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シラス(p3p004421)
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シラスの関係者
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シラスの関係者
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 幻想王国レガド・イルシオンの空は高い。顔を上げれば見える王城の壁は遙か空の上にあるかのようにも思えた。見上げれば英雄の島と称される空中神殿が見えた。御伽噺で語られたその場所が少年にとってはあり得ないものの象徴であった。王都より少し下っただけで、世界は大きく変わる。我楽多に塗れたその場所は泥と煤の気配がこびりついていた。それがこの国が腐敗した果実と称される理由をまざまざと思い知らした。
 申し訳程度に薄い壁で作られたアパートの窓を雨音はこれでもかという程に叩いた。曇天模様の空はの姿を見せることはなく、お前なんてちっぽけでそれ程度だとでも言っているかのようだった。
 瞼を伏せってから毛布ですっぽりと頭まで覆い隠した。厭になるほどにうざったい雨音から一刻も早く逃れたかったからだ。
 ――ちゃん。
 毛布をはぎ取る様に揺さぶってくる感覚に少年、カラスは瞼をのろのろと押し上げた。慣れた声音と、小さな掌が一生懸命に揺すり強請る様な声音で呼び掛けを続けてくる。
 ――お兄ちゃんってば。
 瞼を開ければ現実に逆戻りだ。夢の世界で感じていた高揚と現実逃避は見事に砂時計を逆さにしたようになくなった。のろのろと瞼を押し上げた先にあったのは染みのついた見慣れた天井に薄い壁、それから嫌という程に見慣れてしまった弟の顔だった。何も辛い事など知らないという幼い青い瞳が嬉々とした色を浮かべてカラスを見下ろしている。
 鼓膜を叩き続けるうざったい程リズミカルな雨音を聞きながらカラスは丸めたせいで傷んだ腰を擦りながら舌打ちを漏らす。勢いよく起き上がったせいで弟は「わあ」とバウンドして地面へと転げ落ちた。
「んだよ、起こすんじゃねえっつたろ……折角よぉ」
 ――折角、何だっただろうか。何も思いだせない儘でカラスは自身の髪をがしがしと掻いた。粗末な電灯の下でもきらりと光りを帯びて見せる金の髪がカラスにとっては嫌がらせのように見えて酷く鬱屈とした気持ちが湧きあがる。弟にとっても母に似ていない外見が『お兄ちゃんだけ仲間外れ』に見えてなのだそうだ。
(あんな女に似たお前の方が可哀想だ)
 言葉を丸め込んで、腹の底から煮え立った苛立ちを諫める様にシッ、シッと犬を追い払う様な仕草でカラスは弟を追いやった。
 普段であれば残念そうな顔や膨れっ面で退散する弟は困り顔で「違うんだ」とカラスを見上げた。ビー玉のように丸い瞳はこの世界に汚いものなんてないとでも言う様に済んでいるのだから兄はこれに弱い。追い払わんとした手を下げて「ンだよ」とぶっきらぼうに彼に言葉を求めれば、丸い瞳は困った色を湛えた儘に「あのね」と言った。
「お母さんが二人で出かけておいでって……あっ、でもチョコレートくれたんだよ」
 ポケットの中から銀紙に包まれた安っぽい菓子を取り出して、嬉しそうに半分こだよと笑った弟にカラスは苛立った。この安っぽい家に子供が居て都合が悪いとなれば女が考える事は一つだけだ。どうせなのだ。理由を聞く事もなく、いつも通りのクズの行いおとこをつれてくるのだ。
 そんな事など露知らず、チョコレートを一つ持たされて、兄と出かけておいでと余所行きの服――そうは言っても安っぽい服だ。家の中では古着ばかりだというのにこういう時だけ用意は周到なのが腹が立つ――を着せて笑顔で声をかけてくるのだ。
『お母さんがお兄ちゃんと二人でお出かけしておいで』と物事を理解する年頃になった自分自身に合図を送る。生活の為ならば仕方がないという事をいやという程に理解しているカラスにとっては女――母と呼ぶのもカラスにとっては汚らわしかった――の行いを否定する事はできないが、外に降り荒む雨の日だけは止めろと何度も言ったのだ。

『どうして?』
 ――どうして?
『雨でも、雪でも、どんな日でもお客さんは来るのよ? 逢いたいって言われれば会うしかないの』
 ――俺達はどうすんだ。シラスなんてまだ小さいのに。
『カラスが風邪、ひいちゃうわね……ごめんなさいね……?』

