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あの夏の日。
登場人物一覧
じわりと肌を刺す日差しが強くなってくると、『あぁ、またこの時期がやってきたのだな』しみじみ思う。
冬は空気が乾燥するから肌に良くふないが、夏の日差しだって負けず劣らず良くない。この買い出しが終わったなら念入りにケアをしなくてはいけないな、などとぼんやり考えながらいつもの街角の、花
屋の角を過ぎる。
――大召喚。
時々自問自答することがある。
あの頃から自分は何か変わった? あの頃の自分に胸を張れるような自分になっている?
出そうででない答は、緩く首を絞め続ける真綿のようだ。
いや、ちがう。答は既に決まっている。それをはっきりとだせないのはきっと、自分の中にある僅かな恐怖に所以するのだ。
怖い。異世界から無辜なる混沌へやってきた彼が、いつか居なくなってしまうかもしれないことが。
いけない。彼の前ではそんな姿は見せられない。
……いや、あの人ならそんな自分も受け止めてくれる。
あぁ、ほら。花屋を過ぎた先。普段より少し引き締まった身体の彼が待っている。その大きな背中に飛び付けば少し驚いた顔をして、優しい手で頭を撫でてくれる。
「ごめんなさい、待ちましたか?」
いいや、全く。さぁ、いこうか。
「……?」
いつも通りの彼だ。いつも通りの彼のはず、なのに。
(なんですの、このかんじ……)
感じたのはほんの少しの違和感。理由はわからないがそれは確かに、彼女の胸に影を差した。
どうかしたか?
「いいえ、なんでもないですの」
心配そうに覗き込む彼に笑顔で応え、腕を絡めて隣を
いつもと変わらないペースで、よく見知った道を進んでいく。
最中、見つけたのは普段ならば目に止めないような服屋だった。
男物も女物も扱っているようで、夏の日差しが差し込む窓から様子をうかがっていると店内から若い二人の男女が仲睦まじげに出てきた。
入るか?
彼が声をかけてくる。少し悩んだが、日差しを避ける意味でも、普段と違ったデートをしてみたい。といった意味でも興味が引かれた。
こくり、と一つ頷いたのを彼が確認すると、彼はエスコートするように店の入り口の扉を開けた。
カランと涼やかなベルの音が店内に響く。そういった機械を導入しているのか、店内はひんやりとしていて火照った身体を休ませるにはうってつけのように感じた。
店内に並ぶ素材も色も様々な衣類を一通り見た後、何着か手にとって当ててみる。
「どうですか、似合ってますか?」
彼はそんなわたしの姿をみて『あぁ、似合っている』と答える。
その返答に感じた爪の先ほどの違和感。
それは先ほど思った感覚と同じものだ。そしてそれは彼女の中で確信に変わる。
「……なんだか、今日は様子がおかしいですの」
彼女の声に、彼はわずかに目を見開いた後にバツが悪そうに視線をそらして、
すまない。
彼が紡いだ言葉は、果たして本当にわたしに当てられたものだったのだろうか。
ともあれ、彼は足早に先ほど入ってきたばかりの扉をくぐり外へ行ってしまった。
「あっ」
待って。慌てて彼を留めようと手を伸ばすが、時既に遅し。
白魚のような指先は虚を掴み、ドアベルの音が頭を直接殴り付けたようにいつまでも響いている。
なんで。どうして。いつもの彼が、わたしに?
動け動け、わたしの頭。どうしたら、どうしたらいい?
(あぁ、もう!)
動け動け、わたしの足。どうしたらとかそんな考えは放って捨てて、彼を追いかけなくちゃ。
絶望感によって滲む涙を振り払って、彼女は駆け出した。
すぐに追いかけた。この辺りは通いなれているし、距離としてはそこまで離れていない。はず、だった、のに。
(どこに行ったんですの……?!)
容赦ない夏の日差しに汗が吹き出す。探せども探せども、彼は見つからない。
せっかくのお出かけだったのに。せっかくの特別な日だったのに。
思いがぐるぐる渦巻き、また涙が出てきた。
何が彼をそうさせてしまったのだろう。思い当たる節は全くない。が、きっと何かあったのだろう。
嫌われてしまった? どうして。わからない。わからないけど。
(彼の行きそうなところ、は……)
溢れた涙を袖口で乱暴に拭い、呼吸を整える。渇いた喉と乾いた尾びれは逆に意識を冷静にしていく。
彼の行きそうなところは、……。
「あそこ、かも」
ふわりと浮上し、緩やかに歩を進める。
――目指すはあの日の海。その浜辺へ。
彼女にとって波の音は
日常であり、子守唄であり、自分に平穏を与えてくれるもの。そしてそこには自分を包み込んでくれる人がいた。
彼は彼女を視界にとらえるとまたもバツが悪そうな表情をしてから、さ迷った手を強く強く握りこんだ。
すまない、と。
そんな言葉を漏らした彼はもう、離れていかない。なぜだかそう確信をもつことができた。
「……もう」
彼の両の耳が分かりやすく垂れてしまっているのをみて、許してしまう気になっている自分は、やはりどうしようもなく彼の事が好きなのだろう。
ため息とともに零れた言葉は、彼を責めるためのものではない。だってほら、両の頬が分かりやすく緩んでいる。
「けれど、なぜこんなことを?」
不安にさせた代わりにそれだけは教えてほしい。いや、教えてくれなければ割に合わない。
やっぱり聞かれるのか。
視線が右へ左へと泳いで苦笑いを浮かべる彼の顔を両手で固定して覗き込む。
「もう逃げられませんの。さぁ、観念するですの」
あぁ、はいはい。わかったわかった。
諦めたような表情で彼はポツリ、ポツリと語り始めた。
曰く。最初はただのイタズラだった。
普段とちがう、そっけないような態度を見せたらどうなるか、といったイタズラ。
けれど、次第に罪悪感が押し寄せてきて 、いたたまれなくなってしまったのが服屋での話。
逃げ出したはいいものの、それはそれとして更に罪悪感が募ってきて一人で反省会をしていたのだという。
「って、全然よくないですのー! 逃げ出すなー! ですの!」
顔を固定した両手でそのまま頬をぐにぃと引っ張る。
想像した通りの、あるいは想像していない攻撃を受けて彼は悲鳴をあげたが、そんなことはしったことではない。
「いいですか、よぉく聞くですの」
全くこれだから。これだから彼は。
「わたしは、あなたが、大好きです」
ひとつ、ひとつ。言の葉を区切りながら言い聞かせる。
そう。彼女は彼を愛している。
たとえ親子にみられようとも、似合わないと周囲に笑われようとも、……いつか離れてしまうことがあろうとも。
これからも一歩ずつ。共に歩むと誓ったのだから。
「離れませんし、離しませんから」
覚悟をしてくださいね。
イタズラっぽく笑う彼女は、その瞬間、きっと世界で誰より美しかった。
さて、さしあたってデートのやり直しをしよう。
わたしに似合う服を買って貰うし、彼に似合う服をわたしの気が済むまで試着して貰うのだ。
「さぁ、行きますよ」
手を引き町へ再び繰り出す彼女らを、やわらかくなってきた夏の日差しが包み込んでいた。
――(あの夏の日)
いつか彼がわたしにしてくれたこと。
彼のためにわたしがしてあげられることを。
――(或いは、いつか訪れる夏の物語)