。恋人からの贈り物だ。彼女のギフトによって創り出された弾丸のトップは、暮れかけの夕陽を反射し、鮮烈な橙に輝いてみせる。
「……ハンナ」
愛する人からの願いの象徴に思いを寄せて、クウハは苦しげに彼女の名前を零した。
ハンナと一緒に話したり、出掛けたり、同じ時間を歩んでいる。
『クウハさん、おはようございます』
朝、目覚めた後、彼女が穏やかに微笑む顔。
ハンナは普段、特に依頼中は気を張った表情でいる。そう在ろうとする姿も彼女の一側面ではあり、愛してもいた。けれど冷静を装った奥が見えるたび、尚ハンナを好きになり、大事にしたいと思った。
『へっ? ――嫌じゃ、ありませんけど。急でしたので少し驚いただけです』
繋いだ手を見下ろして、ハンナは少しだけ驚きと照れの仕草を見せる。そして、少女らしさを残した薄桃の唇を緩め、笑ってみせた。
恋人らしいことをしたときに、照れながらもしっかり答えてくれるところが好きだ。こんな風に愛し合う時間が、まだまだ続いてくれるように錯覚できて。
『……どうしたんですか。私なら、傍にいますよ』
こちらの寂寥が伝わってしまったのだろうか。真正面から見据えて言い放つ姿は、高潔で美しかった。
時には大空を舞う鷹の如き気高さが、彼女の表情に宿る。そのたびに彼女に惚れ直した。
嗚呼。楽しかった。幸せだった。思い出の一つ一つが愛おしかった。
その気持ちに偽りは無い。だけれど『普通の幸せ』を積み重ねれば積み重ねるほど、崩壊の刻が恐ろしくなる。
ハンナは強い人間だ。魔王という称号に恥じぬ強さを有している。並大抵の困難に敗れたりはしない。なんなら彼女に忍び寄る外敵は、クウハが駆除してみせる自信もあった。それでも死という結末には抗えない。どれほどに愛していても、いつしか別れを告げるときがやってくる。
――どれほどに、愛していても?
本当は違う。そんな風に愛を美化してはならないと、クウハは自らの欺瞞に首を振った。愛せば愛するほどに、心の中で醜悪な本能が疼いてしまうのだ。『自分』がハンナの魂を貪り殺してしまう可能性が恐ろしい。愛する者の魂は甘美であると、貪り喰ってしまえと、悪霊としての自己が囁き続ける。影の如く背後に存在し続ける。
代わりに悪人を嬲り殺してもまだ足りない。今日だって洋館を訪れているハンナに対し、昏い欲を抱いてしまった。変えられない本能を突きつけられるたびに、いつか齎されるかもしれない未来への恐怖を自覚してしまう。
深呼吸を一回、二回。瞼を閉じる。そして来るべき世界を想像する。彼女が失われてしまった世界を。
いつもと変わらない朝日はどことなく乾ききっている。洋館にいる友人たちはクウハのことを気遣ってくれるだろう。しかし、数多の声の中に彼女の声が存在しないことに足が止まる。昨日までは名前を呼んでくれた声の主が何処にもいない。
クウハは眉を顰めた。悲しみではなく、自己嫌悪に駆られてしまって。
「甘すぎるな」
友人を残してしまうような甘えは不要だ。自分にとって、彼らは――世界からの借り物なのだから。傍らに居て当然の存在と思ってはならない。我が物顔で幸せを享受してはならない。必要なのは強い諦念の意志だけだ。現実を見ろ……。
もう一度、世界を構築し直す。今度は独りぼっちの世界だ。静まり返った空間を見回しても誰もいない。助けの声を求めても全てが無意味。誰も都合よく抱きしめてくれやしない。
そうだ、それでいい。冷たい汗が流れ、胸が痛む。いつかの別離に備えるためとはいえ、これは間違いなく一種の自傷行為だった。ハンナが知ったら止めるだろうかと自嘲する。
だが、いずれ訪れる痛みの前払いならば安いものだ。
●
ふと、外の空気が吸いたくなった。
ハンナは読みかけの本をぱたんと閉じ、軽く伸びをした。自分用に宛てられた部屋を出て、一階に降り、裏口から外に踏み出す。決して狭くはない洋館だが、たびたび訪れる内に、どこに何があるかは大体把握できてきた。昼夜の狭間の、冷たい空気で肺を満たす。せっかくだから近くの広場まで散歩してみようと思い立つ。
だから、そこで彼と出会ったのはただの偶然だった。ハンナは先客の気配に身構えたが、クウハだと分かるとすぐに肩の力を抜く。彼もここに足を運びたい気分だったのだろうか? なんだか可笑しいような嬉しいような気持ちになって、彼女は無邪気に唇を緩めた。
「クウハさん」
そうやって名前を呼びかけると、クウハは驚いた様子でハンナに振り返った。
「ハンナ? 何でここに?」
「単なる散歩ですよ。クウハさんこそ、どうして?」
「俺はちょっと黄昏てただけだよ。黄昏時だしな!」
「……そうですか」
茶化してみせるクウハに、ハンナは苦笑混じりの微笑で応じた。けれど彼はそれきり口を噤んでしまったのものだから、ハンナは小首を傾げた。
彼は物寂しげに何もない空間を見つめていた。まだ現実に存在していないはずの何かを見ているようだった。すぐさま彼が思い悩んでいることを直感する。彼との付き合いは長いわけではないが、愛する人が悩み苦しんでいることを察せる自分で在りたいとは願っていた。恋人としてのプライドだ。
そして、悪霊という本能的性質が彼を苦しめている事実にも、すぐに思い当たった。きっと、他人に相談して解決する事柄であったら、クウハはこんな風に悩んでいなかっただろうから。彼を励ますための無数の言葉が頭に湧いてくる。
私は大丈夫です。そんなあなたを愛しています。あなたの重荷を背負う覚悟があります。元気を出して。笑ってみせて――。
励ましの願いは一瞬形を作り、音にならないまま消えていった。ハンナの面持ちは暗く沈む。彼に気の利いた言葉を投げかけて、それで問題が解決するのだろうか? 別れの苦しみは自分も解っているつもりなのだ。力が届かない痛みも、見送るしかない哀しみも、理解できてしまう。けれど、クウハほどに永い時を生きてはいない。仄暗い衝動に悩まされたことだってない。大丈夫と口にしたところで、何かの助言になるのだろうか?
