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春告げぬ鳥の閑話
登場人物一覧
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嘗て、一人の子供が貧民街で暮らしていた。
その背から郭公の翼を生やした『彼』は、時に他の住民から食料をかすめ取り、時に他の住民に媚び諂って、その日その日を必死に生き延びていた。
一日を生き延びたとて、次の日にはまた懸命に貧民街を駆け巡るだけのこと。終わりの見えない労苦の最中に在りて、しかし何故生きる努力を弛ませなかったのかは、『彼』自身分かっていなかった。
或いは、己が何れ報われることを夢見ていたのかもしれない。
或いは、この街で自身を苦しめている他の住民たちが、その非道に報いた裁きを受けることを望んでいたのかもしれない。
けれど、その答えが見つかるよりも先に――貧民街で生きる孤児としての日々は、唐突に終わりを告げてしまった。
『景観保護』。
そんな簡単な単語一つの為に、某国の兵たちによって貧民街はあっさりと滅ぼされたのだ。
自身と食糧を奪い合った老婆も。
自身から金品を巻き上げたゴロツキも。
剣の一振り、槍の一突きで血泡を吹き出しながら絶命する様を、破壊されたあばら家の瓦礫の隙間から『彼』は目に焼き付けていた。
己が過ごしてきた環境が、道端の小石のように容易く吹き飛ばされていく様を前に、ただ縮こまっていた少年は――兵たちが去り、日が暮れ、夜半の風に身を震わせた辺りで、漸く瓦礫から這い上がった。
何もかもが滅ぼされた、廃墟と死人の寄せ集めの中、唯一人、呆然と立ち尽くす少年。
「……坊や。一人でどうしたんだい。お父さんやお母さんは?」
そこで、『彼』へと一人の男性が声をかける。
それは幸運だったのだろうか。或いは不運だったのだろうか。
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少年の拙い言葉から事情を察した男性は、その経緯に痛ましげな表情を浮かべつつ、彼を自身の家へと引き連れていった。
男性が連れて行った先には、村、というよりは――移動可能な住居で構成された集落、或いは里と呼ぶべき場所が有り、その中でも案内してくれた住居の一つには、男性の家族と思しき者たちが驚いた表情で此方をうかがっている。
「父さん、その子、どうしたんだ?」
恐らくは長兄であろう、最も年嵩の少年が『彼』を連れてきた男性に問いかける。
事情を説明している男性と、それを取り囲む家族と思しき人々を、男性の傍に居る『彼』は何処か他人事のような視線で見つめていた。
帰ってきた父親に愛情を求めて抱き着く末妹。手慣れた様子で男性の上着を預かる夫人。
触れること、近づくことは即ち、奪うか奪われることと同義。自己の短い来歴からそのように認識していた『彼』にとって、眼前の無防備に過ぎる光景は正しく異世界のそれと変わらないようにも思えた。
「坊や、君には名前が有るのかい?」
呆然と眼前の家族を見つめていた『彼』へと、男性が改めて声をかける
「……ない」
「なら、君には素敵な名前を贈らないといけないな」
「……? どうして」
心底からの疑問を口にすれば、そんな『彼』に対して男性は困ったような表情で、しかしはっきりと言葉を返した。
「君は、これから私たちの家族になるからだよ」
――男性の言葉の正気を、『彼』は疑った。
これほどまでに、他者を警戒せず、見知ったばかりの相手に気を許す、安穏とした牧畜のような群れへと、自身が仲間にされるなどと。
獣に喰われる末路しか想像できぬような男性たち家族は、今や柔和な笑みを浮かべて「此方へおいで」と言っている。
「……あは」
それを、漸く受け止めて、『彼』は小さく笑顔を浮かべた。
「はい、よろしくお願いします、『お父さん』」
――この吐き気じみた感情を堪えること。それこそが、あの貧民街とは違った意味で、これから自分が生きるための戦いなのだと、自らに刻み付けながら。
