SS詳細
アヤワスカの書痙
登場人物一覧
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順風の馬商会は幻想の港に船舶を擁する貿易商である。
古くより絵画や稀覯本、彫刻に宝飾品といった
そんな老舗商会で突如として起こった血生臭い事件は当然の如く市民の注目を集めた。
商会の前は、まだ朝も早いと言うのに詰めかけた野次馬でごった返している。
それはまるで餌箱に群がる鶏のような騒ぎであった。静止する警備の手を払い除けて中へ入ろうとする者。己の財産の無事を願う者。泣きながら崩れ落ちる者。
そんな喧騒を冷静に見つめる者。
「よう」
「おはよう」
狂気じみた群衆から少し離れた街路樹の下に、一人の青年が佇んでいる。栗色の瞳は鋭く理知的な光を湛えて群衆を観察していたが、声をかけられると柔らかく微笑みを浮かべた。
「シラスさんも来たんだね」
マルク・シリングはにっこりと、街路樹の幹へと体重を預けるシラスを迎え入れた。
「新聞に商会員皆殺しと書いてあったが、誇張と真実。どっちだと思う?」
シラスは腕を組み、視点的にも体勢的にも斜に構えて世界を見た。
夏にシレンツィオ・リゾートで行われると云う大々的なフェスティバルに合わせて「順風の馬商会」はある種の稀覯本を大量に買い付けていたそうだ。シラス達が「オーゲルミール家」に依頼され運んだ古書も、恐らく其の買い付けられた内の一冊なのだろう。
「半分が本当、半分が背鰭に尾鰭かな。順風の馬商会の会長は、取引の為に商会員の半分を連れてシレンツィオ・リゾートに半月以上滞在している。これは秘密でも何でもなく、事前に誰でも知ることが出来た情報だよ」
「商会長を狙った犯行では無い、と?」
「可能性は低いと思う。そして、商会の中にいた人数は普段よりも少なかった」
「へぇ……」
マルクからの情報を聞きながら、シラスは呆れたように整った片眉を上げた。
「金になるモンをたんまり仕入れて、普段より人数が少ないだなんて、そりゃあ盗んでくれと言ってるようなもんだろ。オーゲルミールからの依頼品だって、俺たちが護衛につく程度には価値があったんだろうし」
「気になるのは、そこなんだ」
指の関節を顎に当て、思案に耽る表情へと切り替わったマルクの邪魔をしないようにとシラスは口を噤んだ。
「商会員の人数は少なかった。けれど警護の人数は普段の三倍以上が配備されていたそうなんだ」
「……なら、中で死んでるのは」
「会長自らが雇い入れた腕利きの護衛たちって事になるね」「それが全員殺された」
爽やかな朝の潮風が不気味な静寂をつれて吹き抜ける。
「腕に自信がある奴がやったのか。それとも薬か引き入れか、何か手を使ったのか」
「ごめん、そこまでは分からなかったんだ」
「いやいや、さっきまでの情報で充分だって。ところでさ」
シラスは白兎のような書架守の姿を探して視線を左右に走らせた。
「最初にシラスさんも、って言ったよな。ドラマも来てるのか?」
「うん。実は彼女が一番早く現場に到着していたんだ。今、商会の中に入れないか、港の警備隊長さんと交渉しているよ」
「港の警備?」
「店の裏手に回ればすぐに海があるんだ。巡回中に助けを求められた警備隊長が、そのまま陣頭指揮をとってるんだって」
目を眇めながら、含むようにシラスは頷いた。
「朝になっても指揮官が挿げ替えられていない。ってことは、その警備隊長サンとやらは貴族関係者だろうな」
大事件の解決は出世に直結する。故に現場にいるのは恐らく貴族、もしくはその関係者だろうとシラスは見当をつけた。
話の分かる貴族であれば良いが、下手にこじれると厄介な相手でもある。
「ドラマさんは大丈夫かな」
「大丈夫だろ。誰と対峙しようと、本の無事を確認するまで梃子でも動かないだろうしな。俺たちは此処でのんびり、良い知らせを待つとしようぜ」
「そうだね。本が絡んだ彼女に勝てる人なんて、そうそういないだろうから」
シラスは表情を柔らかくして、ふと傍らに立つ青年を見つめた。
「それでマルク、それらしいのは居たか?」
