SS詳細
ベッドの上の両手分の世界
登場人物一覧
深緑――アンテローゼ大聖堂の傍らに立てられたこじんまりとした屋敷はアンテローゼ大聖堂の管理を行う司教やシスターたち、そして迷宮森林に入り込んだ旅人の宿泊所として使われているらしい。
鮮やかな緑の中を歩み進めば、巡礼者たちが頭を下げる。この場所は大樹ファルカウの麓にあり、そして、ファルカウに祈りを捧げることのできる場所として古くより幻想種達の中で伝えられてきた場所だ。最も、何所に居てもファルカウを見上げることができる以上はこうした場所を利用する者も少ないのだろうが、変化の少ない幻想種達にとってはこの場所はある種の文化遺産に近しいのだろう。
そうした場所には話には聞いていたが、訪れる事は中々なかったアレクシアには新鮮であるかのように思えた。灰薔薇の咲く聖堂の傍らの宿泊所の中には居ればシスターたちがにこやかに頭を下げてくれる。
面会の話をすれば、直ぐに許可をくれたシスターに礼を言って室内を歩むアレクシアの目の前にひょこりと顔を出したのは彼女にとっても見慣れて来た顔であった
「こんにちは、アレクシアさん」
にんまりと笑ったのは金の髪を揺らした新緑の魔女フランツェル・ロア・ヘクセンハウスであった。アンテローゼ大聖堂の司教である彼女の急な出迎えにアレクシアは居住まいを正して「急に来てしまって」と慌てた様に口にする。
「ああ、いいの。いいの。ここはそう言うのを気にしない場所なんだもの。
ええと、ルクアに会いに来たのよね? ……あっちのお部屋に居るし、のんびりしていって頂戴な」
にんまりと笑った灰薔薇の大司教にアレクシアは大きく頷いた。気安い雰囲気で声をかけてくるフランツェルがひらりと手を振って歩いていく背を見送ってからゆっくりと宿泊所の中を歩き出した。
空室の扉は開け放たれ、自由に冒険者たちが使用していい事になっているのだろう。来室のプレートが掛けられた部屋の一室、此処にクア・フェルリアール――嘗ての、『楽園の東側』の信者としてグリムルートでその身を無理矢理動かしていた幻想種――が居るとフランツェルが言っていた。アレクシアは緊張した様に扉をノックした。
室内でごそりと動く音がして、「どうぞ」と囁くような声が返ってくる。それは戦場で苦しみ唸りながらも自身の胸の内を叫んでいた声と同じで。
ルクア君、とその名を呼んでアレクシアは恐る恐ると云う調子でその扉を開けた。
「ルクア君、こんにちは。暫くぶりだね……その――身体の調子、どうかな?」
ルクア君という呼び方はアレクシアが友人に向ける敬称と同じだ。そこに込められたのは彼女にとってルクアという少女が自身の境遇と似て居る事からの親近感だろう。
「……イレギュラーズ」
そう、何所か苦虫を噛み潰したように言ったルクアの声音に込められていたのは『自由に動ける英雄』への苛立ちであったか。そうだ、アレクシアにもその声音の響きと苛立ちは覚えがある。自由に動けぬ自分の身を呪う事なんて山ほどあった。だから、自分とルクアが似ていると――そう感じたのだ。
(そっか……生きていてくれた。あの戦いの後、ルクア君が私やみんなの言葉をどう受け止めてくれたんだろう……)
生きて居る事に疲れたと泣いていた彼女に、生きて居て欲しいと押し付けた事はエゴだっただろうかとアレクシアはルクアを見遣る。シーツに埋もれ膝を掻き抱いたルクアはアレクシアを見上げて声を震わせた。
「何しに、来たの……」
「あの戦いぶりだね。体の具合は……どうかな、と思って」
部屋はフランツェルに――司教に聞いたと、そう告げるアレクシアにルクアは余計な事をするとぼやいた。どうやら、あの破天荒な司教は彼女の部屋に入り浸り適当な雑談を繰り広げていっているのだろう。ルクアの中でもフランツェルが『特異運命座標の味方』から『おせっかいな司教』になっているのをアレクシアは感じ取る。
「フランツェルさんはよくここに来るの?」
「……まあ」
「迷惑じゃなければ、私も来てもいいかな?」
そっと、サイドテーブルに置かれたままの冷めたココアを眺めてアレクシアは言った。椅子には私物と思わしき絵本が置かれており、アレクシアは其れを懐かしいと目を細めた。
椅子に腰かけ、ゆっくりとルクアを見遣る。白いワンピースに身を包んでいた幻想種ははっとした顔でアレクシアを見遣ってから「お好きにどうぞ」と囁いた。
「有難う。改めて、私はアレクシア。アレクシア・アトリー・アバークロンビー。
あの日、ルクア君に言った言葉は嘘じゃないよって言いたくて……病気の事、それから色々な事を教えて欲しいんだ」
「……どうして?」
震える声で、そう言った。ルクアと視線を合わせてアレクシアはそっと、囁く。あのね、と、まるで友人に秘密を打ち明ける様にして――自身も昔はベッドの上からほとんど動けなかったとそう告げた。
絶望し、死を求めたルクアとは対照的に御伽噺や英雄譚に憧れたアレクシア。彼女はルクアの様に死を求めるのではなく、ただ、自身も物語の様に踏み出せたならばと願ったのだ。ルクアはそれを聞きながらきゅ、っとシーツを掴んだ。
「……どうして、そんなにも笑って居られるの? 特異運命座標に選ばれたから?
