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お酒の話『修道院リキュール』
登場人物一覧
会社の帰り。電車から自宅最寄り駅のホームに降りる。
都心とはうってかわって、しんと冷えた夜の空気が心地よかった。二秒か、三秒ぐらいは。
あまりの寒さに、普久原 靖はコートのボタンを全て閉じた。
季節は十二月の半ば。金曜の二十二時半頃で、身も心もくたくただった。
さきほど、ソフトウェアの納品書を稟議に回した直後、逃げるようにオフィスを出たのだ。
今週は終電やタクシーが多かったから、むしろ早く帰れた気さえしてくる。
怒濤の連勤も今日で終わり。このクソみたいな炎上プロジェクトともおさらばのはずだ。
明日の朝に、
とにかくしんどい。ここしばらく寝付きだって悪かった。だから今日も晩酌しようと思う。
普段の靖なら棚にモルトの一、二本は用意しているが、しばらく買うことが出来ていなかった。
いくらか手前の大きな駅で降りさえすれば、いくらでも購入出来るのだが、そうはしていなかった。とにかく一分でも一秒でも早く家に帰りたかったからだ。
いつものコンビニか、いやまだぎりぎり酒屋が開いているはずだ。今日はそっちにしよう。
心に言い訳をしながら、とぼとぼと帰路を歩く。
そして寒々しい蛍光灯の光を湛えた、小さな店に足を踏み入れた。
棚にあった酒の名は、なんだか猫の種類みたいだなと思う。
靖は折りたたみ式の携帯電話――まだガラケーとは呼ばれていなかった――を開き、早速検索する。
便利な時代になった。ブロードバンド通信のパケットが使い放題。パケ死なんてごめんだ。
黄と緑があり、とても苦いらしい。リキュールの女王などと呼ばれているようだ。
猫と女王。なんだか親近感がある(!?)。
ボーナスも近いし、二本とも買ってしまおう。ついでに切らしていたウィスキーと、それと氷。
会計を済ませると、少し後悔しながらアパートへと帰宅した。
やたらと重い二つのビニール袋を、狭い玄関へそっと置く頃には、指先の感覚がないほどだった。
パソコンの電源を入れて、シャワーを浴びたら、やっと人生が始まる。
しょうもない記事を読みながら、瓶を手に取ってみた。
黄色は四十度、緑が五十五度、なかなかにエグいアルコール度数だ。
零時なんてとっくに回っているから、間違いなく
それに万が一、行くとすれば午後からだから。
けれどその前に、靖はモニタが乗ったローテーブルにグラスを置き、着る毛布にくるまった、
座椅子からもこもこ靴下の足を投げ出し、電気ブランケットのスイッチをオン。
パソコンにヘッドフォンを挿し、CDから取り込んだMP3の音楽を流す。
こうなるともう、一歩だって動きたくなんかない。
それからブラウザで、ネットゲーム仲間が設置したCGIチャットを開いた。
一通りログを眺める。そこでは十人ほどがキャラクターになりきり、半ばロールプレイまじりの雑談をしていた。ギルドのみんなは、宵っ張りだな。
Cookieに記録された設定のまま、入室。「こん~」などと、挨拶を交し合う。
キャラクターのアイコンは、猫耳の少女。今のあだ名は女王陛下であった。
――まずは、こっちにしよう。
美しいリキュールボトルの金属フタを、きりきりと開けてやった。
ボトルが少し古いのか、フタの所で砂糖か何かが結晶になり、ちょっとざらついた感触がする。
まずはオールドファッションドグラスに、ワンフィンガーの半分だけ注いでみた。
ネットでは苦いと評判だった、鮮やかな黄色のお酒だ。
薬草系というやつらしい。なんとなくポーランドのウォッカが頭に浮かんでくる。ひょろっと長いバイソングラスが入っている。桜餅みたいな香りのお酒だ。
たまーーに買って、冷凍庫でとろとろになるまで冷やして飲むことがある。
それと比べると、これは、どんなお酒なんだろう。
口をつけると――
「……甘っま!」
え、待って。めちゃくちゃ甘い。
不意打ちだ。苦いんじゃなかったっけ。なに、すごい甘いんだけど。
とろりとした蜂蜜のような甘みと、ハーブらしき爽やかな香りを感じる。
蜂蜜と思うと、甘さもちょうど、そのぐらいだと思えてきた。蜂蜜をなめている感じ。
