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ありきたりな悲劇の話
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- トキノエの関係者
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人の集まる場所では、必然的にさまざまな感情が存在するものだ。
喜怒哀楽はもちろんのこと、一言では言い表せない複雑な感情だってあるし、欲望にまみれたそれだって在る。
それらを感じるのは面白いし楽しいし――引っ掻き回すのも良い。
これはただの、ひとつの不幸な話。ありふれた悲劇の話。
「クソガキ! 待ちやがれ!!」
待つかよバーカバーカ。俺は死にたくないんだ。
その少年は手にした固いパンを、誰にも取られないよう抱き抱えながら全力で走っていた。店主も自分もこの辺りのことは知っているが、少年の方が小柄なのでいささか分がある。例えば――子供しか入らないような隙間に逃げ込む、とか。
「出てこい!! ぶっ殺すぞ!」
「俺に構ってる暇あるなら店に戻りなよ。もう何もないかもしれないけど」
少年にそう言われた店主はしまったという顔をして店の方向を向く。視線の逸れた一瞬を狙い、少年は店主の前から行方をくらませた。
ここは街の端っこにあるスラム街。街の名前なんて知らないし、憎たらしいことに少年にとってはここが世界も同義だった。
あの店主は大して美味くもない食材を高額で売りつける男で、スラム街に片足突っ込んだような場所で商売をしている。それでも多少の金を持っている者は、あそこから買って男の懐を潤わせるのだ。
しかしそれも店主がいればの話であり、店主不在の食材店がスラム街で放置されているとあれば結末は知れるだろう。責任は不用心なあの男にあるのだから、仕方がない。
(さて、こっちは――)
店主を撒いた少年だが、彼は彼でまだ気が抜けない。自分の寝床でさえ緊張の糸を解けないのがこの場所だ。
「おい、食いもん持ってるだろ」
「知らないね」
身寄りのない子供や浮浪者などが、街と言わしめる程にいるのだ。大した統率が取れているわけでもなく、喧嘩なんて日常茶飯事。
だから少年は殺されないように、かつ食材を奪われないように立ち回らないといけない。少年はついと先ほどの店がある方向を指差した。
「店主が店を離れて、たんまり食材を奪っていった奴がいるはずさ。そっちを狙えば良い」
「へぇ。バカなオヤジだな」
鼻で笑った青年はあっさり指差した方へと向かっていった。そのことにホッとしながらも、その姿を見送るまでもなく、少年も再び寝床へと向かう。付き纏われていたら面倒なので迂回に迂回を重ねて、着いた頃にはきゅうぐるるる、と腹の虫が主張していた。
(3日ぶり……だったかな)
固くてゴムを噛むような弾力のそれを、少年は文句一つ漏らさず食べる。
文句なんて吐き出したところでどうにもならないから。嘲笑われるだけだから。国王になんて届きやしない。
今日も死なずに済んだ。……明日は来るだろうか。
そんな風に考えながら生きていた。
しかし、その生活にイレギュラーが紛れ込む。
「どこの貴族だ……?」
「身なりのいいガキなんぞ、すぐ人攫いに売られるさ」
ひそひそと大人が噂する中で、一番に警戒を解いたのはスラムの子供だった。身寄りがなく、優しい言葉や愛に飢えていて、けれど
貴族の彼はライア=ラ=ヘルと名乗った。そんな貴族の家名があるのかなんてスラムの者が知るよしもない。しかし身なりの良さとマメに来る姿から、それなりの地位にある子供で隠れて護衛も付いているのだと疑う余地もなかった。
ライアは顔を出すと、必ず何かを配っていく。そんな彼に皆が媚び諂うようになるのも時間の問題で、少年もまたその1人だった。
――そんな彼が困っているのだと、ぼやいてきた時がある。
『ぼくがここに来ることを迷惑に思う貴族がいるんだ』
ああ、やっぱり貴族だったんだと少年は思った。その傍で大人がぶっ潰すか? 問いかける。殺られる前に殺ってしまうのが一番だと。
しかしスラムの者が貴族に手を出せば問題となるだろう。ライアは首を振って、けれどそのうち助けてもらうかもしれない、と告げた。
「なんでも言ってくれよ。オレたちゃアンタのおかげで随分良い生活になったんだ」
「ここの治安も前よりマシになったんじゃないか?」
そうだそうだ、と騒ぐ周囲。確かに以前より強盗は無くなったように思うし、寒さや暑さで死ぬような者も例年に比べたら少ない方だろう。
そうして感謝の念を捧げていたスラムの者たちに、ライアはやがて一つのお願いをした。
「この服を着て、共に襲撃をしてほしい」
渡されたのは丈夫な布でできた、新品の衣類だった。揃いの紋章は彼の家のものだという。やはりピンと来る者はいなかったが、貴族の家名などは大した問題でもない。大事なのはライアが皆を頼っているということだった。
「それを着ていれば、ぼくの家が君たちの立場を悪いようにはしないよ」
大した武器も扱えないと言えば、臨機応変に戦える感性が大事なのだと言われ。作戦も難しいものではなく、乗り込んで嬲り殺せば良いと聞いてスラムの元たちは湧く。単純明快な作戦だ、数を集めればいくら兵士がいても難しいものではないだろう。
いつしか作戦には多くの者が関わることになった。ライアを知っていた者はもちろんのこと、そこから人伝てに話が広がり、想定よりもずっと多く。
そしてその人数で夜間の貴族邸へ雪崩れ込み、数に任せて兵士もろとも貴族の首を刎ねた――。
「……それだけでよかったハズだろ?」
少年は呆然と呟いて、振り向いた。這いずった血の跡。倒れて動かない兵士やスラムの住人の何人か。その先で、屋敷は豪炎に包まれていた。
貴族の首をとったと、歓声が聞こえた直後のことだった。次々に屋敷の至る所が爆発し、炎が全てを食べてしまったのだ。
「――嗚呼、まだ生きているのかい」
聞き慣れた声にハッと視線を移せば、ライアが佇んでいた。全てが、スラムの者でさえも燃えてしまおうとしているのに、なぜかライアは笑っている。
「あの中に、まだ、スラムの奴らが」
「ああ、まとめて燃えてしまった? もう少し後にすればよかったかなあ。きみしか残ってないようだし」
それもまあ、仕方ないか。
まるで玩具が壊れてしまったことを残念がるかのような口ぶりに、少年の唇が震え開いた瞳に絶望が映る。そんな少年の様子にライアは殊更嬉しそうに笑った。
この日、自分達の境遇に耐えられなくなったスラムの者たちが反乱を起こし、一帯を管理していた貴族の元へ襲撃を行った。
スラムの者たちにより貴族の首は取られたものの、興奮した誰かが燭台を転倒させ、瞬く間に延焼。窓や扉の近くにあったカーテン等が先に燃えたため、脱出することもできず、スラムの者もまた炎に巻き込まれ死亡した――。
「……なんて、お粗末でありきたりな話の方が、信憑性があるんだよ」
火達磨が何か言っているけれど、よくわからないや。
ライアは火を放ったそれを一瞥してからくるりと踵を返し、次は何をしようかと考える。孤児院にでも行ってみようか。それとも子供を授からない夫婦でも探してみる?
何にしても楽しくなるだろう。ライアの足取りは次の絶望への期待からか軽やかだ。
邸が篝火のように燃えている。いずれ誰かがこの非常事態に気づくだろう。けれど、こんなことをしても彼の足取りはおろか、その存在だって捉えられない。
――だって、