SS詳細
珈琲に溶ける
登場人物一覧
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その日は珍しく、アルヴァ=ラドスラフにとって何の予定も無い日であった。
窓の外には目に痛いほどの快晴が広がり三羽の小鳥が戯れながら飛んでいく。
着崩れた部屋着のままアルヴァは台所へと移動した。
猫背で歩く姿を見咎める者もいないのだから、今日くらいは良いだろうと気怠げな空気を隠そうともしていない。
それは普段のアルヴァを知っている者であれば信じられないほど無防備な姿だった。
惰性のまま台所まで来てしまったものの胃は空腹を訴えていない。
保冷庫に伸ばしかけていた手を乾物棚へと移し、その拍子にふらりと体が揺れた。
肩が当たった食器棚が喧しい音を立てるが、気にする様子もなくアルヴァは荒く挽いた珈琲豆を匙二杯分、フィルターの上へと落とした。ゴボゴボと溺れるように沸騰した湯を注げばふんわりと膨らんだ鳶色の粉から黒い雫が滴り始める。
香ばしい匂いが白い湯気と共に部屋に満ちていく。脳を覚醒させる飲料を準備する瞬間は不思議なものだ。時間と心が麻痺したように心地よい。
「……あ?」
注ぎ終えてからアルヴァは手を止めた。
そこには当たり前のように二人分のマグカップが並んでいる。
もう一人の同居人は出かけているのだから淹れる必要は無いと言うのに、無意識のうちに身体が勝手に二杯分を準備していたらしい。
誰に聞かせることも無い舌打ちが静かな台所に零れる。
アルヴァは自分のマグカップを手に取ると、のろのろとした足取りでソファへ向かった。
立ち昇る白い湯気が蒸気機関車のように部屋を横切っていく。
ローテーブルにむこう脛をぶつけながら、犬歯を剥き出しにした大欠伸を一つ。
寝癖のついた頭を掻くと、水色の髪と同化していた耳が乱暴な手つきを非難するように細かく震えた。
倒れ込むようにソファの真ん中に座りこめば、空っぽの左腕の袖が畳みかけの洗濯物のように傍らへと落ちる。
欠伸で涙の滲んだアルヴァの左眼はぼんやりと世界を映してはいるが、脳で認識しているかと問われれば怪しいところだ。焦点を合わせることすら億劫だと云わんばかりに瞼が半分閉じられている。
だが意識が目覚めたところで右側の視界の欠落が埋まることは無い。濁って使い物にならなくなった眼球の治療は、流石の特異運命座標でも不可能であったのだから。
距離感の相違。死角の増大。焦点調整の遅れ。
それは機動戦を得意とするアルヴァにとって致命的な欠点だ。
ただでさえ片腕で照準やバランスを取るのに苦労しているというのに、右の視野欠損という更に加わったデメリット。
今は感覚と経験で何とか凌いでいるが、それがいつまでも保つとはアルヴァも思ってはいない。
混沌は、そんなに優しい世界ではない。
そもそも愛銃や己の肉体がいつでも現在の状態で在る保証など何処にも無いのだ。自室に立てかけたH&C M7360の破損を想定をするだけでも頭が痛くなるが、しない訳にはいかなかった。
これからは天候や環境、風ですらもアルヴァに牙を剥くようになるだろう。残った左目に過剰にかかっている負荷も何れ症状として現れる。
手持ちの切り札は大幅に限られた。
けれどもアルヴァは視力を差し出したことに対して後悔などしていない。
同じ状況を繰り返すことになったとしても、また同じように、何度だって傷を引き受けるだろう。
見捨てるという選択だって、かつては出来た筈なのに。
「はぁ~、止めだ止め」
静かで気楽な思考の海へと沈溺出来るこの時間には、値千金の価値がある。ならば過去を思い出すより今後の対策について思考を巡らせた方が建設的である。
これからどうしたもんかな、と弛緩した意識のまま熱いブラックコーヒーを一口啜った。臓腑を流れ落ちて行く液体の覚醒作用に即効性はなく、ローストされた苦みと熱だけが舌に残る。
ふらふらと部屋のなかを視線がさまよう。
マグカップやコーヒーといった生活に類する小物は、元々アルヴァの生活には無かったものだ。
それ以外にも随分と物が増えた。
泥水を直接啜ることしか知らなかった頃と比べると随分贅沢な暮らしだが、それが今は当たり前の顔で居座っている。
いや少しずつ、知らぬ間に増えていったと言うべきか。
――助けてくれてありがとう、黒いマントのおにいちゃん
――これで冬が越せます。感謝します義賊様……。
奴隷商から取り戻した子供から。
金を与えたどこかの村の母親から。
――ねえ、アルヴァ! みてみて!! このマグカップ、可愛いでしょ? お揃いで使おっ。
心配性の兄によく似た、お節介焼きの妹から。
様々なものを持たされた。
――ごめんね、アルヴァ……。
くるくるとよく変わる快活な表情が翳ったのは彼女が賊に不意を突かれ大怪我を負ってからだ。
いや、アルヴァが彼女の代わりに右目の視力を失ってからだろうか。
あれから、二人の間に殆ど会話はない。
今日のように出かけるときに、ぽつりぽつりと義務的な報告として声をかけるだけだ。以前のように真っすぐな瞳がアルヴァを見つめることもない。交わることのない伏せられた瞳には罪悪感が満ちているのだから。
だから
兄だから、騎士だから、自分の中に存在する良心が言うから、たった一人だけの家族だから。
そのどれもが正しく、間違っている気がする。
