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堕とさぬ翼の楽園
登場人物一覧
- アベルの関係者
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生きて欲しい、と手を伸ばされた。貴女はこれから羽搏けると。
――私達がエリーの翼になります――もっと、世界を見てみませんか?――
エリーはそんな言葉なんて信じられなかった。白を纏った『象徴』の少女は茫と宙を眺めるだけだ。
彼女の心を支えていたのは只の一人だった。『楽園の東側』の教祖カイン。彼がその後どうなったのかなんて、エリーは訊かずとも理解していた。
破滅を集める魔種は可能性を蓄積し世界を滅亡より救う特異運命座標の敵だ。魔種であった彼が生き残る理由がない事位エリーは知っていたのだ。知っていて、自身も其処で死ぬつもりだった。
死ぬという未来を約束されて進んだはずなのだ。
心の臓に銀のナイフを突き立ててその儘、この世界より『愛しいあの人と去る』筈だったのだ。
その為に生きて居て、その為に存在していて、その為だけの存在であると自身の中に確かに名前で刻まれていたのに。
狭い部屋の中、布団のシーツにくるまって膝を抱えたエリーは自分はどうしてこんなところに居るのだろうと呟いた。
ギルド『ローレット』。
大切で愛しい人を殺した、憎き場所。
大切で愛しい人から『エリー』をもう一度奪った場所。
俯いた少女の部屋にゆっくりと入り込んだ黒い影はエリーの傍へと寄った。
ぎしり、と床が軋む音をさせ、ゆっくりとエリーは顔を上げる。
嗚呼、その顔は見たことあるのだ。黒い帽子を被った青年は「やけに浮かない顔をしていますね」と飄々と言い放つ。
「……『アベル』」
その名前は、いつもカインが言っていた。彼と、自分と、アベルと。三人で楽園の扉を叩くと彼は言っていた。
「カインは俺が殺しました。お前の事は――どうでもいいんですが、教えずにいるのも悪いでしょうから」
飄々としたその態度をカインは『嘘吐き』だと言っていた。嗚呼、きっと、彼だって胸を痛めて殺したのだろうとエリーは思う。
「そう、ですか……。貴方に殺されたのならばカイン様も本望でしょう。
『アベル』……どうか、どうか、私を殺して欲しい、同じ人間に殺されればきっと同じ場所に行けるのです。だから……」
縋る様にエリーの細い指先がアベルの服を掴む。シャツの皴など気にしない儘、アベルはエリーを見下ろした。
「楽園の東側にいたのに■■■■の事理解していないんですね」
やれやれと肩を竦める様に、そう言ったアベルにエリーはぴたり、と止まる。
震える指先が離れ何を言いたいのかと問い掛けるかのような視線を送ったエリーにアベルはゆっくりと彼女を見ろ押して息を吐く。
「俺が子供の頃からセンセイとカインから聞いていたので理解してますけど」
エリーはひゅ、と息を飲んだ。幼いころからカインの傍にいた唯一無二(しんゆう)。片割とも呼んでいた彼――その存在の大きさをエリーが知らぬ訳ではない。彼の言葉にエリーは自身が『■■■■』の事など何も知らないのだと実感した。
そうだ、彼女は『何もなかった』空っぽ。
その顔立ちが、姿がカインの求めた『エリー』だったのだ。自身の名など恨むだけであった少女はエリーという名に縋った。
居場所を与えて呉れればそれでよかった。だからこそ、無駄な『考え』は持たない様にしていたのだ。
「どう……いう」
震える声でそう言ったエリーにアベルは「本当に理解してないんですね」と『やれやれと大仰』に言った。
「自殺と他殺では行く場所が違うんです」
「だから、私は貴方に殺されなくてはならないのです」
震える声音で吐き出したそれにアベルは「いやいや」と彼女を笑った。
「どうでしょうね。カインは夢を追い、幸せを目の前に無念のまま殺された。
けれど、俺に殺してくれというお前は死に幸福を感じながら自ら死ぬ、それでは同じ場所には行けない」
アベルは言った。
ここでエリーに手を掛けるのは易い。そう言う様にアベルは唇を釣り上げて笑った。
「お前が殺せと言うなら殺してやりますよ。
それで? カインのいう『楽園』になんて向かう事なんて無理で死に損でしょうけど」
エリーはゆっくりとアベルを見上げた。それでは意味がないでしょうと堂々と言った。
「『エリー』なんて嘘の名前は捨てて、本来の人生に戻って、
幸せになる努力をして、幸せになる直前なら俺が殺してあげます」
ゆっくりと、アベルが拳銃を構える。エリーの額に宛がわれたその冷たさにエリーは目を伏せる。
「『アベル』。カイン様は幸せになる努力をし、幸せになる直前の無念の中に死んだと思いますか」
「そうでしょう。だから、カインと同じ場所に行きたいと言うならば、同じことをするしかないのです。
『■■■■』でもそう書かれていたでしょう? あ、お前は知らないんでしたね」
カインの人形であった象徴。その意味を分かりながらエリーは戸惑いゆっくりと頷く。
その額に宛がわれた拳銃が降ろされ、「せいぜい足搔いてください」と満足げに言ったアベルは部屋を去った。
アベルが去った後、エリーはぼんやりと天井を見詰めた。一人きりの部屋の中、エリーは掌でシーツを撫でる。
――エリーという嘘の名前を捨てて。
――幸せになる努力をして。
その言葉に、エリーはカインが言っていた事を思いだす。
『アベルはとても心優しくて、僕の大切な片割なんだよ』
ああ、教祖カイン。貴方の言葉は間違えなかったのですね。
エリーは唇を引き結び、溢れる感情を堪える様にシーツを掻き抱いた。
「私は『■■■■』の全文を記憶してますし、カイン様から教えも頂いています。だから……」
無駄な事を考えない様にしていただけだった。だから、アベルの騙り等最初から見抜けていた。
エリーという立場を捨てろ、と。空っぽな自分は何処に行くかわからぬ儘に只、カインの幻影を追っていた。
エリーの名前は、カインがくれた最初で最後のかけがえのない贈り物だった。
譬え、誰かの代わりであれど、誰かにその存在を赦され求められることこそがエリーにとっては幸福だったのだ。
何処にも行けない片翼の鳥。
鳥籠の鍵はもう開かれた。靴など履かない白い指先がぺたりと地面を踏み締めて窓の枠に手を掛ける。
――そうして、『エリー』と名乗る片翼の少女は姿を消した。
その後、『エリー』を見た者は誰もいないのだった。