同じ苦しみを共有できないことは明白なのだから、自分は無力だ。最終的には彼自身で折り合いを付けてもらう他ない。軍人として鍛え上げられた思考回路はいつだって冷酷で、正しい。
ハンナは言葉無くクウハの前に立った。騎士のように片膝を付き、彼の瞳を覗き込む。
「どうした?」
やはり思い違いは無かった。“らしくない”戸惑いと孤独感で、彼の瞳が揺らぐ。
自分の無力さは分かっている。分かっている、けれど。
……それでも、彼の力になりたかった。
クウハが好きだ。愛している。
彼と共に過ごす時間が大切に思えたのはいつからだったろうか。案外出会って間もない頃からだったかもしれない。しばしば揶揄われるのも嫌いでなかった。揶揄われたと気付いたときはびっくりするけれど、その後に浮かべる陽気な笑顔が好きだった。彼と一緒にいると、磨り減った筈の心が新鮮な昂ぶりを見せて、自分でも不思議な心地がした。『私たち』の未来を思い描き、約束してくれて嬉しかった。
そして、彼が寂しそうに佇むたび、苦しみの棘が取り除かれることを望んだ。今もそうだった。
ハンナは彼を抱きしめた。細い腕と共に翼を目一杯広げ、彼の全てを包み込む。その灰色は死者の燃え尽きる色……。
せめて、この想いだけでも。それは一人の人間から人ならざるモノへの、祈りであり、叫びであった。
たとえどんなことがあろうとも――私はその最後の時まで、あなたのそばにいます。
「ッ……!」
クウハは目を見開いた。己より暖かい生者の体温に、どくりと胸が高鳴る。彼女は苦しみ悩んでいる自分に寄り添おうとしてくれているのだ。そう思い至った瞬間、愛おしさが膨れ上がる。膨れ上がってしまう。愛と表裏一体の欲望を伴いながら。
いっそのこと、今此処で喰らってしまおうか――。
夜影に染め上げられつつある世界、彼女の白い首筋が浮かび上がる。胸の内で真っ黒な欲望が鎌首をもたげた。ハンナの魂は一体どんな味なのだろうか? 極上の甘美を堪能できるに違いない。恋人に打ち砕かれた瞬間の、絶望に歪む顔も悲鳴もさぞや美しいことだろう。全て全て余すことなく楽しませてくれるはずだ。だってこんなにも愛しているのだから!
