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元世界の話 ~魔術紋の目覚め~
登場人物一覧
これは、ある魔術紋の物語の始まり。
名無しの『魔術紋』が、無辜なる混沌に召喚される数か月前の出来事である。
●魔術紋の目覚め
最初は、真っ暗だった。眠っている時の感覚。人間が眠りから覚めるように……目を覚ます。目を開ける。
この体において、呼吸と生命活動以外で行う最初の挙動。
それ以前の自分の記憶…過去と思い出は存在しない。
目を開ければ、屋敷の一室。
天蓋付きのベッドや大きな鏡や衣装入れ等がある貴族の寝室……しかしこれらは自分の持ち物ではない。
状態を確認する為に周囲を見回す。
自分以外の人物は3人。
外套を纏う魔術師……この世界の役人兼魔術師であると与えられていた知識で分かった。
魔術師と話すのは中年位の大柄な男性と細身の女性。豪勢な衣装を着る貴族夫婦……物腰は丁寧なように見えて傲慢さがにじみ出ている。
『丁寧なのは外面だけ、他を蔑み嘲笑い利用する悪徳貴族だ。なんであんなのが僕の両親なのかいや本当に両親か』
……という体の記憶、それが想起されても動じない……動じる程の情緒が与えられていない。体の記憶を想起できるなら自分と体の接続は正常だと確認するだけ。
鏡の前に立ち、自分の体……否、自分が憑依させられている体を見る。
銀の髪に蒼の目、整った顔立ちと整った衣装。この屋敷に住んでいた貴族青年……の体。
服を脱ぎ、魔術師から支給された簡素な衣服……質素な色で装飾も何もない上下……を着る、前に鏡を眺めた。
本来は青年の体にはない、
一部の異世界の者なら
そして……この『魔術紋』こそが、魂が抜けた体に憑依されられた自分自身だった。
『魔術紋』は目覚めればこう言うのだと声を発する。
ドイツ語と思しき言葉……しかしここでは
「おはようございます」
丁寧な物腰、しかし込める心などなく淡々と。心は求められていないから。
●ある世界の話
魔術師から指示を受ける。体で歩くために外に出る。
周囲を見回す……視力等の五感確認の為。そして自分が体に十分馴染む為。
中世欧州を思わせる、煉瓦で作られた建物の街並み……硝子製の窓や(一部を除いて)清潔な街並み等の風景は、一部の特異運命座標が知れば幻想国の王都に似ていると思うかもしれない……勿論、この時点の『魔術紋』にその辺りの知識はまだないが。
「やぁ、今日はいい天気だね」
スーツ姿の男性が、少し上を向いて挨拶する。
周囲には洋服を着た人々が行き交い、魔法陣か紋章のようなものが記された車が排気を伴うことなく走り、空には箒に乗った魔法使いが行き交う。
魔術や付随する技術で発達した世界。恩恵を受ける存在はそこかしこにいる。
挨拶した男性のやや上にも。
「そうだね。散歩するには良い晴れ具合だ」
挨拶を返した男は、幽霊かのように透けていた。他にも透けた人物はちらほら見受けられる。
しかし、スーツの男性も他の者達も動じることなく普通に接し過ごしている。
彼等もまた魔術の恩恵を受ける者。
『魔術紋』は気にせず歩く。会話は求められていない。
この世界の現実は、清濁どちらも併せ持つ。
路地裏には路上に暮らす貧しき者が多々いる。悪い貴族は平民を蔑み、魔術や道具は時に乱雑に扱われ破壊されるが問題にもされず。濡れ衣で取り押さえられ連れていかれる者もいて。
体に刺青のような紋様がある質素な衣装の人物も見受けられ、表では暴力も罵りも受けないものの、裏では紋様を持つ人物を指さして陰口を言い合う者達もいた。
『魔術紋』は気にしない。感情や思考は制限がかけられている。
疑問にも思わない。彼は未だ、道具だ。
彼は屋敷に戻る道を歩く。魂だけの人間の行先も気にせずに。
魂だけで外を楽しむ人間……家に帰り体に戻って元の日常を過ごす者もいるが。
帰らない者もいる。魂だけで遠くへ、自由へ旅立つ……この地を出られない肉体を捨ててまで。
