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Calm the mind
登場人物一覧
――ポォン
聞こえた音にシラスは足を止めた。
突如として静止した青年を気にする者はなく、人はまたぞろ流れだす。
――ポォン
優しい秋風と金木犀の香。鼓膜を微かに震わせた音の波紋は、心を穏やかに高揚させていく。
「ピアノの音、か?」
丁度、考えていたのだ。
その、澄んだ音色のことを。
食材の入った茶袋を抱えなおしてシラスは音の流れを遡るように歩き出す。その顔に無邪気さを滲ませて。
シラスがピアノという鍵盤楽器と本当に出逢ったのは森の中にある修道院だった。
その時の彼は荒れていた。負の澱みが蛆のように精神を食い荒らし、倫理の天秤から螺子が外れかけていた。
そんなシラスの状態を見かねたのが、粗野で乱暴で、誰かを見捨てることが出来ない優しいシスターだったのだ。
彼女はシラスに天啓を与えた。
その空間に満ちた穏やかな音色はステンドグラスに似た静謐さと美しさでシラスの心を揺さぶった。
シラスはピアノという楽器を知っていた。そのつもりであった。
黒と白の鍵盤も、その音が奏でる旋律も、得意げに燕尾服を纏う奏者も、流れるような左右の指の動きも、知識としては知っていた。
けれども指の腹で鍵を押した瞬間、象牙のように柔らかな白が奏でた透明な音をシラスは知らなかった。
血に塗れ罪業を重ねた己の指があんなにも純粋な音色を生み出すだなんて。
シラスは、まったくこれっぽっちも、知らなかったのだ。
迷路のような道を歩いていく。
短調と長調、和音と音階、高音と低音。
何度もひっくり返りながら、楽し気に踊る旋律は早くおいでとシラスを呼んでいるようだった。
落書きに塗れた赤煉瓦の隙間に、それはあった。
綿とバネが飛び出したソファと鈍色に光るブリキのゴミバケツ。射しこんだ陽射しはオレンジ色のスポットライトで、建物の間に張り巡らされた白い洗濯物が歓声のように翻っている。
貧民街のゴミに埋もれた三本足のグランドピアノは、所々塗料が剥げてバウムクーヘン色の鍵を晒していた。
けれども、その満身創痍な姿が奏でる音には強い生命力が溢れている。
「この辺では見ない顔だなァ。オーディエンスかい?」
ピアノを弾く男はシラスを見ると歯を剥きだして笑った。
所々失われた歯が黒鍵のようだ。襤褸を着た浅黒い肌の男で、ひょろりと長い細い手足はどこかナナフシに似ている。
「それともこの我がまま娘に手ほどきを受けに来たのかい?」
手を止めないまま、男は器用にシラスの方を向いた。
「しょっちゅう音は飛ぶし、調律は狂う。だが、彼女は誰でも受け入れる。この辺に住んでる奴らは皆、彼女から手ほどきを受けたもんさ」
「俺も弾いて良いのか」
「勿論。彼女を見つけた奴には資格がある。弾いてみるか?」
珍しくシラスは言い澱んだ。
本当の事を言えば直ぐにでもピアノを弾きたかったが、相手の手を止めさせるほどでは無いと感じたからだ。
「このピアノはずっと昔から此処にある。誰のモンでも無いから、弾きたい時に勝手に弾けば良い」
「そうか。なら、俺もピアノを練習したい時は此処を使わせてもらおう」
「夜遅くに弾くと拍手の代わりにクソが降ってくるから気をつけろ」
「分かった」
明らかに肩の力を抜いたシラスを見て男は笑い、転調を重ねて着地した。
唯一の聴衆として、シラスは荷物を置き、炭酸水のような拍手を贈る。
「今の曲は良いな。俺も弾いてみたい。曲名は何と言うんだ?」
「『ピアノを弾いたらオルフェが来た』」
「オルフェって何だ?」
「この辺りに住んでる猫だよ。誰かがピアノを弾いていると、ふらっとやって来て、いつの間にかそこのソファで聞いてるんだ」
「へえ」
感心したようにシラスは声をあげた。猫や動物の中にもピアノの音を好む物がいるのだろうか。そうだとすれば不思議なことだ。
「……つまり?」
「今のはオレのオリジナル曲だ。と言っても基本的なコードを組み合わせただけの即興曲なんだが。気にいったかい?」
「とても気に入った。自分で曲を作れるのか。凄いな。譜面はあるのか」
「残念ながら無い。その日の、心のままに弾いてるからな」
ピアノ弾きの男は突然迷い込んできた、この黒猫のような青年の素直さを気に入った様子であった。
「俺もアンタみたいにピアノを弾けるようになるかな。何って言ったら良いのか……アンタのピアノは聞いてて楽しい。譜面があったら良かったんだが」
「褒め殺しとは嬉しいねぇ」
男は再び鍵盤に指を乗せた。リクエストやアンコールに慣れきった、ピアニストとしての動きだった。
調律するようにピアノコードのGを押さえる。
先ほどとは違う、挑戦的な
「譜面は、いつだってあるわけじゃねえ。お前さんの眼と腕なら、俺の根音やコードの癖を見抜けるんじゃないか」