主語をわざと省いたシラスの質問に、マルクは少しだけ驚いたように目を開いた。整った眉を少しばかり下げ、ゆっくりと首を振って否定の意を伝える。
「そうか。なら、あとはドラマ次第だな……」
木の幹を擦りながらシラスは街路樹を見上げた。よく見知った葉の影には、まだ青い団栗の実がちらほらと成っている。クリーム色を晒す木の幹は、手触りの良さと同時にほんの少しの違和感をシラスに与えた。
「この街路樹の幹ってさ、こんなに滑々していたか?」
「僕もそこが気になったんだよね。一見、普通のナラの木だから普通は樹皮があるはずなんだけど……。誰かの悪戯で剥がされたのか。それとも虫がついたから剥がされたのかもしれない」
二人揃って、すべすべとした象牙色の幹を見上げていた時だった。見覚えのある白が、視界の端に映る。
「話し合いが終わったみたいだね」
「あの様子だと、良い結果が期待できそうだな」
思いっきり背を伸ばして両手を振るドラマ・ゲツクの姿を認めたマルクは、小さく手を振り返した。
「シラスさんもいらっしゃったのですね。おはようございます」
「おはよ」
興奮のせいか。それとも人混みを通り抜けるために気力を消耗した結果か。白い頬に薄紅色を宿したドラマがぺこりと小さく頭を下げた。背中に流れる白い三つ編みが、その拍子に夏の綿雲のように揺れる。
大きな緋色の瞳を持つドラマはお伽噺に出てくる妖精か人形のように愛らしい。
おっとりとした柔和な喋り方や纏う緋色のローブは、彼女を神秘的な魔術師のように見せているが、彼女の巧妙にして卓越した剣技はシラスでも舌を巻く程の腕前だ。
ドラマの隣には白銀の鎧を着た金髪の女性が兜を抱えて立っている。周囲の反応からコイツが責任者か、とシラスは当たりをつけた。
「商会の中へ入る許可を隊長さんから頂きました。ただ……」
「ただ?」
僅かに俯いたドラマの表情に、その後に続く言葉があまり良いものではないのだろうと二人は察した。
「ここから先は私が引き継ぎましょう」
鎧姿の女性が一歩進み出た。いかにも警備兵といった鉄面皮がマルクとシラスに軽く頭を下げる。
「港の警備隊長を任されているヘイティ・リクスモールと申します。ドラマ様の御慧眼、知識量に感激いたしまして、当局としましてはローレットに所属する御三方へ捜査協力を要請したいと考えております。勿論、皆様がご納得いただけたら、と注釈はつきますが。確かに我が家名はバルツァーレク派に連なる者、さぞかし不審にお思いでしょう。ですが特異運命座標、しかも幻想の勇者様たちのご活躍を間近で拝見する機会を無視できる者などおりましょうか? 例え後から始末書三昧であったとしても本望也。例え御三方がフィッツバルディ派で、この事件に何かしらの形で幻想貴族が関わっていたとしても、それはそれ、これはこれ」
「待て待て、話が長い」
このまま放っておくと永遠に喋り続けそうな勢いのヘイティをシラスが遮った。マルクは労わるような視線をドラマに投げかけている。
「それで? 結局俺たちは中に入れるのか」
「はい。しかし中は酷い状況です。覚悟はしておいてください」
ヘイティの言葉にドラマは少しだけ俯き、マルクは痛ましげに表情を歪めた。
「酷いもんは見慣れてる。さっさと調べちまおうぜ」
シラスは表情を変えず、大股で歩き始めるとためらいなく商会の扉をくぐった。
中に入る際に放たれた言葉に特別な意味はないのだろう。
あまりにも当然のように言うのだ。見慣れている、と。まるで瘡蓋のような言葉だった。
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窓もカーテンも閉ざされた店の中には朝の光も届かず、まだ夜の名残がくすぶっている。海辺特有の湿度と古物の黴臭さに生々しい鉄錆の匂いが加わり、つい昨日迄は華々しい輝きを放っていたエントランス・スペースには今や汚泥のような陰鬱さと死臭が満ちていた。
「これは……」
「随分と散らかしたな。まるでおもちゃ箱だ」
ドラマの言葉を引き継ぐようにシラスが続ける。
店の床には遺体の物であろう装備品や服が乱雑に散らばっていた。その近くには背中や臀部にかけて皮膚を剥がされた遺体がマネキンのように転がっている。
「奥にあるご遺体も?」