私は、何にも選ばれずに後は死ぬだけなのに――貴女は、どうして……」
「私は、歩き出したいと願い続けたから。死にたいって思ってないよ。生きる事だって諦めてない。
ルクアくんにだって、私はそうやって前を向いて欲しいと思ってるんだ……エゴ、かもしれないけど」
アレクシアは柔らかに笑う。その言葉にルクアは唇を噛み締めた。
彼女が生きる事を諦めていたことは決して悪い事ではないとアレクシアは認識していた。自身と立場は違えど、ベッドの上から動くことができずに窓の外を眺める気持ちは彼女にはよくわかる。
それは、責めることではないのだ。彼女が『楽園の東側』に縋った事も、グリムルートで操られてでもその身体を動かせることに歓喜したことだって。
聞けば、ルクアの病はどうして発病したかわからない奇病なのだそうだ。混沌世界は不思議で満ち溢れている。その不思議が少女の体に影響を及ぼしたのだってきっと、致し方がない事だったのだろう。彼女の足は石のように固く動かすことができず、体は徐々に固く固く変化していくのだという。
その病を『石花病』と誰かが呼んだ。美しき花の如き乙女の体をいつしか石に変化させて、一輪の花を咲かせた後崩れるのだという。御伽噺に書かれたそれと同じように、ルクアの体は固く石に変化していっている。足先が固まった時に彼女は生きる事を『諦めて』しまったのだとシスターは言っていた。……治療の為に、ルクアがシスターに告げた事なのだろうがそれを聞くだけでもアレクシアはベッドの上しかない世界が両手分の期待もないことに気付き唇を噛み締める。
「……私は、分かるもの。動けない事の辛さも、外の色彩を羨むしか出来ない苦しさも。私も、そうだったから」
「……貴女も……?」
「そう。私も。私も、動けなかった。ベッドの上の両手分。ベッドの上の両手分の世界が私の世界だった。
ルクア君も、だよね。ルクア君もベッドの上の両手分しかない世界の中でずっと、ずっと、一人で過ごしてきたんだ。
分かるよ。窓から覗いたあの美しい太陽の下で木々の隙間から聞こえる鳥のさえずりを追い掛けたいって。……私だって思った」
寓話の中では何時だって主人公(ヒロイン)はそうしていたのだから。だから――それは、否定できない。
ルクアはアレクシアの顔をまじまじと覗き込んだ。美しき自然の中を今は謳歌することのできる彼女を羨んで、そして妬んだ気持ちを否定できないのだと――そう、言う様に。
「私と同じ、気持ちだったの……? あの緑の美しさを体いっぱいで感じ取りたかったの。私も」
唇を震わせて、ルクアはそう言った。大きな瞳から涙が落ちていく。白い指先が震え、シーツを掴む力が強くなっていく。
「私も、そうだよ。あの緑を体いっぱいで感じ取って、走り回りたかった。
沢山の英雄のおはなしに憧れて、冒険してみたいって思ってた。……ふふ、ルクア君と私って同じだと思うんだ」
ただ、自分自身は特異運命座標となった。そこがルクアとの違いだったのだろうと――そう、思う。
「けど、今は――」
「うん。だから、言ったでしょ? 私が力になるって。
私は諦めないよ。ルクア君が生きたいって思えないなら、思えるようになるまで諦めない!
ルクア君が沢山の自然を体いっぱいで受け止められるように。私はルクア君の力になりたいんだ」
そっと、立ちあがってアレクシアはルクアを覗き込んだ。その病に諦めを孕んだ瞳が僅かに煌めきを宿す。
どうしてと呟いてきらめきが落ちた。それが涙だと気づいた時、アレクシアは大丈夫だとその白い指先を握り込む。
「絶対に治す方法も見つけてみせる!