何が正解なのか分からない。最近ではいつだって焦燥感のようなものがアルヴァの胸に燻り続けている。
けれどもアルヴァには時間がない。立ち止まる、余裕がないのだ。それは理解していた。
例え両目の視力を失おうとも自分の信じる心に従って動くしかないのだ。
今までも、これからも。
ふっとマグカップを握りしめていた手から力を抜く。
「まったく、俺もとんだ腑抜けになったもんだ」
ぐらりと碓水色の頭が傾いで白い喉を晒しだす。天井を見つめながら吐き出した自嘲の言葉。その言葉の内容に反してアルヴァの表情は穏やかだ。
腹の上にマグカップを置けば、じんわりとした熱が服を通じて肌を温めた。そのぬくもりを感じながら、こてんと首を横に倒す。窓の外に広がる青い空。己が駆けるべき戦場。その中にふと淡い金糸が過る。
虚ろを宿した左目を眼帯で覆う小柄な影。空を飛ぶための美しい翼を宿した、己と似ていて、まったく似ていない好敵手。
仮想の対戦相手としてはもってこいの相手だ。今、自分と戦えば結果はどうなるか。現在の肉体では不利になる。不意をつけば隙が出来るだろうか? 例えば驚かせるとか。
一つ心当たりを思いついてアルヴァは
「アイツ、案外鈍いからなあ。まるで人を信じないって面して、心のどこかでは信じてやがる。とんだお人よしだぜ」
その表情は悪戯した子のように幼く、保護者のような慈愛に満ちている。
「……俺がそこまで鈍感なわけ、ねえだろうが」
アルヴァは周囲を疑い生きてきた。
確実に人の生命を
だから「彼」が「彼女」であるとアルヴァは最初から知っている。それでも言わないのは彼女が自分の性別を表にすることを避けているからだ。
彼女が傷つくことを、アルヴァは望んでいない。
だから、言わない。知っていると、気づかせない。
それが犬のように律儀で狼のように気高いアルヴァなりの、彼女に対する敬意である。
すっと意識が遠くなりマグカップがアルヴァの手からごとんと落ちた。
飲みきれなかったコーヒーの残りがソファへこぼれる。
「やべっ、染みになる」
コーヒーの染みは取りにくい。咄嗟にそんなことを考えてしまう自分が、何だか可笑しかった。
黒い水たまりがじわりじわりと広がっていく。
帰って来た妹が見つけてしまったら、心配性の彼女のことだ。何があったのか悪い方向に考えるだろう。アルヴァに「そこから動かないでね」と泣きそうな顔で告げ、足早に布巾を取りに行く後ろ姿まではっきりと想像できた。
それは再び妹と会話する切っ掛けになるかもしれない、という考えが一瞬だけ過り、アルヴァは叩き潰す勢いで否定した。
何だ今のは、と怒りに似た感情すら湧いてくる。
例え肉体が、精神が衰弱していたとしても知られるわけにはいかないのだ。
隠し通さなければ。今の妹の心に、これ以上傷を残してたまるかよ。
だが、アルヴァの身体は己の意思に反して動こうとしない。
今すぐ拭かなければと思うのに、動かない。珈琲を飲んだのに一向に頭が冴えてこない。
代わりにこふりと乾いた咳が零れた。
原因は分かっている。
今までアルヴァが引き受けてきた傷や病が蓄積し肉体の限界を超えつつあるのだ。
見えない場所にある傷を治せば気づかれる。なら見えない場所に巣食った傷を引き受ければ良い。
そうやって引き受けた病巣によってアルヴァの頭や体は、どこもかしこも虫食い状態だ。
だが、まだ動く。
他人に気取らせないことや痛みに耐えることに関して、アルヴァは己の得意分野だと思っている。事実今までそうだった。
一度出た咳は止まらずコホコホと肺や気管を刺激する。
「こほっ、う、ぇ」
痛んだ臓腑から昇って来た血液が抑えた白い掌をべたりと汚した。
食道からだろうか。気道からだろうか。
痛みや血にはもう慣れてしまって何も感じない。自分から生じたものなのに綺麗な赤色だ、なんて不思議に思う程度の事。
「後悔なんてしてねぇよ。どうせこの身体はもう――」
これは誰に聞かせる訳でもない告解だ。自分が止まる其の時までやりたいように動くという宣言だ。
アルヴァは両眼を閉じる。
静かだ。雪が降る、北国の夜みたいに、静かだ。
人が無に還るとき、最後まで残るのは聴覚なのだと言う。
まだ、知る訳にはいかないけれど。
おまけSS『全力掃除』
部屋の中が、やけにぴかぴかだ。
帰って来た彼女を迎えたのは妙に整えられた空間だった。
兄が片づけたのだろうか。不自由な片手で?
今日はやけに眠たそうだったけれど、掃除に目覚めたとか?
尋ねたくとも、足はその場から動かない。
聞くのが怖かった。
本当は何かを隠す為に掃除をしたんじゃないかと、気づいてしまうのが怖かった。
きっと聞いてもはぐらかされるだろうし、兄の事だ。気づかせるような証拠は残していないだろう。
買ってきた食材を入れようと保冷庫を開けると、なかには手つかずの昼食がそのまま入っている。
また、食べてない。
前は何だかんだ言って、食べていてくれたのに。
今は保冷庫すら開けていない。
シンクにはまだ洗っていないマグカップが二つ。
一つには、アルヴァの白いマグカップには、細い亀裂が入っている。
罅に付いているのは見覚えのある赤黒い色。
指を切ったのだろうか。それとも……。
少しずつ、だが確実に変わり始めている。
彼女は震える自分の身体を抱えた。
「アルヴぁ……」
泣きながら甘えたように兄の名を呼ぶ、自分の声が、恐ろしかった。