SS詳細
ヒルド科マスコット計画
登場人物一覧
●Cotton Table
花蘭商店街のほど近くにある『ひだまり亭』は、その名前の通り温かい雰囲気に包まれた食堂兼下宿だ。
一階の笑い声や振動が微かに伝わるその空間は、人の気配を感じるにも関わらず不思議と居心地のよさをルブラット・メルクラインに与えている。
何種類もの生地がパッチワークのように床を彩り、整然と並べられたボタンのケースは室内の灯りを反射して、まるで宝石のようだ。
この部屋を初めて訪問したとき、主の気質を反映した素晴らしい部屋であるとルブラットは褒め讃えた。それに対して部屋の主である青年は少し頬を染め、こぼれんばかりの笑顔でありがとうと応えた。
近所の商店街の話。紹介されたぬいぐるみの名前。家族の話。
欺瞞も裏も無い会話は途切れることなく夕方まで続けられ、何とも好ましい時間で在ったと、其の日の締めくくりにルブラットは思った。
ルブラットは青年の実年齢を知らないが、恐らく年下の、イーハトーヴ・アーケイディアンの純朴で飾らない気質を気に入っているし、このまま健やかな成長をして欲しいと願っている。
今日は二人にとって特別な日になる予定であった。
手土産代わりにルブラットが買ってきたケーキは未だキッチンに大切に保管されている。その理由は、イーハトーヴの口数が普段よりも少ない事と関係していた。
部屋の主たるイーハトーヴは、窓から射しこむ光のなかで沈黙を守っていた。その手にはほぼ完成形を見せる依頼の品がある。そのぬいぐるみの依頼人こそ、ルブラット本人だった。
椅子に腰をかけたまま正確に一針一針、愛しむように縫い目を刺す姿を、ルブラットは飽きもせず見守っている。
「友人」
その言葉の羅列は、改めて声に出す事でルブラットの胸の奥に真綿のような柔らかな感覚を生み出した。
「どうしたの?」
「いや、声に出してみると何とも甘美な響きだと思ってね。作業の邪魔をして悪かった、アーケイディアン君」
「ふふ、邪魔だなんてそんなことないよ。ルブラットとお話するのは楽しいけれど、こうやって俺の作るものに興味をもってもらえるのも、とっても嬉しいから」
愛らしいもの、ファンシーなもの、可愛いもの。
そういった存在を普段目にすることが少ないルブラットにとって、イーハトーヴの部屋とは不思議な空間であった。
「そうかね。だったら良いのだが」
自分は案外可愛いものが好きなのかもしれない。
イーハトーヴとの出逢いが無ければ開くことの無かった扉を、ルブラットはあっさりと受け入れることにした。
素朴なデスクの上で黙々と縫物を続けるイーハトーヴ。
パーピュア色の髪が、窓から零れる木漏れ日を優しく含んで輝いている。伏せられた眼の下には色を濃くした隈が浮いているが、薄らと綻んだ口元は青年の疲労よりも高揚感を確かに伝えていた。
「傷を縫合する時とは、やはり違うのだね」
「傷を縫う糸は解く前提だけど、ぬいぐるみの糸は解けないようにするのが前提だから。そうだ、ルブラット。お医者さまとしてのお話を、もっと聞かせてくれる? ネネムも興味があるみたいでずっと聞きたそうにしていたんだよ」
「確か、君の兄君だったな。良いとも。医者としての議論が出来ないのは些か残念だが、私の識る知識であれば喜んで披露しよう」
ルブラット自身はイーハトーヴの中に住んでいるという「家族」と直接会ったことはない。けれども霊や魔物といった魑魅魍魎が跋扈反乱する此の世界において、家族が見えないことなど小さな問題のように思えた。ルブラットは自分の隣に座ったうさぎのぬいぐるみを見下した。嘗ての自分ならば如何反応しただろうか。悪魔憑きとでも断じただろうか?