これでも冒険家志望なんだからね、世界中を巡って何かを探すなんてそれこそやってみせなきゃいけないよ!
どこかにきっと『可能性』は落ちてるはず。ねえ、知ってる? 特異運命座標は『可能性』なんだよ」
「可能性……?」
「そう、『何かを起こすことができる』存在。だから、イレギュラーズって呼ばれてるんじゃないかな?
私は、そう思ってるんだ。だから、ルクア君の病気を治して――それで、今度こそ、正真正銘自分の意志でこの世界を感じてもらうんだ!」
大きな空を眺めてその肺一杯に空気を吸い込むのだ。それから、目を伏せって大地を感じ取って足を踏み出すのだ。そうして世界を感じ取って改めて自分の事を考えて欲しい。そう考えているのだとしっかりと目を告げていうアレクシアにルクアは唇を噛み締めた。
「うん……うん……。きっと――いつか」
友達の力になりたい。アレクシアがそう笑った言葉を聞いてルクアは俯いた。
外に出ることができない自分には友達という言葉は今までなかった。そうした存在に憧れた事だってある。
だから、死ぬ気で『グリムルート』による洗脳を受けた。こうやって死ねば多少誰かの力になれると思った。命をなげうったって良かった――それだけ、この世界には何もないと、ルクアは思っていたのだ。
「あんな、莫迦みたいなことをしてもお友達って言ってくれるの……?」
「ふふ。勿論だよ。だって、お友達になりたくって手を伸ばしたんだもん。だから、私の事、友達って思ってくれる?」
ルクアはゆっくり頷いて、アレクシアの手を取った。
扉を開け、またねと告げたアレクシアの目の前には壁にもたれながらにんまりとしているフランツェルが立って居た。
「お友達になったの?」
「あ、はい。……やっぱり、一人って寂しいですし」
ちら、とフランツェルを見遣ったアレクシアに彼女は満足そうに頷いた。魔法使いを志すアレクシアにとっては深緑で魔女と呼ばれたフランツェルは憧憬を向ける存在だ。『魔女』と自称するではなくきちんとアンテローゼ大聖堂の司教という立場なのだ――実力者なのだろう。噂ではその外見そのものも魔術的作用のある魔法道具で時を止めているとも言われているが……信ぴょう性はない――それだけでも興味を向ける存在であった。
「それにしても『可能性』かあ。うん、いいわね。私、それってとっても素敵だと思うわ。
『何かを起こすことができる』存在である貴女がルクアの為に頑張るって言うなら私だって協力するもの」
その言葉に、アレクシアは小さく笑った。あの時も、そう――ルクアと戦っていた時だってフランツェルは力になると言っていた。この魔女はどうやら好奇心が旺盛でそして、誰かの力になることを厭わないのだろう。
アレクシアがルクアにそうしたいと思った気持ちをフランツェルは尊いものだと認識している。司教様と呼ぶシスターの声を留め、ルクアとアレクシアの面会の時間を邪魔しない様にちょっぴりとだけ気遣いを添えたのだ。
「フランツェルさんも、力に?」
「ええ。アレクシア。貴女のその行いはとても尊いものよ。人の心を救うのはとても難しく、私だって『諦めて』しまったもの。
魔女というモノは長きを過ごすうちに諦める事に寛容になるわ。けれど、それは時には毒なの。
……貴女は思う存分、誰かの為に手を伸ばして。諦めないで、そして、困った時は名前を呼んで頂戴」
その行いに感謝をする魔女だからこそ、きっと力になるわとフランツェルは笑みを溢した。
アレクシアは自由奔放で掴みどころのない魔女の本心を垣間見た気がしてぱちりと瞬いた。
「ああ、私の事はフランって呼んで頂戴な。ルクアのことは『ルクア君』なんでしょう?
魔女は案外寂しがり屋なのよ。ああ、けれど『魔法使い』の貴女はご存知だったかしら」
冗談めかしてそう笑ったフランツェルに可笑しくなってアレクシアは小さく笑う。
皆誰だって一人では生きていけないから。それを含めて『寂しがり屋』なんて言うのだ。
ルクアも、きっと、そういう気持ちだったのだろう。
諦める事に慣れてしまった。諦める事に慣れて、慣れて、それから――次がなくなってしまったのだ。
「……きっと、希望になるわ」
囁くその声は聞こえない。振り向いたアレクシアにフランツェルは「またいらっしゃってね。ルクアは此処で治療をしているから。冒険して、彼女の病を治す『希望』を持っていらっしゃい」と微笑んだ。