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愛を喰む
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「これは宝石化という病ですね」
医者の声は淡々としていた。睦月の瞳を大きく映した写真が机の上に置かれ、その赤色の瞳が鉱物に置換されている様子を見せつけられる。
黒目のある部分を中心に、赤色の鉱物が根を張っている。彼女の睫毛も、薄い瞼もそのまま人の形を保っているのに、瞳だけが生き物の姿を失っていた。
「こんなことって」
史之の隣に座る睦月は、もう目が見えない。明るさはなんとなく分かるし、視界もほんのりと赤いそうなのだが、物の輪郭は分からないのだという。だから医者が差し出した写真は彼女の瞳には映らない。だけど睦月は史之の声から、自らの症状の深刻さを感じ取ったらしかった。
彼女の細い指が伸ばされて、史之の腕や手を探す。漂う手に史之も手を伸ばし、離さないように絡ませる。睦月の強張っていた指先からだんだん力が抜けて、大人しく史之の手の中におさまった。
「治ります、よね」
睦月は何も言わなかった。ただ俯いて、医者と史之のやりとりを聞いている。
医者が躊躇うように息を吸った。絡んだ睦月の指に、再び力が籠る。
「残念ですが」
医者から告げられた言葉は、あまりにも残酷だった。
その晩、睦月は泣き喚いて当たり散らした。
「どうして僕は死なないといけないの」
睦月の目は、白目の部分まで宝石に変わってしまった。医者が言うには、一週間もしないうちに、全身が宝石に置換されてしまうらしい。
宝石化の病の治療法は、まだ見つかっていない。進行を止める方法は罹患した部分を取り除くことのみ。摘出で彼女が助かるのならと思い医者に懇願してみたが、困ったように首を振られた。睦月の場合は宝石化が進んでいる部分が広く、脳も宝石になりかけているとのことだった。
つまり睦月は、もう助からないのだ。
「嫌だ、宝石になるなんて嫌だよ」
病院にいた頃は黙り込んでいた睦月も、家に帰って、自らの瞳に触れた途端に泣き崩れた。ただ視力を失った事実を飲み込んだだけでなく、明確に死を理解した瞬間だった。
睦月の病の進行は早すぎる。じきに彼女は言葉を話すことすらできなくなり、身体も動かなくなっていくだろう。そうして残るのは、人の形をした赤い宝石のみ。
「しーちゃん、どこなの、助けてよ」
傍にいるのに、睦月にはそれが分からない。触れなければ、ここにいるのだと気が付いてもらえない。
睦月の震える肩を抱き寄せ、宝石と同じ色の涙をぬぐう。触れた頬は冷え切っていて、人としての在り方が失われつつあるのだと思い知らされた。
睦月は、助からない。
「カンちゃん」
自分の声が震えているのを、誤魔化すことができない。
「しーちゃん、泣いているの」
「だって、カンちゃんが」
睦月の手が、そろそろと史之の背中を辿る。首をぺたぺたと這うそれがやがて頬に伸ばされ、濡れた部分をそっと拭った。
「しーちゃんの顔、もう見えないの」
こんなことになるなら、もっとしーちゃんの顔を見ておけばよかったよ。睦月が無理矢理に笑う。零れ落ちた赤色の雫が、頬を不自然に染めた。
「僕、しーちゃんと生きていたかった」
「俺も、カンちゃんともっと生きていたかったよ」
一緒だね。二人の身体を強く抱きしめ合う。睦月の赤い涙と、史之の透明な涙が混ざり合って色を変えていった。
「僕の目、ガーネットになったんだってね」
ガーネット。その希少価値はともかくとして、人の大きさほどの宝石となれば、どれほどの価値がつけられるのだろう。それが人から作られたものだとしても、それさえ知らなければただの大きな宝石だ。
「しーちゃん、僕の身体、守るの大変だね」
宝石化の病は決してよく知られているものではないが、この世に悪事を働く人間なぞ山ほどいる。そんな人間に大きなガーネットの存在が知られれば、奪って売りさばこうとする者が生まれるのは想像に容易い。
「カンちゃんの身体は、誰にも奪わせないよ」
自分以外の、誰にも触れさせたくない。金に目が眩んだ者によって、穢されたくない。彼女は自分のものだ。自分でない誰かが所有するなんて、許せるはずがないのだ。
そもそも、なぜ睦月なのだ。なぜ睦月がこんな病に冒され、命までを奪われなければならないのだ。睦月はまだ、大人にもなれていないのに。結婚したばかりなのに。まだ、まだ、生きていないといけないはずなのに。それなのに、どうしてこんなにも理不尽に奪われなければならないのか。
「誰にも、奪わせない」
睦月の死は、変えられない。運命を捻じ曲げることはできない。ならばいっそ、自分が奪ってしまおうか。
人の人生において、死とは大きな終着点だ。その最期を、病などというものに彩られてしまうくらいなら、病魔に完全に冒される前に、この手で飾りたい。
「カンちゃん、ねえ、食べてもいい?」