「私も随分と見識が……いや、視野が広くなったものだ」
「何のお話?」
「いや、単なる独り言だよ」
血や死で満足感を覚えるルブラットの精神性も今は鳴りを潜めている。この柔らかな空間を毀すような無粋な真似を良しとしないのも、ルブラットの側面の一つだ。イーハトーヴと共にいるときは、それが顕著に表に出てしまう。そんな自分が少しおかしかった。
「エーグルは元気?」
「ああ、相変わらずのじゃじゃ馬だ」
ルブラットが深緑に連れて来た妖精の木馬は、ひどくご機嫌な様子でこのぬいぐるみ職人にお菓子を強請っていた。
最近徐々に悪戯っ子としての側面が強く出てきているが、妖精とは総じてそのようなものだとルブラットは知っている。彼が知識として知っている妖精とは深緑で出会った優しいモノばかりではなく、人を害するものが多い。
「相変わらず菓子を求めてばかりだが、この部屋を見たら喜ぶだろうな」
ルブラットは改めて部屋の中を見渡した。
「今度、連れて来ても?」
「もちろん!!」
部屋の至る所にイーハトーヴの作った
「よし、あとはこうして」
鋏の刃を当てられた縫合糸がふつりと宙を泳ぐ。
白く染め抜かれた黒死病医師の革仮面に動きは無い。けれども彼を知る者から見れば、珍しくルブラットがソワソワと落ち着かない様子であると気がついただろう。
「で、できた……」
「おぉ」
イーハトーヴは一抱えもある巨大な成果物を掲げ、ルブラット・メルクラインはその傑作に自然と拍手を送っていた。
ぬいぐるみ職人は綿あめのように微笑むと依頼者に作品を差し出した。ルブラットは無言のまま、手渡されたヒルのぬいぐるみを受け取る。
軽く押せば、モッとした力強い弾力が掌に応えた。ポップコットンと呼ばれるその綿花は二人が深緑に依頼で行った際の帰り道で採取したものだ。
天鵞絨によく似た黒や緋色のベッチン生地が丁寧に、しかし無秩序に縫い合わされている。細かい体節を模した皺が幾筋も入り、形を変えるたびに奇妙な光沢を放っている。
それは巨大な環形動物だった。
「
深緑で依頼ルブラットがイーハトーヴに依頼した品である。
ヒルという不気味さの代名詞である生き物に対して、愛らしさという属性は果たして付くのだろうか。
その疑問に真っ向から勝負したイーハトーヴは「ルブラットがヒルを可愛いと思うなら、出来るだけそのままのフォルムを保った方が良いよね」と簡単なデフォルメを施しただけで、見た目や質感は本物に寄せていた。
一番の難関はヒルが持つという無数の歯の存在であった。
ルブラットの注文は「数百本が難しければ、四、五本でも……いや無くても構わない」と言うものだったが、イーハト―ヴはそこに自分への負担を気にするルブラットの配慮を感じた。
こうなってくるとぬいぐるみ職人魂にも火がつく。
数百本の歯をいかに負担なく再現するか。
次兄ペディアによると医療ヒルの歯は患部に噛みつき血液を凝固させない不思議な成分を塗布するための物であるらしい。
ヒルの歯とは、ウサギにとっての長い耳、ハリネズミにとっての針。欠かす事のできない特徴であるとイーハトーヴは理解した。
イーハトーヴは図鑑という図鑑を読み込み、それでも足りないならば現地調達とばかりに水辺へと赴き、ヒルという生物について調べつくした。あまりにも熱心すぎて寝食を再び忘れてしまい、家族の全員から一回ずつ苦言を頂戴している。つまり、少なくとも四夜の徹夜を経て生まれた存在。それがこのヒルのぬいぐるみであった。
その名残は今も書き物机の上に付箋や栞付きで積まれており、当然ルブラットはその存在に気がついている。
「歯の部分はファスナーで表現したのか」
「こうやって三つとも開くと、口が開いて歯がいっぱい並んでいるように見えるでしょ」