『……丁目の屋敷に、魂が抜けた体を発見。魔術師は到着済。生命維持の結界は張ったが魂が捕まらない。至急、魔術紋……『保躯術紋』の用意を――』
そして、それ故に
●魔術紋という魔術の話
この世界は、魔術の世界。
数百年前にある天才魔術師が様々な魔術を生み出し……二百年ほど前に行方不明になり魂すら観測されなくなったという逸話もあるが……魔術による技術、医療技術、各種道具の運用等が中世というには合わないほどに発達した世界。
天才魔術師が生み出した魔術の中に『魔術紋』と呼ばれるものがある。
紋章のような魔法陣を道具に憑依させ、使役する術。本来の用途は別という説もあるがそれは置いておく。
この世界には魂だけで出奔してしまう者もいる。
元の魂を連れ戻すまでの間、魂のない体……放っておけば体が死ぬ……を維持する為、紋章や刺青のような見た目の意志ある魔術『魔術紋』(正確にはその一種である『保躯術紋』)を憑依させるのだ。
魂を連れ戻せれば、体から魔術紋を剥離して魂を戻す。
「離せ」「自由にして」「もう戻るのは嫌」……怒り嘆き泣き叫ぶ魂達の意志は無視されるのだ。元通りにできれば十分だと。
建物から誰かが落下する。魂を戻され自由になれずに絶望した者が死んだ。戻さなければ死なななった、なんて意見は黙殺される。
仕事ができれば後の事など気にしない、役人兼魔術師達の会話。
「剥離後の魔術紋はどうするんでしたっけ」
「再利用……する為には、剥離前に蓄積された情報が邪魔だ。次の体の維持に齟齬を起こすからな。浄化用の魔術で人格・経験等の情報を全て消して初期状態に戻す。状態を見て、それでも異常があるなら処分だ」
体から剥離された魔術紋の意志も問われず、初期化か処分。どの道これまでの彼等としては殺される。
魂が戻されるまでの間しか今の意志を許されない、生命維持用の道具。
それが『魔術紋』の現実だった。
●
魔術師から受けた指示を終えて屋敷に戻れば、追加の指示と説明が入る。
憑依している身体の生命維持・機能維持。魂を連れ戻す時かそれが不可能になる時まで、体の生存と能力維持を最優先に過ごして下さい。口調や振る舞い等は身体の記憶を参照して一致させるように。その体の主は自身を「自分」とは言いません。
私の仕事は終わったので帰ります。剥離の時まで従順に過ごすように。
処分対象にならない事を期待しています。
丁寧な命令は、道具を壊さないように扱う為だけのもの。
しかし『魔術紋』は疑問すら抱かない。
身体の記憶を想起。正しい口調は……。
「うん、わかったよ」
体の通りに了承する。自分……僕はそうする。体の持ち主のように微笑をつくって。
体を維持する為の日々を過ごすのだ。
……これが、ある『魔術紋』の物語の始まり。
あるトラブルから無辜なる混沌に召喚され、自身に名を付けるのは……
混沌世界で
おまけSS『身体記憶想起 ~体の持ち主の話~』
身体維持の日々の中、『魔術紋』は体の記憶を想起する。
あの両親から生まれたとは思えないほどの、善良な貴族青年の記憶を。
彼は……善良な貴族の青年は、生まれにも能力にも恵まれ性格も良く友人も多かったが、周囲の環境にはある意味で恵まれなかった。善良な性質は、小悪党な
それでも頑張って成果は上げ続けた。両親とは別の、彼自身の屋敷(『魔術紋』が滞在する屋敷)も持てるほどになった。
しかし周囲の状況は変わらない。
20歳になるよりも前に、ついに耐えられなくなり。魂だけで……身体との接続を絶ち、抜け殻の体を置いたまま、どこかへと旅立って行ったのだ。
未だに魂の行方はつかめていないらしい。
彼がどうしているのか、も『魔術紋』は考えない。気にしない。
魂の行方は魔術師達が捜索・追跡し、いずれ体に戻されるか見つからずに終わるかだ。
体の持ち主の事を知る機会……『魔術紋』が屋敷に残された隠し部屋に辿り着き、手紙と贈り物と素敵な光景を見るその時……はまだ遠い。
『魔術紋』の顔には、紋章以外何もついていない。伊達眼鏡をかけるようになるのも、まだ先の事。