アンゼリカなど、多数のハーブを使用しているらしいが、具体的には分からない。アンゼリカといえば、薄く切ってクッキーなどの飾りにする、砂糖まみれになった緑色のスティックだった気がする。
けど、嫌いじゃなかった。むしろ美味しい。好きかも。
今度は緑だ。グラスをもう一つ出してきて、ほんの少量を注いでみる。
香りはさっきより、ずっとなんというか、こう『草』っぽい。
それから今度は一気に行かず、恐る恐る舐めてみたら。
「え、からっ!?」
ぴりりと来た。
どうして。嘘でしょ。なんでからいんだ。
唐辛子というよりは胡椒のような刺激だが、胡椒の香りは感じない気がする。強いて言えば、シナモンの辛味に似ているだろうか。これもいかにもシナモンといった印象は受けないが。
そしてこちらも黄色と同じく、ものすごく甘みがある。
甘いが、たしかに結構な苦みも感じる。苦みが先に来る人も多いかもしれない。
全体的な風味は黄色よりもずっと青々しく、ラベル通りのまさに『緑』といった味。
キックが強い。
いいぞ、いいぞ。
靖は少し迷ってから、意を決したように換気扇の下へ移動した。
フレーバー煙草に火を付ける。やたらと甘い香りがするから、会社では普通のやつしか吸えない。
しかし薬草系なんて、いままでほとんど飲んだこともなかったけれど。これはかなり好みだ。
緑色の味のほうが更に好みだが、黄色の優しい蜂蜜っぽさも捨てがたい。
甘くて苦くて、ドスが効いてる。最高じゃないか。
リピート確定。常備酒に加えよう。
まずは緑が入っていたグラスに氷をいれて、今度はダブル以上に注いでやった。
ブラウザの別タブで、この酒に関する情報を検索する。
好きになると、色々な情報が知りたくなってくるから。
修道院で作られているとか、レシピは門外不出だとか。
あとはエリクサーなんて言葉が出てきた。
ああきっと、エリクサーって確かにこんな味をしているんだろう。
カクテルにも使えるらしいが、生憎とどれもないや。
つまみを買っていないことも、明日のことも、開かれたままのチャットも。すっかり忘れて飲み明かした。
氷をいれ、水をいれ、ソーダをいれ。何度も楽しんでやる。
気付けばチャットには誰もおらず、遮光カーテンの外から光が差し込んでいた。
これはもう、午後も無理なやつではないか。
まずい。
その時、ベッドの上で閉じた携帯電話のシグナルランプが、赤く点滅していることに気付いた。
気付いてしまった。
気付きたくなんてなかった。
瞬間――完全に血の気が引いている。
会社からのメールは、赤色に設定しているから、すぐに分かるのだ。
小さなサブスクリーンを往来するのは、メール着信のお知らせと上司の名だった。
靖は祈るような気持ちで、携帯を開く。
心臓がばくばくしているのは、酒のせいばかりではないだろう。
手紙のマークを押して、確認したメールの内容は――
『今日、来れない、ので、月曜に、よろしく、ゆっくり、休んでください(^_^)ノ』
――原文まま。
会社から昨晩に送っておいた終了報告のメールを見て、休出する気がなくなったんだろう。
謎の顔文字から機嫌の良さがにじみ出ている。
てか、この人って、いつも、やたらと、読点が、多いよな。
稟議については来週に持ち越しだ。
内容はー。うんまあ大丈夫だろう。たぶん。
なんだかアホらしい気分になってきたが、良い酒に出会えたから、まあいいか。
今日一日死んでいても日曜日がある。ひゅー、最高だぜ。
靖はパソコンの電源を落とすと、着る毛布のままベッドへ潜り込んだ。
カラスの鳴き声がうるさいけれど、おやすみなさい。
おまけSS『カクテル『アラスカ』』
バーでこれを使ったカクテルを何か頼むと、たいていこれが出てきます。
香りも味わいも強いから、甘みのない酒が合うのでしょう。
度数はともかく、飲みやすくはなると思います。
これ自体が、かなり人を選ぶとは思うのですが……
レシピはドライ・ジンと黄色いほう。
フランスのリキュールと、イギリスのスピリッツを合わせて、アラスカ。うーん多国籍。
アメリカ産まれのカクテルらしいから、アラスカなのかな。
緑を使うと『グリーン・アラスカ』。なんとも分かりやすい変化。
ジンは種類を選ばないので、いっそ北欧のフィンランド産あたりを使ってみるとすると――
――PPPオリジナルカクテル。
名前は『統王シグバルド』なんて、いかがでしょう。
試したことは、ないけれど。