指が一音を選び、決まった鍵を押さえる。
「そうだな。その程度なら楽勝で盗める」
「言うね」
シラスは何も言わずにニタリと笑った。盗まれるのが嫌ならば見せなければ良い話なのだ。
品の良い店のピアノやコンサートホールとは違って、この空間にはシラスにとってのハウスルールが適用される。男も理解しているのだろう。気分を害した様子も無く言葉を続けた。
「音を楽しもうぜ。基本を理解すれば、曲は無限に湧いて出てくるモンだ」
繰り返される指の動きをシラスは追った。
「覚えたな? じゃ、隣座って今の動きを繰り返せ」
「は?」
「連弾だよ、連弾!! 折角二人いるんだ。バトルしようぜ」
四手が並んで動き出す。はらはらと散る紅葉のように忙しなく、眩く明滅する星々のように楽し気に、退屈など知ったものかと言わんばかりの激しさで奏でていく。
ピアノを弾くことは意外と体力を使う。演奏が終わった時には、シラスの息は少しだけあがっていた。
しかしシラスほどの実力者の体力が、一曲程度で減るはずもない。
恐らくは、興奮していたのだろう。
そう理解できた者は本人も含めてこの場にはいないけれど。
「ジャズが気に入ったみたいだな」
「ジャズっていうのか」
「そうだ。自由で卑猥な、情熱の音楽だ」
「俺には恰好良く聞こえた」
「そりゃあ素質がある。おっと、俺はそろそろ仕事に行く時間だ。あとは好きに弾きな」
男は親指で背後を指した。
「そこの酒場でバックバンドをやってる。興味と金があったら店に来い。譜面を貸してやるよ」
「ああ……やけに親切だな」
「荒削りだが有望なピアニストの卵を見つけたんだ。なら腐らせちまう前に投資するべきだろう」
そう言い残し、男はふらりと路地を曲がって行ってしまった。
男の姿が見えなくなってから、シラスはほうっと息を吐く。あんなに感情を露わにした演奏は初めてだった。
「一応聞いておくんだが」
「うわ、ビックリした」
大してビックリした様子も無く、強いて言うなればわざと驚いた声を作ってシラスは振り向いた。
先ほどの男が半眼を作り、何かを見透かすようにじぃっとシラスを凝視していた。
「お前さん、オルフェが化けてる、訳じゃないんだよな?」
「俺は猫じゃない」
猫に例えられるのは納得いかないと、シラスは眉を顰めた。
「悪い。オルフェの毛の色がお前さんの髪の色に似ていたもんでな。夜に見るコントラバスの色なんだが」
「何だそりゃ」
「それにピアノ弾いてたら来たしな。好きなんだろ、ピアノ」
「ピアノは……好きだ」
「そうか。じゃあ、邪魔したな」
それだけ言い残して、今度こそ男は去ってしまった。
――ポォン
一音。静かな音色に心が凪いでいく。
ジャズも良い。
けれども。
流れるように指が踊り出す。
森の木漏れ日、子供たちの笑い声、しかめっつらのシスター。
彼女と共に弾いた曲がシラスにとって一番のお気に入りだった。
何度も頭の中で繰り返したためか。滑らかに動き出す指に、あの時のような拙さはもう無い。
シラスの指が奏でる音色は水面を跳ねる陽光のようだった。眩しく白く、けれども星々の瞬きにはまだ遠い。
「今はそれでも良いさ」
晴れやかな気持ちでシラスは秋空を見上げた。
「黄金の竜の名を借りるなら、ピアノでも
上手くなりたい。
いつの間にかソファの上に寝そべっていた鳶色の老猫が、嬉しそうに応えた。
おまけSS『八十八鍵蜃気楼』
今日は暑い。
ラサの陽射しは、肌を焼くような錯覚を受ける。
振りぬいた拳の先では、丁度知らない顔が白目をむいて倒れて行くところであった。
手加減はした。けれども、しばらくは起きてこないだろう。
殺すなと言うのが今回のオーダーだったから。
「しかし、こう数が多いと面倒だな」
手加減はするが、何せ数が多い。
面倒くさいと相手も見ずに裏拳を叩きこむ。
商隊の護衛、と見せかけた盗賊狩り。普通なら絶望する数の差を、作業のように埋めていく。
(ピアノが弾きたい)
砂塵が舞い、曲刀が銀の煌めきを見せる。
クーフィーヤに似た白いフードが陽炎のように揺れる。
(C、G、Am、Em)
鷲のように迎え撃っては、急襲を重ねていく。
けれども指が、見えない鍵盤に触れるかのように動いていた。
(F、C、F、G)
鳶指だけでは出せない音色。
表現力、透明さ、深さ、色。
正しい演奏は出来るようになったが、まだ感情をこめるには至らない。
ピアノというものは面白い。
知れば知るほど深くなり、練習すべきことが見えてくる。
「余所見してんじゃねえよ!!」
「ああ、悪い。あんまりにも退屈だったんで今日の予定を考えてた」
シラスは意識を戦場に戻すと、向かってきた盗賊たちを纏めて砂へと沈める。
「しまったな。今は仕事に集中しねえと」
深く息を吸い、鋭く眇めた鳶の眼が象牙の原を駆け出した。