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静寂と音楽
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- 柊木 涼花の関係者
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捨てたはずはずのものが、戻ってくること。
失くしたはずのものが、出てくること。
それはいつでも有り得ることで、此方の都合など考慮もしなくて。心の準備だってままならないまま――やってくるのだ。
朝起きたら顔を洗ってご飯を食べて歯磨きして。着替える頃には時計の針が早く出ろと急かしてくる。もたもたと着替え終わって、寝癖を直していれば母が今度は急かしてくる。もう出るよ、なんてそっけなく答えて飛び出すように家を出て。
外はゆっくりと仕事場へ向かう会社員や、電車へ間に合わせる為に急ぐ大学生。犬の散歩に出かけているおばあちゃんと、沢山の人が行き交っている。大体それらの人も、何時頃に通るかは毎回決まっていて――たまに急いでいる人が違うくらいだろうか――きっとお互いに『今日もいるな』なんて思われているのだろう。
「――■■■ちゃん!」
「涼花。おはよう」
親友と待ち合わせ。待たせた? なんて聞けば、今来たところ、と返ってくる。その割には互いに息が上がっているのだけれども。
学校までの道のりは他愛もない話が続く。昨日のバラエティやニュース、家族とこんな話をした、とか。日々話していれば積もるほどのものでもないので、学校のどれそれの教科が嫌だとか、あの授業は小テストがあって嫌だとか、まあ大抵は愚痴のようなものが出てくるのだ。互いに吐き出して、1日の気合を入れる。
「じゃあまた、放課後に」
「はい、またあとで!」
昇降口の下駄箱で上履きに履き替えたら、■■■と涼花は手を振った。各々テストなり授業なりを頑張る時間。最大の敵は眠気である。
涼花は教室に着くと、背負っていた楽器ケースを鞄と一緒に降ろす。窓際の席は楽器ケースを誤って蹴られることも少ないから、できたら席替えの後も窓側とか、もしくは廊下側とか、端が良い。
次の席替えはいつだったかなあ、と考えながら、涼花はホームルームの時間までにと楽譜を取り出したのだった。
一方の■■■はと言えば、席に着くとそうそうに本を取り出す。涼花は音楽が好きだけれど、親友である彼女はそうでもない。どちらかと言えば静かに本を読んでいるほうが性に合っている。
そうして時間は過ぎて、下校時間になったなら。2人は並んで歩いて、伸びた影の先を見ながら今日はああだった、こうだった、この宿題面倒だな――なんて。
「■■■ちゃん、いらっしゃい!」
休日は、大抵どちらかの家にいた。一緒にいると気が楽だから、というのもあるし■■■は涼花の奏でるギターの音が好きだから。
「はい、これ」
「美味しそうですね! ありがとうございます、これはあとでおやつに出してもらいましょう」
持ってきた菓子を渡して、早速涼花の部屋へと2人は移る。2人でいるだけなら■■■の家、彼女の部屋でも良かったのだけれど、いかんせん涼花が好きにギターを奏でられる場所というのは限りがあるものだ。
「それじゃあ、ボクは本読んでるよ」
「はい。それにしても……■■■ちゃん、難しい本読んでますか?」
むむ、と涼花が眉を寄せて■■■が取り出した本の表紙を見つめる。そんなことはないはず、と彼女が返せば、本当に? と穴が開きそうなほどに見つめて。
「涼花も沢山本を読んでたら、難しくなくなるかも」
「えーっ、無理ですよ!」
ぶんぶんと頭を振る涼花。そこへ涼花の母がやってきて、■■■ちゃんを見習ってもう少し本を読みなさいよ、と小言を言いながら飲み物を置いて出ていく。む、と小さく口を尖らせた涼花に■■■は小さく笑った。
「ボクは、涼花の音楽好きだよ」
「……ありがとうございますね。それなら、■■■ちゃんの好きな曲から弾きましょうか」
小さく笑って、ベッドに腰かけた涼花が楽器ケースからアコースティックギターを取り出す。そしてチューナーをはめると、慣れた様子で調律を済ませた。その様子から視線を外して、■■■は本の栞を挟んだページを開く。大分読み進んだから、あと1,2日程度で読み切ってしまうだろうか。
別に音楽自体に興味はそこまでないし、■■■自身がギターを弾けるわけでもない。けれど、涼花が弾くギターを聴くのは好きだ。いつまでも聞いていたくなるけれど、時間は何処までも有限で、だからこうして読書の傍らで聞かせて貰っている。
