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Happy birthday dear....
登場人物一覧
秋の午後。涼やかな潮風を逃がすように、キャラック船が帆を畳んでいる。
ところが入港の際に新米の水夫が錨を降ろし間違えたようで、船は不格好に斜めを向いてしまった。
遠目に見える潮焼けした逞しい男達が、大げさな身振りで何事かを伝え合っているようだが、結局そのまま荷下ろしを始めた。辺りを見渡しても、誰も気に留めた様子はない。ちょっとしたトラブルなどお構いなしという訳だ。海洋王国の首都リッツパークの街は、今日も明るい騒がしさに満ちている。
しばし足を止め眺めていたアーリアは再び歩き出した。それより次の関心事は近くの露天から漂う焼いた魚介串の良い香りであり、興味を惹いたのは豊穣風を謳う螺鈿細工の小物入れが並ぶ様子であり、おまけはハムにも魚にも目一つくれない贅沢な野良猫が着飾るタビー模様の毛並みだったりもする。
つまるところ、この散策に目的なんてありはしないのだ。
少なくとも、今のところは――
「アーリアさん?」
「あら、その声はお魚屋さんの!」
不意の呼び止めに振り返ると、そこに居たのはヴィオラという若い女性だった。この街で一人、魚屋を営んでいる。海洋王国大号令の後、彼女の亡き夫の遺品を届けるために出会い、それから数度、買い物などをしたことがある。あれからもう、どれぐらいになるだろうか。
「買い物ついでなんですけど、ちょっとお腹すいちゃって、よければ一緒にどうですか?」
「いいわね、おすすめのお店はあるかしら?」
「それならこちらです!」
色とりどりのタイルが煌めく通りを曲がると、アリビオという名の軽食カフェが姿を現す。
店員といくらか挨拶したヴィオラと共に、アーリアはテラス席へ案内された。ちゃっかりヴィオラの得意先だったりするあたり抜け目ないのだが、逞しく生きているようでむしろ安心する。
「手広くやっているのね」
「えへへ、そうなんです。最近は店舗より卸しのほうが多いかも」
得意先に見せる快活そうな笑みと、アーリアに見せるいつも通りの柔和な笑みと。この感覚が正しいかは未だに分からないが、ヴィオラのことを大人っぽいなと感じた。
「これ美味しいんですよー。あー、じゃあクロケッタと、あと今日の魚介のソパをそれぞれ二人分お願いします。あとお水も。それでそれで、聞いて下さい、最近――」
フェデリアの発展は人々の生活にも変化を与えていた。流通の増加は多様性の広がりも内包しており、街の店も徐々に入れ替わり、あるいは装いを変えつつある。
「あら本当、美味しいわ」
オリーブ油で揚げられた軽快な衣を噛むと、たっぷりのミルクと微かなナツメッグの香りに包まれた濃厚なベシャメルソースが舌に広がる。具は細かく刻んだハムにイカ、ほぐした貝柱だ。これが微炭酸の瓶詰め天然水と良く合う。本日のソパは海老と二枚貝に白身魚の澄んだスープだ。そこにカリカリに焼いた薄切りのパンがついている。
「これうちのなんですよ、えっへへ」
そう言いながらヴィオラがフォークに刺した大きな海老をふりふり振る。
殻ごと煮込まれたスープは滋味深く、ヴィオラ一押しの殻付き海老は少し食べにくかったが、旨味が詰まったぷりぷりの身が最高だった。
しばらくすると、注文していないケーキと紅茶が現れた。お店からのサービスらしい。
ヴィオラに予定を尋ねると、夕方までは時間があるとのことだ。折角だからお店の好意に甘えて、もっとおしゃべりしてしまおう。
「豊穣の髪留めって最初付け方わかんなくって、これなんですけど、ほら」
彼女が外してみせるアクセサリーひとつとっても、生活に新鮮な変化を与えてくれているようだ。
「それで、うちのお店の子が教えてくれたんですけど」
ヴィオラの店はあれから少しだけ大きくなり、
ヴィオラとはたまに会っていたといっても、長話をしたのは初めてバーでのんで以来、二年ぶりだった。ずいぶんいろいろなことが変化していることに気付かされる。
