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コッペリアと、スワルニダ
登場人物一覧
緊張――という言葉を全身で表現している状態、と言ったら伝わるだろうか。
ぴん、とはった背筋。いつもの無表情に、なにか、むーっ、と口を引き絞ってしまうのは、ともすれば、ふにゃりと柔らかく笑ってしまいそうになるから。
フラーゴラ・トラモントといえば、今日はずっと、朝からそんな感じだった。部屋の鏡を前にしてみれば、そんなふうな少女の姿がうつる。いつもより、硬いかもしれない表情。
「……笑った方がいいかな」
小首をかしげてみるが、そうなれば、なんだかだらしない表情になってしまうような気もして、フラーゴラはほほに手を当てて、むぅ、と声を上げた。
アト・サインとデートの約束をしたのはいくばくか前の話である。闘技場で優勝したらデートしてあげてもいい――それはアトにとっては冗談のようなものだったのだが、しかし乙女心に火をつけてしまったのは事実だ。フラーゴラは研鑽と努力、そして一筋の運をつかみ、見事にチーム優勝という栄誉を勝ち取った。その事実に対して、アトはこんなことを言ったという。
「え……マジで……?」
乙女を信じない男が悪いのだ。乙女のパワーは、いつだって男の予想なんて軽く超えてしまう。
さておき、そんなわけだから、デートの約束は結実することとなった。バレエ鑑賞をしようか、といったのは果たしてどちらからだったか。フラーゴラからいったのかもしれないし、アトから誘ったのかもしれない。ただフラーゴラにとってはバレエ鑑賞なんて初めてのことで、自分の口からこぼれた誘いとは思えなかった。いや、勇気を出して誘ったかもしれない。覚えていない。それくらいに、なんだか夢のような時間だったのは確かだ。
夢と違うのは、これは現実の続きで、今日はアトとのデートの日である、ということなのだけれど。
クローゼットから取り出したのは、今日のためにあつらえたドレスだ。赤を基調としたそれは、フラーゴラの白い肌によく似合っていた。第三者が見たらそういうだろう。自分でも、ちゃんと似合う、と思うドレスを選んだつもりだった。それでもやっぱり、実際に想い人にあってみるまでは不安だったのは、仕方がないだろう。
なんにしても、決戦の時はもう間もなくだった。バレエ鑑賞は午後からで、窓からのぞく太陽は、刻一刻と頂点から落ちていくのがわかる。仕方がない……という気持ちとはまた違うが、せかされるような気持を感じながら、フラーゴラは決戦への準備を整えることにした。
「うん、よく似合っているよ」
出会い頭にそういってくれたのはうれしかった。バレエホールの入り口で、人並みの中にお互いを見つけた二人。アトが開口一番にそういったのは、果たして彼の気まぐれか、本心か。いつもと変わらぬ様子のアトからは、それをうかがい知れなかったけれど、フラーゴラにとっては舞い上がるくらいにうれしい言葉だ。
「アトさんも、かっこいいよ」
わたわたとした様子で、フラーゴラがそういう。そうかい? といってみせるアトのいで立ちは、『victorian century formal suit』――つまり、19世紀の紳士風のそれ、である。アトのすらっとした印象にはよく似合っているといえた。
「それじゃあ、行こうか。ちゃんと席も取ってある。誘った側としては、エスコートしないとね」
いつも通りにそういうアトが、その手を差し出して見せた。フラーゴラはドキドキする気持ちでそれを取って、ホールの中に入っていった。
用意されていた座席は、前列中央。ムードもなくいってしまえばいわゆる『S席』に値するするところだ。
「バレエっていうのは、舞台をしっかり見渡せるところがいい」
アトが言う。
「中央だけではなく、舞台をいっぱいに使って、様々なところで演技をする。
それでいて、やはり迫力がある様に前列の方がいいだろうね……ということで、ここなわけさ」
軽く言っているが、この席を二人、確保するのには相当の苦労が要っただろう。アトの個人的な趣味もあるかもしれないが、それでも『フラーゴラのために』動いてくれたことが、やはりたまらなくうれしい。
「バレエ鑑賞は初めてだけど」
フラーゴラが言った。
「大丈夫かな?」
「格式張ることはないよ。良き芸術とは、誰にだってその良さを伝えられるものだ。それに、君なら大丈夫だろう」
ゆっくりと、座席に座る。座席は程よい硬さで、二人を迎えてくれた。
「今日の演目は……コッペリア、か」
「知っているの?」
尋ねるフラーゴラに、アトはうなづいた。
「ああ。とある恋人たちと、美しき自動人形コッペリア。そしてその制作者のコッペリウスの話だ。
詳しくは――本編を見てくれ、という所だね。この物語を僕が語ってしまうには惜しい」
