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Tumbling Down
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名も知らぬような喫茶店の一席だった。
平日昼間だからなのか、それとも元からさびれているのか。それ故に店主は退屈そうに読書を嗜み、自分たち以外の客などは2~3人ほどしかおらず。誰でなくとも「この店は本当にやっていけるのか?」と一瞬、心配になる様な。そんな店。
そんな店だからこそ、今日のような会話にはもってこいだったのかもしれない。
テーブルをはさんだ目の前には、一人の女がいた。
「さて、ご足労ありがとう」
女は言った。目元は隠れて見えない。だが、その女の持つ雰囲気は、既知の女性を――イーリン・ジョーンズを思い起こさせるものだった。女は、ふ、と笑うと、テーブルの上のコーヒーを指示した。
「飲んだら? 長い話ではないけれど、一息はついた方がいいわ」
そう言ってすすめられたコーヒーを、一口飲む。その味のことなどは、今となってはもう覚えていない。豆だったか水だったかに自信があるふうな能書きがメニューにかかれていたような記憶はあるけれど、味の方は全く、本当に、覚えてなどいなかった。
その程度のコーヒーだったともいえるかもしれないし、『話』の内容の方がよほど衝撃的だったともいえる。いずれにせよ、コーヒーの味などは吹っ飛ぶような話が、この時されていたことだけは事実だ。
「まずは、改めて自己紹介と行こうかしら。
私は……そうね『灰の騎士』。
もちろん本名じゃないわ。通り名、って奴。本名は名乗ったことがないからね。
ローレットへの情報提供協力者。ここ迄はOK?」
頷くと、灰の騎士は口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ話を続けるわね。
まず前提として知っておいてもらいたいのは、二点。
これは、イーリン・ジョーンズという女の話だということ。
そして、私たちに『混沌肯定』がどのように作用しているか――これは未知数、ということ。
以上の二点。
つまり、イーリン・ジョーンズについて、現時点で把握していることの話。そして、これから話すことは、この世界にとってどのように現出するかは未知数。ということ」
頷いて、コーヒーで唇を湿らせた。
「良し。
ではまず、イーリン・ジョーンズの正体について。
アレは人間ではない」
あまりにも当然のようにそういうので、虚を突かれたような気持になった。人間ではない。いや、だが――
だがイーリン・ジョーンズという女は、あまりにも人間的ではないか……外見も内面も。時に超然とした様子を見せるが、彼女は間違いなく、人間であった。
「貴方の考えていることは正しい」
灰の騎士は言った。
「半分は。彼女は人間であって、これから人間でなくなる予定」
予定とは、と尋ねると、灰の騎士は少しだけコーヒーを口に含んでから嚥下した。
「あれは、『混沌に召喚された時点』の段階で、既に『人間という分類から外れた存在』になっていたの。
そして、イーリン・ジョーンズは『人であった部分が魔力に置き換わっていく』状態にあった。
でもそれは混沌肯定によって一時的に抑え込まれた。当然、混沌肯定はご存じよね?」
頷く。
「つまり、レベル1になった……これによって、過剰な魔力の置換が抑えられていたの。
レベル1のまま、安穏と過ごしていれば、運命も違ったかもしれないわね。
でも、そんなことをイーリンは望まないでしょうし、そうでなくても、イーリンは『強くなった』。
この世界において、
つまり。
イーリンがレベルを上げればあげるほど、その状況は召喚直前の状況に近くなっていく。
イーリンは、力を取り戻している、のだ。その果てにあるのは、「人であった部分が魔力に置き換わっていく」ことの究極――それでは。
「そう。アレは『人間』ではなくなる」
もう一度コーヒーを飲もうとしたが、既にカップは空だった。
「お代わりを?」
灰の騎士がくすりと笑うので、頭を振った。
「これがイーリンの、『魔力蓄積体質』の正体ということ。蓄積してるんじゃないの。置き換わっているの。
そしてその果てに待つのは、人間ではなくなるということ。
つまり、人間性の消失こそが、その到着点」
何故そんなことを、
知っているのか。
ようやくに尋ねたその言葉を、灰の騎士は諧謔的に笑って応えた。
「なんでかしらね? 熱烈なファンなのかもよ?」
どうやら語るつもりはないのだろう。だが、灰の騎士の言葉には、どこか強烈なリアリティがあった……。
「さて、話を戻そうかしら」
灰の騎士がそういう。
「いずれにせよ、イーリン・ジョーンズがレベルを上げるほどに、その人間性の崩壊は続いていく。
最終的に待つのは、人間性の喪失。これは『人間としての寿命』ということ。
そしてイーリンは、そのことを自分でよく理解しているわ。
ふと、自分が短く息を吐いていたことに気づいた。それがどのような意味を持っていたのかは、自分でもわからない。
「今も見た目や能力は向上している。でも――貴方、例えばイーリンの体重は知ってる?