「はい。全て同じ状態です」
ヘイティの言葉を聞きながら、ドラマは遺体の傍に屈みこんだ。
「刀でつけられた傷ではありませんね。かと言って魔術でも無い。強いて言えば、死後、小さな虫に齧り取られたような……」
切り取られた皮膚の範囲を目測で測っている途中、ドラマは不思議そうな顔で動きを止めた。
「どうした」
「いえ。今、何か既視感を感じたのですが……遺体をもう少し調べてみても良いですか?」
ドラマはヘイティを見上げた。彼女はドラマと目が合うと、まるでその尊い瞬間を噛みしめんばかりの表情で首肯する。
「ありがとう」
ドラマの微笑みはこの陰惨たる空間にあってもふわりと花が香るようであった。まるで淡い水彩画のようなその表情を、もっと別の場所で――例えば自然や本で溢れた平和な場所で見たかったとヘイティは項垂れる。
「僕は商会の被害状況や盗まれたものが無いか聞いてくるよ。ヘイティさん、他の人の所へ案内してもらって良いかな」
「分かりました。マルク様、もし血迷った私が抱きつこうとしたら殴って止めてください」
「あはは。流石に手はあげられないから、自力で止まってくれると嬉しいかな?」
マルクの瞳が語りかけてくるのに合わせてドラマとシラスは微かに頷いた。何が盗まれているか。犯人の目的は何か。
そういった情報を得たい気持ちは勿論のこと、衛兵に紛れて不審者が存在している可能性もある。
そういった懸念を排除しつつ話を聞き、リアルタイムで得た情報を総括していく。物腰が柔らかく人当たりも良いマルクは情報収集にうってつけの人材だ。
「俺はどうするかな」
マルクが部屋の奥へ消えていくと、シラスはドラマと同じように遺体の側へと屈みこんだ。しかし彼が見分するのは周辺に散らばったアイテムの類だ。
年季が入った鞣し革の鎧、靴底を張り替えたばかりのブーツ。手入れ具合と消耗具合、傷の付き方から察するに、この持ち主は手堅く生真面目な性格であったらしい。
人を観察することに長けたシラスの眼や経験は、被害者の持っている品からその人となりをある程度推測できた。
「最期に何を見たんだか」
それでも、遺体が恐怖の表情で固まっている理由までは拾えない。死の間際によほど恐ろしいものを見たか。それともただの筋肉の反射か。
「先ほどヘイティさんが仰っていたのですが」
そんなシラスの気持ちを察したのか、ドラマが形の良い唇を開いた。
「順風の馬商会が重点的に仕入れていた稀覯本というのは『曰く付きの本』であったそうです」
「いわくつき?」
雨粒のように落とされたドラマの言葉にシラスは思わずといった様子で顔をあげた。
「いわくつきって言うと、呪いとか、そっち系統の?」
「はい。所有者が謎の死を遂げる、読んだだけで呪われる、本当にあった怖い話、人皮で出来た本。そのようなオカルトめいた本のことです」
淡々とドラマが語るのに対して、シラスは微笑んでいるような苦しんでいるような、何かを耐えるような顔つきで応えた。
「何だってそんなの集めるんだか」
「怖い話でヒンヤリしたかったのでは? 夏ですし」
「金持ちの道楽は心底意味が分からねえ」
待てよ、とシラスは記憶を手繰る。
「もしかして、俺たちが運んだ本もそうだったりするのか」
「……シラス君」
「どうした。何を見つけた?」
自分の名を呼ぶドラマの声が真剣だったので、シラスは仕事の顔つきへ戻った。
「これを見て下さい」
ドラマが差し出したのは一枚のメモ用紙だった。ややクリームがかった上品な色合いはドラマが好みそうであるが、今はそこにレースのような赤い縁取りが幾筋も並んでいる。
「これは被害者の傷口、皮膚が切り取られていた部分です」
「ああ、あのギザギザしているように見えていた箇所だな」
「はい。この部分の下にこう付け足していくと」
ドラマは難しい顔でペンを持つと、シラスの言う「レースのような赤い縁取り」の下に線を足していく。
――レガド・イルシオンにおける大貴族連合の力は日に日に強まっている。今日このめでたき日に金竜の旗が掲げられたことは栄光なる幻想元老院に祝福の兆しとして……。
「これは」
「文字です。四辺から文字が食い込んで、皮膚を切り取っているんです」