そっか、とフラーゴラはうなづいた。しっかり解説して教えてくれるのもそれはそれで楽しいけれど、今日はバレエに集中した方がよさそうだ、と思う。そして、その考えは正しかったことを、のちにフラーゴラは知る。
舞台上で、愛を得た恋人たちと、愛を失い呆然と立ち尽くす男、対比するかのような二つの最期が描かれていた。コメディ調ながら、しかし フラーゴラにとっては、コッペリアの姿が頭に浮かんでいた。彼女に、魂はない。自動人形だからだ。でも、もし彼女に魂があったならば何を思うのだろう。そして、コッペリアに魂を与えようとしたコッペリウスは、あのような最期を迎えるほどの罪を犯したのだろうか……。
気になったのは、舞台を見つめるアトの瞳が、あまりにも真剣そのものだったことだ。舞台鑑賞、という意味でのそれではない。何か――その瞳は、舞台上で踊る自動人形にそそがれているような気がした。少しだけ、嫉妬するような気持ちがわいた。彼の、真剣なまなざしを受ける自動人形への――でもそれは、スワルニダのそれと重なるようにも思えて、自分たちが舞台の上でバレエを踊っているような錯覚すら覚えていた。神の作った壇上で踊る、自動人形とスワルニダ。あなたのまなざしは、どちらに向けられているのだろうか。くるり、くるり、とフラーゴラが躍る。隣で踊る自動人形の顔は、まだ見えない。
「疲れたかい?」
そういうアトの言葉が聞こえたのは、幕が下りて、随分とたっていた時のようだった。周りには、まばらに去る観客たちの姿見えて、少しぼーっとしていたのをフラーゴラは自覚した。
「う、うん……すごかったから」
慌ててそういうフラーゴラに、アトはうなづいた。
「二時間くらいだったかな。それだけ集中すれば疲労もしょうがないものさ。もう少し休もうか。この後は、一応ディナーも予約しているけれど……」
大丈夫か? と尋ねるアトに、フラーゴラは微笑んでうなづいた。
向かった先のレストランは、この街でも指折りの有名店だ。当然ながらドレスコードも指定されているような場所で、やはり特別な今日を演出するのにふさわしいといえた。
「料理は決めてある――構わないかな?」
アトの言葉に、フラーゴラはうなづいた。なんともスマートなところが、またかっこいい、と素直に思えた。
「それから、僕はスパークリングワインを。君は、ノンアルコールのものがいいだろうね。シェフがペアリングをしてくれるから、それを頼もう」
スマートに決めていくアトの姿を、うっとりとした気持ちで見つめながら、フラーゴラはこくこくとうなづいた。
食事はゆっくり、しかし夢の様に過ぎ去っていく。生ハムとチーズの盛り合わせ。蛸のアヒージョ……味もさることながら、想い人とともに過ごしているという事実が、フラーゴラの胸中にふわふわとした気持ちを齎せていた。
「……コッペリアか」
ふ、と、アトが言った。僅かに頬が赤いのは、些か酔っているからだろう。そういえば、フラーゴラは、アトがお酒を飲まない人物であったことを思い出す。アトがワインを注文したのは、とても珍しいことだった。
「君はどう思う? 人を目指した自動人形の話さ」
「ワタシは……」
言葉を選んだ。
「彼女の意思はどこにあるのだろうかな、って思った」
「意思か……」
アトは、ふむ、とうなづいた。
「コッペリウスは、確かにコッペリアを愛していたと思う――けど、コッペリアは、どう思っていたのかな、って」
「コッペリアに、確かに意思はないのかもしれない。だからこそ、コッペリウスは魂を望んだ」
アトが言う。
「コッペリアがもし魂を持っていたとしたら……確かに、なんというだろうね。
僕も少し、気になってきたよ。彼女は――僕の同類に違いないのだから」
アトが、真剣なまなざしを、フラーゴラに向けた。初めての、想いのように感じた。
「僕は、神の作ったコッペリアだ。甘い造りこみの土人形。
彼女と違うのは――コッペリアは確かに、造物主に愛されていた。僕はきっと、違うのだろう」
ふ、とアトは息を吐いた。フラーゴラが、膝の上で指を組んで、緊張と衝撃を和らげようとした。
「創造に愛を込めるのは人間の特権だ。神はそうじゃなかった。僕は、ダンジョンを踏破するという本能だけを与えられた、木偶人形にすぎない」
ああ、そうなのか、と、フラーゴラは思った。
コッペリアを真剣なまなざしで見ていたのは、同じ被造物に対する瞳であったのだ。
「でも、コッペリアは確かに、愛されていた」
フラーゴラが言った。
「ワタシは、たとえコッペリアが自動人形だったとしても、最初に抱いた好きって気持ちは変わらない」
そういった。
ふ、と、アトがほほ笑んだ。
「ありがとう。すまないね、少し湿っぽい話だった」
「ううん、話してくれて、うれしい」
アトが、少しだけ嬉しそうに、目を細めて見せた。
「口直しと行こう。この後はデザートもある……ああ、君の感想を聞かせてほしいな。バレエの。
次のデートの時の参考にしたいからね」
そういってみせるアトに、フラーゴラは赤面して笑った。