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冷たさは友人であった。
夜の空気。握る刃物や鈍器。それらは常に自身の傍に付き纏ってきた。例え自身がそれを疎んでも。
対し、熱は敵であった。
孤児であった頃の自らが感じるそれは、他者との触れ合いを知らない以上、己が流す血液からしか感じられない――即ち痛みを齎す傷と同じく出でる――ものであったから。
「××、今日も魔法の練習してるの?」
『だから』、『彼』は――××と呼ばれた少年は、自らに気安く触れ、温もりを与えてくる他者を嫌う。
あの日、名も無い孤児であった『彼』が今は父と呼ぶ男性に拾われてから、数年の時が経った。
「はい。血は繋がらなくても、僕も『渡り鳥』の一員となった以上、誇れる術式を得なければなりません」
「そうは言っても、毎日毎日一人で魔法の訓練だなんて、飽きちゃったりしない?」
現在に至るまで、『彼』は多くのことを学んできた。
この無辜なる混沌のこと、彼を拾った男性が住まう里の住人が、一所に定住せぬ魔術師の一族――『渡り鳥』と呼ばれる者たちであること、そのほかにも様々なことを。
また、『渡り鳥』の人間は、自らに与えられた宝飾を魔導具として生きていく。それを知った『彼』は、自らがそれを授けられるに値する人間であることを示すために、日々魔術の研鑽に勤しんでいたのだった。
「微々たるものでも、自身の成長が観測されれば楽しいものですよ」
「……もう、敬語、何時まで経っても止めないんだね」
自身の『妹』である少女に対して、『彼』は苦笑だけを返す。
家令か、そうでなければ下男みたい。そう頬を膨らませる少女の内実は、敬語そのものというよりは、『彼』との距離をもっと縮めたいのだと言う思いが根底に存在するのだろう。
その感情が何を指すのかは――『彼』にとっても理解出来ていたけれど。
「……僕が、ちゃんとこの一族の一員となったら。この言葉遣いも変えてみましょうか」
「本当? それじゃあ、約束」
少しだけ表情を明るくした少女が近づき、己の小指を差し出す様に、『彼』もまた、笑顔で自身の小指を絡ませる。
……少女は知る由もないが、既にこの時、『彼』は自身の『父親』である男性から、一族の長による魔導具の授与が近日行われることを教えられていた。
『彼』は近く、本当の意味でこの一族に迎えられる。それを裡に秘めていたからこそ、『彼』は少女へとそのような約束をしたのだ。
――――――即ち、
「はい、約束です」
「そのように貴方を呼ぶ日は、絶対に来ないのだ」と。
貼り付けた笑みを浮かべ、触れた小指から感じる熱に、せり上がる吐き気を堪えながら。
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数年の時を経て尚、彼の中で義理の家族が自信に向ける「優しさ」、「親しさ」に対する違和感は拭われることは無かった。
寧ろ、それは日々を重ねる度に膨れ上がっていったのだ。違和感を忌避感へ、忌避感を嫌悪感へと変化させながら。
それ故、『彼』は他者との接触を拒み、一人で学問に勤しんで、実力の研鑽に向き合い続けた。
『彼』にとっては幸運なことに、周囲はそれを「真に一族の仲間ではないと言う負い目から自身らを避けている」と捉えられたことであったが、それすらも此度の魔導具の授与によって難しくなるであろうことが予想された。
『彼』は懊悩した。これから一人でいるだけの理由がなくなると言うだけではない。
自分はもう「違うモノ」では居られない。あの狩られることを待っているかのような長閑な羊の群れと同じモノとなる。そのことを想像するたびに溜飲を堪える『彼』は、其処で遂に(或いは漸く)「その考え」に至る。
――嗚呼、ならば他の理由を作ればいいのだ、と。
「……あれ、まだ生きていたんですか?」
全ては、『彼』自身にとっても驚くほど簡単に終わってしまった。