客観的には大号令の成功が経済発展に寄与した。つまり彼女の亡き夫やアーリア達イレギュラーズが勝ち取った未来という名の成果物、その恩恵をヴィオラは享受していることになるだろう。アーリアはといえば――そしておそらくヴィオラにとっても――喪われてしまった掛け替えのない存在のことも、心に棘を残したままではあるのだけれど。
ともあれ食事をしながらのとめどない会話は、実のところ『知りたかった話』でもあった。
思い返せばゆるやかに――けれど急速に過ぎ去っている歳月も、刻まれる日々そのものには密度がある。交易船が増えたとか、魚が少し値上がりしたとか、商品の卸先が増えたとか。まとめてしまえばそれまでだけれど、ヴィオラの口から直接語られる日常は、新鮮な驚きと、生きているという実感をくれる。
――夕方の仕事に戻るヴィオラと別れ、すっかりと日が落ちた頃。
アーリアは小さなバーのカウンター席に腰掛けていた。
ここはいくつかある『行きつけ』の一軒だ。
イレギュラーズになってからの激動の五年と、それよりずっと以前から、何も変わらないこのバーと。いや歪んだ蓄音機の音色は、あの頃はなかったろうか。古いんだか新しいんだか。しゃがれたジャズの音色は、けれど不思議と悪くない。
どこもかしこも、少しずつ変わっていっている。
アーリアはマスターに、ありふれたブレンデッドウィスキーをお願いした。
底の厚い小さなグラスに注がれた琥珀には、水も氷もなく。
ストレートをジガーで一杯だけ。
品質はそれなりに高いが、今のアーリアにとっては安酒の部類に近い。
こういったオーセンティックなバーにはだいたい置いてある蒸留所の酒で、カクテル用にする場合もあれば、もう一つグレードの高いものからしか揃えていない所もある。そんな案配の酒だ。
「灰皿を頂けるかしら?」
「これは珍しい」
「一本だけ、吸いたい気分なの」
「どうぞ」
老いたマスターがガラス細工の灰皿をそっと置いてくれた。これもその一つ。少し年寄り臭い形状が、なんだか似ているから。このバーの良いところは他にもいくつがあるが、お酒を頼むと瓶を目の前に置いたままにしてくれること。特にこんな日には――
酒瓶の赤いラベルに描かれた紳士と灰皿を見比べると、遠い日の記憶が甦るようで。
――じゃあ、大人になったら!
――そうだね、大人になったら飲もうね。
そんな約束の通りに。
初恋の人の誕生日祝いに。
あの人が、いつものように飲んでいたお酒を。
煙草を包むソフトケースの頭を二度ほど叩き、顔を出した一本に指をかけようと――あの人のように上手くはいかないか――もう何度か叩いて取り出してやった。葉巻なんかじゃない、どこにでも売っているただの紙巻き煙草。ちょっと甘く香るのは、バニラか何かのフレーバーらしい。
それを咥えたらマッチを擦り、小さな火を灯した。
少し吸い込み、火を消す。
燐の香りの後に、舌先に煙の微かな熱と辛味がやってくる。
傍で嗅ぐのと比べて妙に心地よいと思っている頃、やや遅れて酔いか立ちくらみのような感覚。バーカウンターに肘をついていると、妙に鮮明になる視界。聞こえてくる胸の鼓動。
安物のチョコレートと、安物のウィスキーと、この安物の紙巻き煙草は、不思議と良く合う気がする。
本当にそうなのか、それとも想い出があるからかは、分からないけれど。
最後の煙を吐き出して。吸い終えたなら、一本でおしまい。
癖にはしたくないから――それに記憶が薄れてしまうような気がするから。
日常になってしまったら、もう儀式とは言えないのだ。
この秋には、二十九。
次の秋には、三十になる。
記憶の中のあの人は、今のアーリアを見たらなんて言うだろう。
そんなあの人の年齢にも、そのうち追いつき、追い越してしまうのだろうけれど。
仲間内で年齢の話があれば、面白おかしく盛り上がるように相応の反応を返したりもするけれど、本当のところを言えば、驚くほど実感なんてなかったりする。
人は皆、様々な化粧の仕方を覚えて大人になっていく――なんて言ったら大げさだろうか。
大人の振りをするのが上手になり。大人であろうと務め、そうあれかしと念じ、演じる態度を板に付かせて生きている。たとえ未だ同じ左手薬指の指輪を外していなかったヴィオラであったとしても。きっと同じように、大人の化粧が上手になっただけだったりするのかな。
とりとめもなく、夜は更け――
さてお次は。
「どのお酒にしようかしらぁ」