食べるって、どういう意味。睦月が首を傾げる。その傾いた頬に手を添えて、その柔らかさを手のひらに刻む。
「そのままの意味だよ。カンちゃんを俺が殺して、料理して、食べるんだ」
睦月が驚いたように息を飲んだ。再び強張った身体を優しく抱きしめて、史之は彼女の耳元で囁いた。「そうしたら、二人でずっと生きていけるから」
食物として喰らってしまえば、彼女の身体は史之の血肉となり、史之の身体に住み続ける。それは彼女がこの世から消え去った後も、この肉体で生き続けるということ。
禁忌だということは分かっている。だけど彼女が宝石に変えられてしまうくらいなら、自分の中に取り込んでしまいたいのだ。
「何に料理してくれるの?」
睦月の強張った身体から、力が抜ける。同時に、彼女には見ることができない微笑みで、史之は呟いた。
「そうだな。ハンバーグ、とか?」
美味しく食べてね。それが睦月の答えだった。
睦月の手が、史之の頬を手繰り寄せる。史之もまた彼女の頬に両手を添え、お互いの唇を寄せ合った。甘くて苦い、涙の味のするそれを何度も啄んで、ゆっくりと身体を離した。
「愛しているよ」
「僕も、愛しているよ」
さようなら。愛おしい人。
頬に添えていた手を、細い首に滑らせる。
細い悲鳴が、最後に聞いた彼女の声だった。
***
血抜きは済ませた。溢れた血はワインとして飲み干すつもりだ。彼女の身体を巡り、頬の色を赤くさせていたそれは、どれほど甘い味がするのだろう。
内臓を取り出し、皮を剥ぐ。それからばらばらにし、肉塊へと変えていく。
すぐに食べたいのは山々だけれど、今の状態だと死後硬直のせいで固すぎる。彼女と約束したのだから、美味しい状態で食べなければならない。数日熟成させて、柔らかくしなければ。
肉が食べられるようになるまでの間を、空虚さと苛立ちに似た興奮の間で過ごした。睦月がいなくなった悲しみと、自らが最後をもらい受け、そしてもうすぐ一つになれるという喜び。その感情の波が交互に訪れては、史之の胸を揺らし、叩き、粉々にし、何度も何度も作り直していく。
あと少しで、一つになれるから。
喪失を思い出す度に、何度も言い聞かせた言葉だ。それが脳に染み付いて離れなくなった頃、肉が食べごろになった。
「カンちゃん」
繊維が多い部位は柔らかくなるまで煮込んでシチューにした。柔らかな部位は塩胡椒でソテーにしたり、タレを作って照り焼きにしたりした。
愛する人の身体を、一つひとつ調理していく。その度に胸の奥に出来上がった空虚さが抜け落ちて、痛みを伴う喜びで満たされていく。
ひき肉を作ってハンバーグ、ミートソース、ソーセージ。薄切りの肉は肉じゃがや生姜焼きに。
調理を終えてから、血のワインを取り出す。「最後の晩餐」の始まりだ。
最初に箸をつけたハンバーグは柔らかくて、噛む度に肉汁が溢れた。次に手を付けたのはシチューで、口の中でほろほろと崩れていく肉から旨味が零れる。
「カンちゃん」
美味しい。
「カンちゃん」
美味しい。美味しい美味しい。
「ねえ、カンちゃん」
美味しい美味しい美味しい美味しい美味しい美味しい美味しい。
「ああ、愛しているよ」
最愛の人を食する行為。最愛の人と繋がる行為。料理を口に運ぶたびに、彼女の身体が自分に溶けていく。
こんなにも美味しいものは今まで一度も食べたことがない。今後もこれほどの美味にありつけることはないだろう。この舌に美味しいと感じさせるための情を、今この場ですっかり食べてしまおうとしているのだから。
夢中で貪った。空いた皿の数が、二人が繋がりあった証。
「愛してる。愛しているよ、睦月」
満腹感を感じると、かつて睦月と共に過ごした時間を思い出す。最初に出会った時のこと、従者として過ごしたこと、幼馴染として過ごしたこと、結婚したときのこと、それから、それから。その一つひとつを腹に収めて、新たな料理に手をつける。
最後に手をつけたのは脳だった。彼女が抱えていた記憶を食べつくすことで、この儀式は完成する。
頭蓋骨ごと蒸し焼きにした脳を匙ですくうと、睦月の笑った顔や泣いた顔が思い浮かんだ。泡のように弾けそうになるそれらを噛み締めて、料理を口に運ぶ。
とろりとした食感。これが彼女を彼女たらしめたものの一つ。
匙を進めていくごとに、確かな高揚が史之の脳を支配していく。その充足を味わいながら再び匙をさしたとき、カツンと固い音がした。
骨にしては位置がおかしい。まさかと思い周囲の料理を平らげると、そこから覗いたのは赤色の宝石が二つ。最初に宝石化した、彼女の瞳だった。
宝石を手に取り、その硬さを確かめる。完全に結晶化していて、食べられるものではなかった。
食べきれなかった。彼女と完全に一つになることができなかった。不完全な繋がりで、自分たちはこの先どうやって過ごしていけばいいのだろう。
赤色の結晶に舌を這わせ、そこについた脳をすくいとる。涙が溢れて止まらないのに、赤色の輝きだけは妙に感じ取れた。