痛ましげに肩を落としたドラマの姿を見ると、シラスはそれ以上言葉を続けることができなかった。『そんなこと、あるわけない』。そう思っていたとしても、現実に起り得てしまう。変わる事のない常識が日々更新されていく。それがこの無垢なる混沌という大地だ。
慰める代わりにシラスはドラマの肩を優しく叩いた。
「いわくつきの本を集めているんだったな」
「はい」
「なら、人を殺す本や凶器に成り得る本があったとしてもおかしく無い。人間の仕業ではなくて魔物、もしくは呪物が犯人なら機械的な作業として護衛達を殺していったはずだ。現場に犯人の色も感情も残っていなかった理由がようやく分かった」
「故意なのか、事故なのかは分かりません。けれど、危険な本がこのような事件を起こしたと言うのなら放ってはおけませんね」
「同感だ。早速マルクにも知らせて……」
「ああ、良かった。此処にいたんだね。実は二人に伝えたいことがあるんだ」
ドラマとシラスが立ち上がり、硬い表情のマルクが見覚えのある空の鞄を抱えて飛び込むように戻ってきたのはほぼ同じタイミングであった。
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「御三方お揃いで。当家にどういったご用件でしょうか。依頼の報酬は既にお支払いした筈ですが」
オーゲルミールの屋敷を再訪したシラス達を出迎えたのは、依頼の対応に応じた例のメイドだった。のっぺりとした能面のような白い顔と、一つの乱れもなく纏められた黒髪が中央階段からゆっくりと降りてくる。
「別に追加報酬をせびりに来た訳じゃない。アンタに聞きたいことがあって来ただけだ」
「順風の馬商会に運んだ品のことです」
ぴくり、と。相手の眉が微かに反応を示す。
「申し訳ございません。鞄の中身については、くれぐれも口外せぬよう主人から申しつかっておりますので……」
慇懃無礼にも感じる口調で腰を折ったメイドは、探るような視線でドラマを盗み見ていた。不気味な微笑みをはらんだ眼差しを白髪の書架守は真正面から受け止める。
「僕たちの運んだレザートランクの中は空っぽだった。最初は盗まれたのかとも思ったけれど、そうだとしても不自然な点が多すぎる。取引きに際して発行されるはずの鑑定書に買取依頼書、査定書、取引台帳。そういった書類も含めて、オーゲルミール家との取引に関するものは一切見つからなかった」
バイオリンの調律を始めるように、静かにマルクが告げた。
「順風の馬商会はオーゲルミール家と取引をしていなかったというのが僕たちの出した結論だ」
「本と一緒に書類一式が盗まれてしまったのではありませんか?」
「そうかもしれませんね。だから見せて下さい。オーゲルミール家が持っているはずの、取引書類の控えを」
ドラマからの問いかけに、会話の間としては長すぎるくらいの沈黙が落ちた。
「証明する書類はありませんよ。なにせ極秘の取り引きでしたから、商会長自ら、主と取引きを進めていたのです」
「商会長はそんな事、ひとことも言ってなかったぜ」
「……何ですって?」
シラスが断ずれば、上っ面なメイドの微笑みに僅かに苛立ちの罅が入った。
「彼はまだ海洋にいるはずですよ、そのような嘘を吐くのはおやめなさい」
「アンタがどれだけ知っているかは知らないが、俺たちはイレギュラーズだぜ。一般人と違って俺たちに距離は関係ないんだよ。リアルタイムで情報が入るって、便利だよなぁ」
丁寧に前置きをしてからシラスは告げた。
「商会長が海洋に居るなら、俺たちが海洋まで足を伸ばして話を聞けば良いだけのことさ」
「商会長さんは全ての取引を記録されていました。そしてオーゲルミール家との取引などしていないと断言した。ならば僕たちが運んだレザートランクの中身は何だったのか」
「『諷忌写本』という本を、ご存じですね」
ドラマからその単語が出た瞬間、冷静なメイドの仮面に完全に亀裂が入った。忌々し気に三人を見下ろす視線には、今や鍋底で煮詰められた殺意が見え隠れしている。
「その本が、何か?」
「風の噂に聞いたことがあったんです。人を材料に頁を増やしていく魔本の話を」