ギターの基本的な動作を繰り返す短いメロディ。本来であれば曲とも呼ばず、ただのウォーミングアップであるそれは、ギターの音を規則的に響かせる。この単調とも呼べる音が、■■■は嫌いじゃない。
読書の進み具合は常よりも遅いけれど――それは、楽しそうに弾き語りする涼花の姿に、ついつい視線が向いてしまうからかもしれない。
「うーん……ここのところ、どう思います?」
そうして聞いてくれるから、涼花も弾き方に迷った部分は彼女へ相談することがある。基本的には1人で自由に――楽譜に書いてある音楽記号は守るけれど――弾いて満足することが多い。けれどたまに、何度弾いてもしっくりこない部分がある。
その部分だけを弾いてみると、彼女は本から視線をあげ、首を傾げて暫し。音楽には拙いながらも、こうした方が涼花らしい、とアドバイスをくれることもある。勿論互いに素人なのでくれないこともある。そんなときは自身が満足するまで弾いてみるしかないのだ。
「はい2人とも、おやつどうぞ。涼花は明日の宿題大丈夫なの?」
途中で涼花の母がそう声をかければ、涼花がわかりやすく固まるものだから。涼花母と■■■は揃って肩を竦めたりして。
いつも通りに時間が過ぎていく。平凡で、平和な、2人の日常だ。
2日間の休日を挟んだなら、学生はまた学校だ。希望ヶ浜の街は平常通り、行き交う人々で朝から賑わう。
「■■■ちゃーん! 遅くなってごめんなさい!」
全力で走って来た涼花の姿に珍しい、という言葉が降ってくる。仕方ない、昨日は譜読みが楽しくなって思わず夜更かししてしまったのだ。
それを聞いた■■■はそれなら仕方ないね、と苦笑を浮かべ、少し急ごうかと学校への道を早足で歩きだす。隣をやはり早足で歩く涼花は、ふと思いついたようににやりと笑った。
「学校までどっちが早く着くか、競争してみます?」
「え?」
「いきますよ!」
「は? ちょっと、涼花!」
答えも聞かずに走り出す涼花。その直前の表情はいかにも「負けませんよ?」と言いたげで。
あれで普段お淑やかな姿に憧れているというのだから、例え自分の前であってももう少し落ち着いた様子でいられないものか!
「というか涼花、走るならちゃんと前見て!」
「大丈夫ですよー、ちゃんと見てますって!」
嘘つけ、思いきり顔がこちらを向いているじゃないか。
■■■は楽しそうな涼花に追いつこうとして速度をはやめて――あれ、と思った。全然距離が縮まらない。あんなに大きな楽器ケースを背負っているのに。
それどころか離れていく。どうして。どうして?
「涼花、待ってよ! 立ち止まって!」
「早くしないとチャイム鳴っちゃいますよー! はやくはやく、■■■ちゃん!」
待って。そんな風に走ったら危ないから。追いつけないから。だから、止まってくれるように叫んだんだ。
「――
はっと息を呑む音が聞こえた。誰だ。誰だ。誰だ。
ぱちんと泡が弾ける様な感覚。何だ。何だ。何だ。
くらい。よるだから。
つめたい。ちのけがひいているから。
ひゅうときこえたのは、わたしののど。
ごくりと無理やり唾を呑み込んで、喉を湿らせる。そうでもしなければ、声なんて出そうにも無くて。そうしても、どう言葉に出していいかわからなくて。
「……い、まの、は」
どうして"わたし"はそう叫んだ?
どうして"わたし"がその名を呼んだ?
だって、"わたし"が柊木 涼花(p3p010038)なのに。
今の彼女を占めるのは混乱の一言に尽きる。そればかりに埋め尽くされて、他の感情もなにもあったものではない。言葉すらもろくに出ず、気持ちの整理などできようか。当然、こんな状態で再び眠るなんてできやしない。仮に眠れたとしても、きっと良い夢は見られない。
涼花は静かに布団を抜け出した。ひたりと密やかな足音が鳴る。酷く寒くて、近くにあった羽織ものを手繰り寄せて肩からかければ、漸く少しマシになっただろうか。
そうだ、温かいものを飲もう。こんな状態じゃ落ち着く事だってできないから。
そう思って足をそちらに向けた、はずだった。気が付いたのは手が楽器ケースに触れた時だった。ハードケースは温かみなどあるわけもなく、冷えた涼花の指先には硬い感触ばかり。けれどこの中にある楽器からは温かい音が出るのだと、涼花は知っている。
本当に、
瞬間、ぞっと背筋を冷たいものが零れ落ちた。
ないないだらけの放浪者、柊木 涼花。けれど音楽対する衝動に突き動かされてここまで来て、それだけで良かった。良かったのだ。他のものはなくたって、構わなかったのに。
楽器ケースを抱きしめれば、ごつごつとした感触が少しばかり痛かったけれど。それは同時に、
――きっと、悪い夢。きっとそう。そうなのだ。