乙女に体重の事を聞くなんて言うのはマナー違反だけれど、そうね。召喚当初から10kg以上軽くなっているわ。
人間としての部位が、魔力に置き換わっているから。その分軽くなっている。
これをどうとらえるかは、貴方次第ね。まだ10kgととらえるか、もう10kgも、ととらえるか。
魂の重さは21グラム、何て寓話があるらしいわね。だとしたら、10kg。随分と重いわね」
もう一度、息を吐いていることに気づいた。
すでに、魔力への置換ははじまっている。それも、おそらくは急速に。
イーリンが力を取り戻すという事は、すなわちあるべき未来に収束するという事であった。あるべき未来とは、人間としてのすべてが、魔力に置き換わってしまうということ。魔力の塊になるという事なのだろうか? 或いは、生命持つ魔力、か。いずれにしても、成程、それは確かに『人間』ではないと言えただろう。混沌肯定はそれを『旅人・人類』と規定するだろうが、しかしそれは、我々の知っているイーリン・ジョーンズの消失に間違いない。
「混沌肯定がどのように作用するかはわからない」
灰の騎士が言う。
「だから、これは予定、の話。ただ、イーリン・ジョーンズの魔力化は大いに進んでいるわ。それだけは忘れないで」
なぜそんなことを、伝えるのか。
問いに、灰の騎士が言う。
「私はただ、イーリンの行く末を見届けたいだけ。
そして試練と情報を与え、苦しみ、悩む姿を――いつまでも見ていたいだけ。
その為なら、ええ、そうね。私の命くらいならあげてやってもいい」
そう言って口元を釣り上げる灰の騎士の言葉は、真実のようにも聞こえた。間違いなく……命を捨てるつもりなのだけは、事実だろう。
どうして、そこまでして、という問いには答えてはくれまい。先ほどのようにはぐらかされるだけだろう。
ただ確実なのは、このままではイーリン・ジョーンズという『人間』は壊れてしまうという事だ。崩壊する。崩れ落ちる。タンブリング・ダウン。
「話は以上よ」
灰の騎士はそう言った。
「ここのコーヒー代は出してあげる。誘った身分だからね……伝えたいことも伝えた。
後は貴方次第よ」
灰の騎士は立ち上がった。伝票に記載されただけのお金を優雅に取り出して、かつん、とテーブルの上においた。その音で、何か、はっと、現実に引き戻されたような気がした。思考空間のようなものにいたような気がした。だが、すべては思考のシミュレーションではなくて、現実にある事なのだと、その音であらためて思い知らされたような気持がした。
「5年目の真実、あなたはどうするのかしら」
灰の騎士はそう言って、皮肉気にその口元を釣り上げた。すぐに答えを出せないでいると、灰の騎士は特に何かを想ったふうでもなく頷いて、
「それじゃあ、また」
去っていく。
空っぽのコーヒーカップとテーブルだけが、目の前にある。
自分は何をすべきか。考えなくてはならない。
外は曇天だったが、まだ太陽は高い位置にあるはずだった。
考える時間は、まだもう少しだけあった。