 母は弟には無関心だった。以前、母の店のオーナーに聞いたことがあった。そして、自身の出生についてあらかた調べた事のあるカラスにとっては母のその態度がどういう事かも厭という程に理解できていたのだ。
 美しい黒髪を持った穏やかな女。それが二人の母であるマコ――その時は又別の名であったらしい――だった。有力貴族の愛妾であり、幸福な日々を過ごしていたが腹に芽吹いた命を産む事を赦されず出奔したそうだ。
 マコは其れ故に、愛しい男の子供であるカラスを慈しみ愛した。しかし、貴族と関わることを禁じられ禁忌のように誰にも喜ばれぬ出産をした女は其れ故に不幸の路に浸かることを選んだのだ。そして、その沼の中で望まぬ儘に新たな命を授かった。それが弟、シラスであり、母によっては『不幸の象徴』だったのだ。
 半分だけの血の繋がり。それも、の血だけで、シラスは父すら知れぬ身の上なのだ。カラスにとってはそれでも大切な弟でありかけがえのない存在であったのは確かだ。確かだったが……。
に言え。雨降ってんだよ。どこに行きゃいいんだってな。
 それともオマエが何所に行くか考え付いてんのか? シラスよぉ?」
「あのね、あのね、お父さんを探しに行きたい」
 カラスの中で時が止まった。口汚く関わってはいたが大切な弟だった。それこそ、父がいないその心の隙間を少しでも埋めてやれればと――兄なりに、考えていたのだ。
「……はあ?」
 思わず唇から漏れたのは仕方がない響きであったのかもしれない。開いた口が塞がらないというのはこのことを言うのか。カラスは痛む頭を押さえて「何を言ってんだ」と呟いた。
「だって、お母さんってば、いつもお兄ちゃんのお父さんの話ばかりでしょう?
 でも皆に聞いたんだ、そうしたら街中にいるって、探せば直ぐ見つかるって、だから僕の――」
 か、と頭に血が上った。弟にそんな事を言った奴にだ。それを真正面から素直に受け止めた弟にだって腹が立った。
 この穢れも知らない、穢れの象徴。娼婦ははという不幸の塊を背負って惨めだと思い知らす様に弟に言ったのだ。
「――この阿保が!」
 弟の肩が大きく跳ねて唇が戦慄いた。思わず、泪が毀れそうなほどにその大きな瞳が見開かれる。こんな雨の日なんかじゃない、晴れのような明るさを持った済んだ瞳に雨が降る。
「テメーは馬鹿にされてるのも分からねえのか!? 何回言わせんだよォ! 親父なんかいねえ! 俺達にゃ親なんかいねえ!」
 胸倉を掴み上げ、そのか細い体を持ち上げる。「う」と小さく漏らされたその声にカラスはハッとしてシラスを見下ろした。薄い胸板が大仰な程に動く。緩めた手から零れ落ちたのは服だけではない。
「いる! 絶対にいるよ!」
 噛み付くような声だった。シラスの手がカラスを押して逃げる様に走り去っていく。唇が戦慄いた。雨が降っている。うざったいくらいにハウリングしている。カラスは苛立ちをぶつける様にテーブルを蹴り上げた。
 ソファから滑り落ちた毛布を投げ捨て頭を掻きむしる。畜生、と何度も唇から漏れた声を聴く者は誰も居なかった。


 そろそろ出かけて欲しいのだとマコはカラスにそう言った。苛立ちを隠せぬ儘、立ちあがったカラスに「気を付けてね」と柔らかな声音が返ってくる。
 其処にシラスが居ない事さえも彼女は気にしていないのだとカラスは又も苛立った。
 シラスの云う言葉の通りだ。カラス自身はマコが愛妾で会った時に貴族との間にできた子供であり、シラスは客との間に何時の前にか芽生えた命だった。
 のは間違いではなく――きっと、その言葉は父を探したシラスを莫迦にしながらも真実を伝えていたのだろう。カラスも、そして目の前に立っているマコでさえも知らないのだ。
 マコはそれを気にする素振りもない。穏やかににんまりと笑い、幼い少女の様な無垢な顔をして――それはシラスと同じだ。何も知らないような顔をしている――男にその身を明け渡す。酒と薬に染まった身体を、享楽的に貪られる事さえ、彼女は何の感慨も抱かぬように穏やかに笑っていた。
「……分かってんだよ」
「そう。気を付けてね?」
 言葉を交わす事は控えたかった。コートと傘をひったくりカラスは外へと出た。シラスの姿が見えない事に僅かな不安を感じ、その儘、街の中を走る。


 ざああ――と雨が降り続ける。その音をシラスはそこまで嫌いではなかった。雨であろうが、兄はぶっきらぼうなりに傍には居てくれた。母の語った『お父さん』の話が幼いシラスにとっては羨ましかったのだ。

 ――でも、そのお父さんは僕のお父さんじゃないんだ――
 ――お母さんはお父さんの話をするときにお兄ちゃんを見てる――
 ――僕のお父さんとお兄ちゃんのお父さんは違うんだ――

