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Mors certa, hora incerta.
登場人物一覧
身体が、思考が、波に揺蕩う。
なんの波だかも分からない暗い波のような何か。
目を開けるのも億劫だ。
一を知らば、十を知りたくなる。
十を知らば、百を知りたくなる。
百を知らば、全を知りたくなる。
全を知らば、全を捨てたくなる。
それでも、私は傷ついても傷ついても知ることを辞めまい。
それが、私の運命の歯車としての役割であるが故に。
ならば、目を開けよう。凡てを知るために。何が待っていようとも。
——ここは何処?
見知らぬボロボロの天井に青白い幽霊のようなモノが揺れている。私は裸のままボロ布を被って冷たい金属の上で寝ていたようだ。
冷たい金属——無機質なパイブベッドだった——から私は起き上がり、慎重に周りを見渡す。
——全く奇妙な部屋だ。
湿気て黴びた臭い。じめっとした空気。
何処からか聞こえてくる赤ん坊の泣き声。
奇妙なオブジェ。
メリーゴーランドの玩具。
小さな花を生けた花瓶。
走り回る百足。ハート型の奇妙な足跡。
黒いレースのカーテンで覆われた壁。
時計も新聞もないから、今がいつかも分からない。
「泣いているの?」
唐突な声に驚く。言われて初めて気付く。私の頬に涙が伝っているのを。
声の主を探す。小さな女の子だ。黒いワンピースを着て、ベッドの下に身体をすっぽり入れて顔だけ私の方を見ている。道理で気付かないわけだ。
「おねーさん、どうして泣いてるの?」
小さな花が涙で歪んで見えた。何故泣いているのかも分からない。
「泣かないで、おねーさん。おねーさんのお名前おしえて?」
——私は誰?
そのとき、初めて私は私という存在が何者なのかすら記憶していないことに気付く。他者に認識されて初めて自分が観測されるとは、誰の言葉だっただろうか。
そう冷静に考える私の一方、自分の存在を見失って混乱する私の心。心が行方不明だ。私は何者なのだ。私は一体なんなのだ。
身体を見渡すとお腹の右下あたりに“Mors certa, hora incerta.”とタトゥーが彫られている。
(『死は確実、時は不確実』……。ラテン語の格言で『死は確実に訪れるのだから、それまで精一杯生きろ』っていう意味ですね)
今を精一杯生きるためにも私の記憶を取り戻すのが先だ。今の状態ではどう生きればいいかすら分からない。
私を見ていた女の子がにちゃあと嫌な笑い方をしていたような気がする。まるで私の心を読んだように。
「ねぇ、おねーさん、ほんはすき?」
そう言うと女の子は黒いレースのカーテンを開ける。そこにあったのは壁一面に詰まった本だった。子供が読むものとは思えないほど、高度な本も並んでいる。
——知りたい。私は知らなければならない。
本を見た瞬間、思い出す。私が知識を異様なほどに欲していたことを。新たな知識を知り続けたがっていたことを。
そして声を漸く絞り出す。
「好きですよ。新しい知識を得ることができますから」
「これぜーんぶ、わたしのほんなんだよ。わたしもほんがすきなの! わたしはね、いろんなことをしりたいの! だから、いろんなほんをよんでいるの!」
「似たもの同士ですね」
「うん! にたものどうしだね♪ おねーさんはどんなほんがすきなの?」
「そうですね……。新たな知識が得られれば何でも好きですけど……」
なんとなしに目に入った本をペラペラと捲る。随分擦り切れて何度も読まれた跡がある。
——凡ての人の神経を繋ぐ■■■■システムは終わりのない怒りを恍惚に変えるだろう。
目に入ったシステムの名前を見た瞬間、凡てを思い出す。私の名は『ドロシー・アイリス・エフィンジャー』。かつて、このシステムを信じ切って作ろうとしていた愚かな女。
「わたしのおきにいりのほんなんだよ。すてきなことがかいてあるでしょう?」
女の子は恍惚とした顔で■■■■システムについて語り始める。
そうだ。この女の子はかつての私だ。ワンピースを無理やり捲り上げる。お腹の右下には、私と同じタトゥー。
——幼くて、愚かな私だ。
——憎くて、殺したい私だ。
思い出すトラウマ。思考は憎しみに支配される。
幼い私の首を思いっきり締める。
目が回るようだ。
メリーゴーランドの玩具が廻る。廻る。困惑と共に。苦しみと共に。
幼い私の甘い匂いのする口から赤い砂が吐かれる。
「……に……げ……ば……なんて……な……い……」
首を絞められながらも口に笑みを浮かべて、幼い私は戯言を紡ぐ。
私は逃げ切ってみせる! 何もかもから!
「……ハァハァハァ!」
私は目覚めて、部屋を見渡す。見知った部屋の風景にホッとする。
「なんてことない、ただの悪い夢です。……明日も明後日も、等しく来る、そのはずです」
自分に言い聞かせるように。トラウマを忘れてしまうように。
私は精一杯生きなきゃいけないんですから。タトゥーをなぞり、誓いをたてる。今日を生きるために。明日へ繋ぐために。