衝動的に肩を震わせたクウハを、ハンナは変わらず抱き続ける。
……駄目だ。
片手に持ったままの弾丸を、一際強く握り締める。彼を狂わせるのが愛ならば、正気に引き戻すのも愛だった。
彼女が抱きしめてくれている理由をクウハも分かっていた。たとえ何も言わずとも、クウハの耳には確かに声が届いたのだ。温もりに満ちた、儚い声だった。
別れは必ずやってくる。望もうが、望ままいが、必ず。
だが、無惨な別れ方は絶対に許さない。
生き物とは年を刻んでゆくものだ。ならば、年老いた彼女が、静かに瞼を閉じられるまでは。辛いこともあったけれど、それ以上に幸せに溢れた人生だったと振り返るまでは。
だって、……そうだ。熟した果実はより甘みを増すのだから――違う、美しき彼女には幸福が訪れるべきなのだ。こんな悪霊の牙には掛からせてやらない。
強く心に決めれば、ぐるぐると渦巻き続ける飢餓は、次第に息を潜めていく。そんな未来はやってこないのだと、最期に呪詛を残して。自分の影を完全に退けたわけではないだろうとは直感できた。
彼女に向けて、心の中で返答をつぶやく。
あなたの最後の時まで共に在れる様、悍ましい本能を抑え込み、この苦しみを耐え忍んでみせるから。どうか命尽きるその日まで傍にいてくれますように……。
しばらく、そのままで居ただろうか。夕暮れ時はもはや過ぎ去り、夜と言っていい時間帯だ。先に沈黙を破ったのはクウハだった。
「ありがとう、ハンナ。……大丈夫だ」
そう囁くのを聞いて、ハンナは腕の力を緩める。間近で向かい合った彼の表情は、幾ばくか晴れやかに見えた。一瞬、引き攣るように片瞼が震えたけれど。
「もう暗いな。帰ろうぜ。いい女を狙う悪い輩が現れる前にな! ま、現れたところで俺がとっちめてやるけどさ」
「私なら自力で撃退できますが」
「俺様にもカッコいい姿を披露させてくれよ」
二人は立ち上がる。クウハはけらけらと笑いながら、守護の弾丸を握っていない方の手をハンナに寄せる。お互いの指がこつりと触れ合い、どちらからともなく絡め合った。
「わかりました。そこまで言うのであれば、ちゃんと護ってくださいね。私は後ろから撃てばいいんですよね?」
「そういうことじゃなくて――いや、それはそれで大アリだな。好きだぜ、ハンナ」
突然の愛の告白に気が動転したのか、ハンナは口をはくはくと動かす。
ついさっき今の自分よりよっぽど大胆な愛情表現を行ってただろとクウハは考えたが、突っ込まないことにした。代わりに彼女の照れる顔をひとしきり堪能しようと決める。
帰り道は暗く、歩き慣れた道でなければ躓いてしまいそうだった。
だけれど――いつか、何かに裏切られるとしても、この瞬間に抱いた願いは本物だったから。
そう思えば、今の夜道を往くには、充分すぎるぐらいだった。
- 灰になるまで、抱きしめて完了
- NM名梢
- 種別SS
- 納品日2023年05月03日
- テーマ『『春の雨降る』』
・ハンナ・フォン・ルーデル(p3p010234)
・クウハ(p3p010695)
※ おまけSS『前日談』付き
おまけSS『前日談』
「クウハ、浮かない顔をしてるな。何か悩み事でもあるのか?」
心ここに在らずといった様子で歩くクウハに、青年の幽霊が声を掛けた。
「バレちまったか」
「どうせ恋愛絡みよ。お兄ちゃんは乙女心に疎いんだもの」
割って入った声は、廊下に飾り付けられている絵画から聞こえた。絵画に描かれている可憐な少女は、金色の髪をくるくるともてあそびながら、クウハたちを見つめている。
「はいはい、マイフェアレディ。最近エスコートしてあげられなくてごめんな?」
「……そういうところよ」
「そんなに駄目な返しだったか?」
絵画の少女はむすっと唇を尖らす。クウハは首を傾けた。
「俺に恋愛を訊かれてもなぁ。クウハは全世界に友人だか手下だか視聴者だかがいるんだろ? そいつらに相談したらいいじゃないか」
「ヤダよ。炎上するだろ」
「今更??」
「まー炎上するのは百歩譲るとしても、ファンを減らしたくねェんだよ。可愛い子猫ちゃんたちのファンをな!」
「……」
思わず黙りこくった青年の幽霊に対して、クウハは勝ち誇ったように鼻を鳴らす。沈黙が落ちたのも束の間、誰かがクウハの服の裾を引っ張る。子供たちの幽霊だ。
「ねーねー、リチャードさんたちに相談するのはどうなのー?」
「毎日口喧嘩してるような夫婦にか? ま、ああやって尻に惹かれ――敷かれかけてる姿は他人事とは思えねェけどさ」
「酷いこと言いかけたな」
「マジで噛んだ」
「今、下半身の話をしましたか!? 私への当てつけですか!?」
足元から甲高い声が聞こえたかと思うと、血塗れの幽霊が這いずってくる。
――まずい。面倒な状況になってきている。
もっとやる気のある時なら乗ってもよかったが、今日のクウハは純粋に面倒臭くなってきていた。
そんな折、廊下の向こうに救世主の姿を見かける。ハンナだ。騒がしいからと様子を窺いにきたのか、遠目でこちらを見ている。
「…………。ハンナ!!」
「あぁ、クウハさん。住人の皆さんも。こんにちは」
クウハは突如として大声を上げる。ハンナはぱちくりと瞬きをした以外は動じずに応じるが――そんな彼女にクウハは速やかに近寄る。そして二の句を継ぐ前に腕を組んだ。
「待たせたか? 待たせたよな? 早速行こう!」
「え? 用事なんて無かっ……いえ、分かりました。行きましょう」
「じゃ、またな!」
状況を察したハンナはクウハの気持ちを汲み取ってみせる。二人はすたすたとこの場を去っていった。
なんだか二人の仲の良さを見せつけられた気分で、青年の幽霊は再び沈黙した。そしてぽつりと呟く。
「逃げたな」
「逃げたわね」
「ワン!」