SS詳細
Could you see our Home?
登場人物一覧
チック・シュテルは公園のベンチに座って「幸せ」について考えていた。
例えば、彼が手にしているパンは「幸せ」だ。
幻想にあるパン屋『アルメリア』は焼きたてのパンを提供するために早朝から開店している。
おかげで、チックはまだほんのりと温かいクロワッサンのサンドイッチを食べる事ができるのだ。
これは間違いなく幸福だ。
包み紙越しに伝わってくる両手の温もりが、ほんのりと心も一緒に温めてくれる。
会計をしてくれたリックの明るい笑顔もチックを幸せにしてくれた。
「おはよう! 今日も依頼かな」
帰ってきたらまたお祝いをしないとねと張り切るリックの申し出を、チックは曖昧に微笑みながら辞退した。
前回帰って来た時には自分の顔を模したパンを渡されたのだ。
それが何だか気恥ずかしくて、嬉しくて。今も宿に大切に飾っていると告げたら笑われた。
「また作るから食べてちょうだい」
自信作なのと厨房から顔を覗かせたサラの、少女のような笑顔もチックを幸せにしてくれた。
一口齧ると、クロワッサンのパリパリとした食感が口の中でほどけていく。
ふんわりとしたバターの香りとたっぷり塗られたラズベリージャムの甘さは、チックの味覚と胃をいつだって満足させてくれる。
競争激しい幻想のパン屋界でもアルメリアの評判は高い。今朝も沢山のお客さんで店の中は満員御礼だった。
そんなお客さんたちに柔らかな笑顔で対応していたのは、チックの友人で、住み込みで働いているカインだった。
「チックさん」
彼は手を振って、チックだけに通じる秘密の合図を送った。
「ハーブティーです。温まりますよ」
そっと裏口に回ったチックにカインは湯気のたつカップを差し出した。
「依頼、気をつけて行ってきてくださいね」
カインらしい、優しい味と香りのハーブティーがするりと喉を潤していく。
「……あったかい、ね」
みぃ、とチックの膝の上で丸くなっていた仔猫がないた。
ミィと言う名のこの猫は、夏の夜に出会ってからずっと、チックの小さな友達だ。
ミルクと夜の毛並みを宿した小さな仔猫に関わる品は、渡り鳥のように宿を巡るチックにとって殆ど唯一の荷物だった。
柔らかな毛並みを撫でながら、チックはまた一つ、自分の幸せを知った。
「ね、ミィ。……もし、色んな人、たちといっしょに住む……できる、そんなおうちが、ある、したら……ステキ、だね?」
パンの香りはチックにたくさんの幸せを与えてくれると同時に、新しい思考の扉の鍵をくれた。
リックとサラ、カインの三人とふれあうようになって、チックは「幸せ」と「家族」、それから「住む場所」について考えるようになったのだ。
背中を撫でられていた小さな友達はのんびりと顔をあげた。深い青の瞳がじぃっとチックを見あげている。
「そろそろ……今日の宿に……」
行こうかな、と言いかけたチックだったが最後まで言い終えることはできなかった。
クロワッサンのカケラをはたいている途中でミィがチックの膝から飛び降りたからだ。
ようやくミィが立ち止まったのは石壁に備え付けられたポストの前だった。
「……ここ、は」
おすまし顔で座っているミィを抱き上げたチックは目の前に佇む家を見上げた。
優しい人が建てた家だ、とチックの直感が告げている。
ラベンダーにカモミール。緑が溢れる玄関は穏やかな色彩で整えられており、薄灰やベージュがマーブル模様を描くレンガ道は来客を誘うようにツタの茂るガーデンアーチの奥へと続いていた。
「大きな……おうち、だね」
高い壁の向こうから覗いた三角屋根とバルコニーはおそらく屋根裏部屋なのだろう。
並んだ煙突の下にはどんな暖炉があるのだろうと想像して、チックはいつの間にか、この家に興味を抱いている自分に気がついた。
みんなが集まるダイニングに笑い声が絶えない賑やかなキッチン。本を敷き詰めた書斎に、鳥たちが遊びに来る庭。
そんな大樹のような家に住めたら素敵だろうなとチックは微笑んで、そして、目を丸くした。
『For Sale お問い合わせはナナカマド不動産まで』
小さな小さな、キノコ大の看板が植え込みに立っている。
此の家は今まで売られていることすら、誰にも知られていなかったのかもしれない。
「おれが、言ったから……連れて、来る……してくれたの?」
「みゃんっ」
チックは子猫を見つめた。
ミィがこの家の前で止まったのはまったくの偶然かもしれない。
けれども今日、この場所で、この家を見つけたのは、運命の巡り合わせのようにチックには思えたのだ。
「お仕事が終わったら……話、聞きに行って……みよう、かな……」
チックは眩しそうに目を細めて屋敷を仰いだ。
いつでも安心できる場所。幸せのある場所。家族のいる場所。
そんな場所を作りたい。
チックは夢みるように微笑んだ。
「準備……しておかないと、ね」
おまけSS『Welcome home』
「ここ、だよ……」
溢れる光と樹々に囲まれた優しいアイボリーの外壁は、どこか目の前の青年を思わせる落ち着いた色だった。
「わぁ」
「わぁ~」
外の世界には不思議と奇妙が溢れている。
今日こそ驚かないと決めていたカーティス・アーモンドだったが、結局今日も驚く羽目になった。
大きく開けた口にはゆで卵が入りそうだ。
カーティスの隣ではコルト・シェーラも同じように口を大きく開けていた。
二人でゆで卵二個分だ。コルトはびっくりし過ぎたのか、ぴょこんと髪の毛から獣の耳が飛び出している。
そんな二人の様子を見たチックは庭先の銀鈴のように笑った。
「おれも……はじめて見た時は、驚いたよ……。今の、二人みたいに」
口も開けちゃったと微笑む青年に向かって、カーティスは苦笑いで肩をすくめる。
「そうだとしてもウズラの卵ぐらいの大きさだろ?」
「どう、だったかな……」
真剣に悩み始めたチックの袖をコルトがちょんちょんと引っ張った。
「ねえ、ねえ。ここが今日から僕たちのおうちなの?」
「そう、だよ」
目を輝かせるコルトにむかって、チックは春曙のようにゆるりと頷いた。
純粋に喜びを見せたコルトを、カーティスはむっとした表情で見やっている。
二人の少年が打ち解けるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「それじゃあ……二人とも、あらためて」
チックはコルトとカーティスに向きなおると、二人に手を差しだした。
「……おかえり、なさい」
これからゆっくり、家族になっていけば良い。
そう願いをこめながら。