一族の長による魔導具の授与式を終えた夜。『彼』の義理の家族が作ってくれた祝いの食事の中へと、自身で研究した毒を混入させて全員に食べさせる。
自らだけは事前に拮抗剤を投与しておくことでその症状から逃れ得た『彼』は、毒で悶え苦しみながら死んでいった両親を満足げに見届けた後、未だに呼吸している兄弟たちへと視線を向けた。
「一応分量は計算したんですが……初老の人間と成人前の人間じゃあやっぱり必要な量が違うんですかね。
それとも、だれかが毒に干渉する魔術を習得していたんですか? まあ、結果は変わりませんし、構いませんけど」
「な、ん……っ、どうし……」
声ならぬ声を、それでも必死で紡ごうとする義理の兄。
それに対して、『彼』は淡々と語る。「気持ち悪かったから」「貴方達と同じ存在になりたくなかったから」だと。
「最初はね、それでも考えたんですよ。
僕個人がそう認められたくないだけなら、そのようにする人たち……つまりはあなた達から逃げて、また一人で生きていけばいいんじゃないかとも」
「なら……!」
「けれど、思ってしまったんです」
――――――「父さんたちを壊したら、みんなはどうなるんだろう」と。
「家族の絆。一族の絆。若しくは、それに因らぬ絆。
人を信じることだけを知っている人たちが、大切な人を奪われて、誰かを疑わなければ、憎まなければならなくなった時、その人たちはどんな表情を浮かべ、何を思うのだろう、って」
表情は、何処までも穏やかな、静謐とした微笑。
『彼』が心の底から漸く浮かべられた、本心からの笑みであった。
「だから、ごめんなさい。心の中では全くそう思わないけど、せめてコトバだけはそう言わせてもらいます。
何年間も僕なんかを育ててくれてありがとう。お陰で僕は、僕のやりたいことをようやく見つけることが出来たみたいです」
言葉を向けていた義理の兄は、既にこと切れていた。
残るは、自らの義理の妹だけ。涙を零し、血を口の端から滲ませる彼女へと、『彼』は近づき、言う。
「約束を果たすよ。有難う、×××。
こんな僕に好意を向けてくれた貴方は、本当に僕にとっては暖かな存在で」
啄むような口づけ。それを経た後に、
「……だから僕は、貴方のことが最も嫌いだった」
それだけを残し、『彼』は自身の家を出る。
懐から取り出したのは残った毒のストック。拮抗剤の効果時間が終わったことを確認し終えた『彼』は、その分量を正確に測った上でそれを呑み込んだ。
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「……おい、聞いたか? 例のカッコウの子」
「ああ、××××××だっけ? 一族の授与式を終えた後に、拾ってくれた家族全員が毒で殺されたって言う……」
「あの子自身も死にかけたらしい。偶然覚えていた解毒の魔術でどうにか命だけは永らえたらしいが……」
「家族は全員、か……。くそっ、殺したやつが早く分かってくれるといいんだが」
――誰も居ない魔術の修練場で、一人の青年が魔術の研鑽に勤しむ。
担うのは宝飾された魔術媒体。他に視線を送ることも無く、己の修行を続ける『彼』へと声をかける者は居ない。
『彼』の家族が迎えた凄惨な事件を知っているから、その心を癒すだけの言葉を、有している者は居ないから。
汗で濡れた『彼』の身体を、一陣の風が吹き抜ける。その冷たさに身を振るさせた『彼』は、その後一瞬だけ自身の小指に視線を向けた後、くすりと笑う。
「嗚呼、漸く熱が消えた」と。
おまけSS
――夢を見ていたような気がする。
恐ろしく冷たく、恐ろしく凄惨で、けれど、それに心の底からの平穏と喜びを覚えた誰かの夢を。
自らとはあまりに乖離したその感覚に恐怖を覚えた青年は、故にそれを忘れるべく寝台から跳ね起きて朝の準備を始める。
何時もと変わらない朝。食事を取って、仕事の準備を始めて、その内お客さんを迎える。
そうした日常に身を埋めていくうちに、きっとこの感覚も忘れ去られるのだと。
――青年は、『彼』を置き去りにしようと、今も逃げ続けている。