「それと当家と、どう関係があるのですか」
「遺体の傷口に見覚えのある一節が刻まれていました。『 ――嗚呼、偉大なるレガド・イルシオンに黄金竜の旗がはためく。元老院の王冠たる』、と。それで思い出したんです。フィッツバルディ派であるならば当然だと気にとめていなかったタペストリーの枠に、此の一節があったと」
ドラマが指さしたのはエントランスホールに高々と掲げられた巨大な樹形図のタペストリー。
「確かに、フィッツバルディ派の一つにオーゲルミール家という名前は存在した。税金の納付記録も、人民台帳も、生活でかかる物資の納品や振り込み記録も残っている。けれど、それは書類上だけのこと。十年前から屋敷の人を見た方はいないんだ……貴女を除いて」
相手の反応を探るようにマルクは言葉を紡いだ。場の空気が徐々に変わりつつあることを悟っているからだ。
「本の他にも商会から盗まれていたものがあります。蝋と人間の皮膚と血液、それから樹皮。すべて、本の材料として使えるものばかりです。そして、切り取られた皮膚はちょうどコデックスの頁と同じ大きさでした」
「人の皮と魂で修繕する魔本……俺たちが丁寧にレザートランクで運んだ品と、アンタが主人と仕えているモンは同じだな?」
シラスが言えば、遂にメイドが笑い出した。
風船を割ったようにゲラゲラと腹を抱える姿に正気の色はどこにも無い。
「ええ、ええ、そうです。世間は諷忌写本などと呼んでいるようですが、あの
目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら、堰を切ったようにメイドは語った。その話を聞きながら、三人とも薄々気がついていた。諷忌写本と呼ばれたそれが、長い年月をかけて、ある貴族の血筋を喰らい続けている物だということに。
「ちょうど本の修繕を始めようかという時期に、順風の馬商会が曰く付きの本を集めているというお話を耳にしましてね。ならば利用させて頂こうと思ったのです。毎度毎度、この屋敷の近くで人が消えると流石に怪しまれてしまいますからね。顔の広いイレギュラーズが持ってきた品ならば、受領リストに無くても受け取ってもらえると信じておりました。それに」
皺が寄り、薄汚れた本がメイドの手に現れた。禍々しいというよりも、くたびれた老人のような雰囲気を纏う本。
「あれが、諷忌写本」
「今だけは、その呼び名を許しましょう。ふふふ、今日は名高きフィッツバルディ派の頁が三枚も増えるのですね」
「会話が成立しているようでしてないと思ったら、コレだ。嫌になるね、まったく」
シラスは笑ったが黒曜の双眸は冷えきっている。どこまでも凪いだ殺意を抱いて、メイドを見上げた。
「俺は、自分の名を高める以外に体よく利用されるのが嫌いだ。だが、べらべらと喋ってくれたことは感謝する。報告書が楽に書けそうだ」
「推理小説の中で追い詰められた犯人がお喋りなのって、本当のことだったんですねぇ」
「どうやら、そうらしいね」
溜息交じりにしみじみとドラマが呟き、苦笑気味にマルクが同意する。その時になって初めて、メイドの顔に焦りに似た感情が浮かぶ。
「……なぜっ」
「やはり本の効果は精神への干渉だったね。僕たちには、あまり効果がないようだけれど」
諭すようにマルクが言えば、血走った瞳のメイドが本を開く。
「我が祖先よッ、血脈よ、あの者どもを喰らえ!!」
赤黒い文字列が茶色の紙面から幾筋も這い出ると、蛇のように三人へと襲い掛かった。
始めに、緋が駆けた。
まるで踊っているような、繊細な蒼剣の斬撃が、文字だったものを斬り捨てていく。相手の攻撃を先回りするかのようなドラマの連撃は、不規則な相手の攻撃を完全に封じ込めていた。
次に、大地の色がページをめくった。
メイドの持つ本が禍々しさの結晶であるならば、マルクの取り出した本は純粋な知的好奇心の結晶。指輪を媒介に輝く神光に触れた文字列はみるみる大人しくなっていく。
「ふぅ」
シラスの手に武器は無い。まるで準備運動をするようにトントンと軽く靴先で床を打ち鳴らした瞬間――黒が消えた。
「イレギュラーズを侮り過ぎだ」
「……え?」
