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回遊魚
登場人物一覧
再現性アーカム:アドヴァタイザー紙
――にて異常なまでの不漁が続く。
出稼ぎの少年、あの村はもう終わりだと呟く。
暴力装置の妄執に一滴の毒素を与える、マドラーの回転を支配してしまえば世の中の数多が理解出来た、そんな気がして仕方がない。たまらない、蜂蜜酒を想起させる、夏の暑さに中てられて夢遊病者めいた血肉を揺らしてみる。ふら、と、下方に目をやればコンクリート・ジャングルからの燥う患いだろうか。如何しても、嗤いたくなった、途轍もない笑いの衝動に脳漿が蒼褪めて往く。此処は何処なのだろうかとようやく、おもたく茹だった頭を上げたならば彼方には茫々な青。海だ、海ですって? そんな滅裂な事が在っても好いのだろうか、先程までのオマエは職場へ向かう途中だった筈なのに。これは、もしや胡蝶の夢と謂う代物なのか。ふわふわと浮かんでいる雲に手を伸ばしたならば思考を切り替える。そうよ。私は観光に来ていたのよ。如何してそんな愉しい気分を忘れていたのかしら。傍らで黙していたビニールシート、パラソルの下に駆け寄る。ちょっとだけクラクラしたけれど何もかもはカラッカラだ。これは精神に良い、美しきシレンツィオ・リゾートの景観……。
ザァザァと波の音が耳の中を穿っている、心地の良い揺れに晒されていたのは持ち込んだワインの所為に違いない。それにしても、私は『こんなに青い』お酒を買ったのかしら。曖昧な記憶が更なる霞へと沈み、潜り込んでいく。ふるえていた肝臓がそろそろ飲み直しを所望しているのだ。じゃあしょうがないわよねぇ。ブルー・ワインを基本に名も知らぬ液体を注ぐ、カラフル・レインボーに染まったのはグラスではなくオマエの髪の毛か。長い長い、何者かの贈り物がしっかりと染み渡っている。永い永い、素敵な手招きが、鰓からの呼気が頬を舐っている。ヤケに湿っぽい予感ではないか。いいえ、これは私が酔っ払っちゃてるからよぉ――用心深ければアーリア・スピリッツ、アブサンに囚われる事などなかったのに。ぶくぶくと泡が増えていく、消えるのではなく倍々謳っている。ぐるぐるしている世界を懐かしみ、ただ、深淵へ深淵へ……メイルシュトロームだなんて生易しい。
其方側に魅入られるなんて、随分と、冒涜的なお姉さんだこと。彼方側に身を、心を赦すだなんて、ひどく病的なお姉さんだこと。来てくれたと思ったのに。歓迎のお酒を用意していたのに。星辰、アルデバランの嘆きは悉く、コラジンに呑まれて往った。
意識を失っていたのだろうか。おもたい瞼を開けたならば、嗚呼、緑に映り込んだのは地獄で在った。くされた魚、くされた蛸、くされた脳漿の、見渡す限りの大地。ぼつぼつと宙から降って来たくされ貝が、こつん、オマエの脳天に打ち当たる。不意に襲い掛かってきた理解不能な現実にびちゃびちゃと、中身を撒き散らす事にはなったが。酔い覚ましには効果的な行為だろう。ええっと、とりあえず、移動した方が好いわよね。未だ揺れている世界を如何にか抑え込み一歩一歩踏みしめて往く。見上げた刹那にぽちゃん、目の玉に汁気が這入った――痛い、とても痛い、シみる……腫れてしまいそうで恐ろしい。
何分、何時間、いや、何日放浪したのかも記憶していない。シャボン玉の有難みを感じながらガクガクとする掌で腐敗をすくう。最初は受け付けなかった『これ』も今となっては大切な食糧、水分だろうか。口に運べばつるんと、ゼラチン質な味わいが腔へと広がる。この目玉はごちそうなんだと自分に言い聞かせてぶちんと咀嚼する。それにしても、不思議と骨が咽喉に刺さった事はない。ぼろぼろ、すかすかな、スポンジの影響なのだ……。
見えてきた。葡萄酒めいた汁気を飲み下して、折られた看板を指でなぞった。おそらくは何処かの街か村に『道』が続いているのだ。抜けている文字の事を考えている気力などない。まるで跳ねている鰯のように、びちびちと身体を動かした。蠢いている、蠕動している、まさかねぇ、そんなオチはお姉さんダメだと思うわ――暗黒めいた潮気の底でひとり、乾杯を行う。楽しい、愉しい、もう疲れて一歩も動けない……。
二日酔いの仕業ではないとオマエは直感で理解していた、浮上する意識の中で薄らぼんやりと此処が保健室だと認識していた。きっと生徒か他の先生が『見つけてくれた』に違いない。からっぽの肚をさすりつつ、横目にブレ込んだ新聞紙を引っ掴む。
東京湾にて魚が大量発生。
平成※※年08月※※日、東京湾を埋め尽くすほどの魚が発生した。
専門家によると天敵から逃れるようにしてやってきたとのこと。
これにより魚が安値で買えると市民から――。
ひくひくと臓腑が攣った所以は最早、わからない、わかりたくない、思い出したくもない。オマエは新聞を跡形も無く破り棄てるとベッドの下へ頭を垂れた……。
――とれたてピチピチ海の幸、ごぼり、ごぼり。