前方部分にYの字に縫い付けられたファスナーは、三方へ開くことによってヒルの口腔を見事に表現していた 留め具部分は白で塗られており、遠目から見ると細かな歯がびっしりと並んでいるようにも見える。
「中は空洞になっていて、物を入れられるようにしたんだ」
生物の血を流しこむヒルの巨大な食道は荷物が入れられる空間となり、再現性と実用性を兼ね備えたものとなっている。
ルブラットは感動にも近い念を抱きながらヒルのぬいぐるみと見つめ合った。
「ふむ……ふむ」
「ど、どうかな。ダメなところとか、ある?」
無心でもふもふ、もっもっと手触りを確認しているルブラットに今なら直せるけど、と恐るおそるイーハトーヴは尋ねた。
「ダメなところ?」
ルブラットは、機敏な首の動きでイーハトーヴを見やった。驚きまじりの上ずった声から滲み出るのは隠し切れない嬉しさだ。
赤子を高い高いするのと同じ動きで、ルブラットはヒルのぬいぐるみを天にかざした。
「無い!! まったくといって無いとも!! 素晴らしい、実に素晴らしい出来だよ、アーケイディアン君。これこそ、正に私が望んでいたもの。いや、それを越えた品だ。瀉血を行う際は必ず連れて行こう」
「えへへ。良かったぁ、喜んでもらえて」
ルブラットから真正面からの賛辞を受け、イーハトーヴは満足げに肩から力を抜いた。
嬉しそうなルブラットに、職人として友人として満たされていく。
「ねぇ、ルブラット。緊張が解けたからか、俺、お腹が空いちゃった。今日は何のケーキを買ってきてくれたの?」
「紅山芋のモンブランだ。紫芋とは少し甘味が違うらしくてね。あの店の品揃えは実に飽きない。それに今日ほど蝋燭が相応しい日もないだろう」
「俺、皿出すよ」
「座っていてくれ。今日は私がサーブしたい気分なのだ。ああ、しかしそれではぬいぐるみを手放さないといけないな」
「ふふ。じゃあ背負えるようにしておこうか」
「お願いできるかね」
湯を沸かすルブラットの背中を見ながら、こちらも負けじとるんるん気分でイーハトーヴは針と糸を取り出すのだった。
おまけSS『何故か皆、目を逸らす』
「よう、先生、イーハト―……何だそれ」
イーハトーヴは商店街でも愛される存在だ。顔を見れば誰かが声をかけてくる。
そんなイーハトーヴの隣を歩いている内に、商店街の人間はルブラットにも声をかけてくるようになった。
「こんにちは、おじさん。これ、俺が作ったヒルのぬいぐるみだよ。よくできているでしょ?」
「ごきげんよう。これは私が依頼したヒルのぬいぐるみなのだが、よくできているだろう?」
一人は巨大なヒルを嬉々として抱え、一人は普段通りに姉を抱えているが徹夜続きなのか顔色が悪い。
よくぞ聞いてくれましたとばかりにパッと声を華やがせた二人に、通りすがりの男はああ、ともうんとも言えない返事で応えた。
「ああ、うん。よくできてるな。パッと見て本物かと思うくらいには」
「でしょ!?」
「だろう!?」
「だからね。みんなにも見てもらいたいなって」
「今から自慢しに行くところなのだ」
「そっかー。気をつけてな」
ウキウキという気持ちが伝わってくる二人を、どうして引き留められようか。人の良い男は当たり障りのない言葉を選ぶ。
「しかし不思議なことに、皆一様に驚いた顔をして此方を見るのだ」
「どうしてだろうね」
何故と二人は首を傾げた。
そりゃあそうだよ、とは言わずに男は神妙な顔で告げた。
「ぬいぐるみが、でかいからだろ。ほら、街中ででかいテディベア持ってる子供がいたら二度見するだろ?」
「それは、そうだな」
「それは、見ちゃうね」
「ありがとう。お陰で謎がとけた」
「それじゃあ行ってきます」
「おう。二人とも暗くなる前には帰って来いよ」
礼を言う二人に内心で謝りつつ、男は手を振った。