メイドの手には何も無く、代わりにシラスの手に古書が収まっている。間近で見ると金や紅玉紺玉のインクで悪趣味に飾り付けられているが、あちこちについた茶色の皮の劣化と血の滲みが目立つせいで、まるでぼろ布だ。
閉じられた頁の隙間から零れた文字がミミズのようにのたうち始めるが、強まったシラスの握力に抗うことが出来ず、ブチリブチリと音を立てて千切れた。
メイドは未だにシラスが傍にいることが信じられない様子であった。あまりにも無防備なので、おそらく自分に何が起こったのかすら理解できなかったであろう。
「……ッ」
黒いドレスの奥にシラスの手刀が叩きこまれる。腹をくの字に折り曲げて、メイドは意識を手放した。
本へと戻れなかった文字列たちは、ズルズルと這いずりながら断末魔の悲鳴をあげてインク染みへと戻っていく。
「彼女は死んでしまったのですか?」
流れるように納剣をしながらドラマがちょこんとシラスの横から覗き込んだ。
「いや。一応こいつも幻想の貴族みたいな口ぶりだったからな。ヘイティの所に持って行って、後処理を任せようと思う」
「それが良いだろうね。前に来た時は僕たちを中に入れようとしなかったから、屋敷の中を探せば悪行の証拠が出てくると思うよ」
マルクが探るように周囲を見渡した。
「この本は、私が封じます。彼女と一緒に持って行きましょう」
「頼む」
手渡された呪われた本をドラマはそっと受け取った。
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「この度は大変お世話になりました。皆様のお陰で事件は無事解決です」
ヘイティはそう言って頭を下げたが、自分たちの持ち込んだ本で人が死んだ事実は消えない。
「本は封じておきました。これで人を襲う事はないはずです」
ドラマによってレザートランクに再び仕舞いこまれた諷忌写本は静かに眠っている。できればこのまま永遠に、と鞄を手渡しながらドラマは願った。
「例の彼女はこれからどうなるのかな」
マルクからの質問にヘイティは悩むような仕草を見せる。
「ケニグウェン・オーゲルミールには殺人の容疑がかかっています。取り調べには応じているのですが、いささか彼女の精神が錯乱しているようでして……」
言葉を濁しながらヘイティは言った。
「錯乱?」
「私も頁になる、と。繰り返し牢の中で言うのです。犯罪者とは言えオーゲルミール家の血を継いだ最後の一人ですからね。迂闊に処分すれば、また厄介なことになるので生かしていますが……」
「悪いな」
「いえ、シラス様のお気になさることではございません。そのお言葉を頂けただけで、私、胸がいっぱいでございます。どうぞ、これからも存分にお使い潰しください」
「そういう事言うと本当にこき使っちまうから気をつけろよ」
「もっと自分を大事にね」
「あまり無理はしないでください」
一層引き締まった表情を向けるヘイティに、三人は半笑いで手を振った。
「長い一日だったなぁ」
夕暮れの赤い光が幻想の海を染めていく。
「今日は、どこかで食べて帰るか?」
シラスは振り返る。
「それは良いですね」
「僕も賛成」
夕陽を背に微笑む二人を見て、シラスは少年のように破顔した。
おまけSS『Codex of visius』
・諷忌写本
諷忌謄本を模して創られた魔本のこと。
いろいろ種類があるが、たいてい呪われている。
『オーゲルミール家の歴史書』
何代にも渡ってオーゲルミール家の人間を材料にして創った本。
自分から望んで加工される人ばかりなので、本の禍々しさもそれなり。
人間の皮と樹皮と蝋を使って頁を、生命と血を使ってインクの修繕を行う。
書かれている内容はオーゲルミール家の歴史と、歴史書の作り方。
もしかして:放し飼いにすると勝手に本がふえていく
・テーマ
本、学者、貴族というイメージ単語から連想ゲームを行いジャンル:推理/ミステリーで帰結しました。
夏と言えば怖い話、怖い話と言えばいわくつきの本。
・イメージワード
写本と殺人事件
貴族と不気味な因習
賢智、探偵、勇者
・イメージコデックス
ナグ・ハマディ写本、エルズミア写本
・イメージ素材
蝋、ナナカマドや楢の木、羊皮紙
金箔、ルビー、ドラゴン的な要素