 幼心でも、それは気付いてしまった。母が向ける視線の違いが、あまりにも苦しくて。
 傘を差したまま、隣の地区までやってきて『お父さん』の事を聞いた。迷子なの?と優しく声をかけてくれた老婦人は最後にはおかしなことを言わずにお家に帰りなさいとキャンディを一つくれた。
 橋を渡る。見下ろした水溜りには淋しい顔をした自分が写っていたことに気付きシラスはぎこちなく笑った。
 勢いよく飛び出してきて、きっと『お兄ちゃん』は怒っている。あまり一人で遠くに行くな、と叱りつけてくれた声音を思いだして、ゆっくりと伸びた影を追い掛けた。
 夜の気配が迫ってくる。降る雨を受け止めて一歩一歩、雨音に合わせてリズミカルに進み続ける。
「よぉ」
 背筋にぞ、と何か気配が過った。背を虫が這いずるような――雨垂れがぴちゃりと耳を撫でた様な声であった。
「坊主じゃねえか、こんな所で何してんだ」
 ゆっくりと顔を上げたシラスはその男をしっかりと見た。開襟シャツからシルバーの首飾りを覗かせた男だった。その眼は何時だって誰かを小馬鹿にしたような色を帯びており、兄も嫌っていた。シラスも同じだ。その男の事がシラスは嫌いであった。
 その男はよく家に来る。そして母は辛そうな顔をしていた。美しい顔を青くしてぐずぐずと泣いていた。
 シラスが目を背ければ男は舌打ちし、その細い肩を掴み上げる。
「おいおい無視かよ、てめえら兄弟はマジでどういう躾されてんだぁ?」
「……お父さんを見つけに来たんだ、直ぐに見つけて帰るから放っといてよ」
 それ以上は言うつもりはなかった。男と関わることなんて面倒だったのだ。ちら、と男を見上げれば莫迦にしたような薄汚い視線ではない――虚を突かれたような顔をしてから、その目元に笑みを讃える。シラスはその笑みの意味が分からずに男を凝視した。
 ぽかんと開けていた口から大仰に漏れ出した笑いは心底面白いものを見つけた子供のような響きを宿している。心の底からの笑みが「アハハ」と響き渡り、シラスはむと唇を尖らせた。
「アハハ! 何を探してるってお前! ウワハハ!」
「何だよ! 笑うな、笑うなよぅ……」
 ぐ、と悔しさがこみあげてシラスはズボンを握りしめる。きっと彼だって父は居ないだとか、見つかる訳がないと言っているのだとシラスは認識した。
「こんなの明日死ぬって時でも笑うよ! そりゃ、お前の母ちゃんが相手は大勢いるもんな、日が暮れるだろうさ。俺だったりしてなあ、ヒャハハ!」
 その響きが、母を莫迦にして居る事に気付いてシラスは男の腕に力一杯の爪を立てた。意味は分からなかった。お前のような男が父な訳ないとその意味を込めて一気に引っ掻いた。
「痛ってえな、よーしよし。父さんが教育してやるよ―――ほれっ!」
 その儘、男は笑った。三日月のように目を細めた厭らしい笑みの男は拳骨を振り上げ――ごん、と鈍い音がした。
 何かの音がする。シラスは自身が殴られたのかと反射的に閉じていた瞼を震わせ……痛みが無かったことに恐る恐ると目を開く。
 金の髪が揺れている。自分と母に似ていないとだと認識したあの、陽の色みたいな綺麗な髪だ。
「お兄ちゃん!」
 シラスがそう声をかければ兄は、振り向いた。ぜいぜいと肩で息をして、後ろに開襟シャツの男が倒れていると認識したシラスをぎ、と睨みつけてくる。
「お、お兄ちゃん、僕……」
 一人で飛び出した事を怒っているのだ、と思った。それで、大人に絡まれたのだ。どう言い訳のしようがあるだろうか――?
 母のお客様には声をかけちゃ駄目。
 一人で遠くにでかけちゃ駄目。
 シラスは兄より言いつけられたその言葉を頭の中で逡巡させながら声を震わせた。謝らなくてはならない。
 そう思い、顔を上げたシラスは口を開く前に感じた温もりに目を見開いた。
「お、おに――?」
 ぎゅ、と抱き締められていることに気付いたのは兄の肩が震えていたからだった。
 暖かい、と。そう感じる。落ちた傘の向こう側に男が倒れている。どうしたんだろう、とシラスは思った。
「悪かった」
 只のそれっきり。
 兄は其れだけ言った。それっきりで黙って、震えた肩が余りにも細く見えた。
 大切な兄。優しくはないけれど、それでも格好良くて自身を導いてくれた兄。その兄が、震えている。
 何も言うことができずにシラスはゆっくりと顔を上げる。空から降る雨はずっとシラスとカラスの肩を濡らしている。
 頬に落ちた滴の暖かさにシラスは顔を上げて、何も言わなかった。
 影が伸びていく。陽が徐々にその姿を隠して夜がやってくる。
 そのわずかな時間の間――たった、それだけの時間が、シラスにとってほんのわずかなだった。

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