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炎の魔女のお話
登場人物一覧
靴を履いて玄関から「いってきます」と出掛けるときに、必ず右足から踏み出す。
それが魔女のおまじないだった。
太陽が赤く燃えたら、その日は良いことがあるから上を向いて歩きましょう。
嫌なことがあったら、靴でとんとんと地面を叩いてから全てを忘れてしまいましょう。
そんなやさしい魔女のおまじないがわたしは大好きだった。
わたしたちの世界は限られた人だけが魔法を使えた。魔力と呼ばれた魔法の素は生まれ持った素養でしかなくて。
にんげんの体を構成する血や肉と同じように魔力は体を巡り続けて、尽きてしまえばおしまいなんだそう。
だからこそ、にんげんの生活を豊かにするために魔法使い達は魔力を
せかいが良くなりますように。
せかいが平和でありますように。
魔法使い達はおねがいをしてわたしたちの生活を支えてくれた。水を、炎を、鉄を、沢山の豊かさを産み出していのちを繋いできた。
時折、にんげんの為に力を使わない魔法使いがあらわれる。
魔女と呼ばれた彼女達は、魔法使いの中でも悪い存在だと誹られることが多かった。
町外れの洋館に一人きりで暮らしていたあのひとは、魔女と呼ばれているおばあさんだった。
わたしが魔女と初めて出会ったのは、この町に引っ越してきた5歳の時だった。
魔女の家は少し小高い丘にあって、薔薇のガーデンと陽の光がきらきらと差し込むテラスのある洋館だった。
わたしがその場所に辿り着いたのは町の冒険に出掛けてくると引っ越しの荷物を運び込む両親の目を盗んでの時だった。
ひとの一人も居ない道を駆け上がっていけば現れた薔薇のガーデンがあまりにも美しかったから。つい、庭へと潜り込んだのだ。
「だあれ?」
わたしは思わず飛び退いた。町外れの洋館に誰かがいるだなんて考えていなかったからだ。少ししゃがれて、それでも優しい響きの声はもう一度「だあれ」と問い掛ける。
「はい」
わたしは首根っこを掴まれた猫のようにしょんぼりと身を縮めて顔を出した。テラスに座っていたそのひとは黒い夜の色のローブに時代外れな魔女帽子を被っていた。
読みかけの文庫本に栞を挟んでから彼女は驚いたようにわたしを見て笑ってくれた。
「こっちにいらっしゃいな。クッキーはお好き?」
叱られてしまわないことに驚いて、そろそろと近付けば美味しそうなクッキーの匂いと、薔薇のかおりが漂っていた。
紅茶にはたっぷりのミルクと砂糖。それから、クッキーは食べきれなければ包んで持って帰りなさいと彼女はそう言ってくれた。
彼女はわたしの名前を聞かなかったから、わたしも彼女の名前を知らない。
お土産を持って帰ってからおかあさんが町外れには魔女が住んでいることを教えてくれたのだ。
魔法使いとして生まれたからにはにんげんの為にその力を使わなければならないと義務づけられた世界で、そのお役目を拒否した悪い魔法使い――魔女。
その人がそうであるのだと教えられたとき、釈然としなかった。
あれだけ優しくて、花にも愛されるあの人が悪い人であるはずがないと。
お母さんの目を盗んで、学校帰りに度々魔女の屋敷に足を運ぶようになったのは、10歳に上がってからのことだった。
10歳になれば魔力適性検査が義務付けられる。魔力は生まれ持ってのものだけれど、覚醒するのは10歳を越えてからだ。
年に一度の健康診断と同じように魔力の適性検査を行ってにんげんであるか魔法使いであるかを区別するのだ。
魔法使いだと判断されれば、魔法使いのための学校に通い、魔法石に力を込める勉強をする。魔法薬を作り、魔法使いのための決められた道に進むのだ(わたしも、詳しくは知らない)
どういう進路があるのかと魔力もないくせにわたしは興味を持った。いつか覚醒することがあるかも知れないなんていうのはちょっとだけの期待。
魔女に教えて欲しいと乞えば、あの人は少しだけ困ったようにわたしを見てから教えてくれた。
「魔法使いは魔法石を作って生活を豊かにするのよ。それから、魔法薬を作る薬剤の調合のおしごともあるわ。
魔法使いは数が少ないから、偉いひと達が管理をするの。魔法省と呼ばれる場所におつとめして、毎日、にんげんの為に魔法を使うのよ」
「とっても立派なお役目なのね?」
「そうね。そうかもしれないわ。でも、わたしはちょっと草臥れちゃった。
だからにんげんの為には頑張れないの。良い魔法使いになれなかったから、わたしは魔女なのね」
ぎいぎいと振り子のように椅子を揺すってから魔女は困ったように笑った。わたしは「ふうん?」と首を傾げただけだった。
こんなにも優しい魔女だから。おばあさんになってそのお役目から解放されたのだと思っていた。
家に帰ってから町外れの魔女についておかあさんに聞くと、おかあさんは困った顔をしてから頭をがりがりと掻いた。
「魔法使いは魔力を使い果たしたら死んでしまうの」
「どうして?」
「魔力は血で、空気で、魔法使いのからだを作る重要なものだから。
魔法使いはいのちを削ってにんげんの為に豊かさを与えてくれているのよ。あなたが何不自由なく生活するためのひかりも、みずも、ほのおだって。
魔法使いがそのいのちをにんげんの為にと願ってくれたから与えられたものなの。わたしたちにんげんは魔法使いに恩返しをしながら日々を過ごさなくてはね」
わたしはその時まではそれがどういう意味であるかは分からなかった。
――魔法使いにとっての魔力は血で、空気で、いのちそのものだった。
魔力が枯渇した魔法使いは眠るように死んでしまうらしい。魔法省では最期の時を迎えた魔法使いを盛大に海へと送り出すのだそうだ。
世界とひとつになって、新しい魔法使いが生まれるように。
わたしたち
魔力を持たないわたしたちは世界をよりよくして、魔法使いがお勤めを果たせるように支えなくてはならないのだ。
それが重要な仕事だと教わり続けた。せかいの常識。
魔力適性検査で覚醒をした幼馴染みは静かに泣いていた。幼馴染みの両親は泣き崩れてから「名誉のある仕事だ」と彼女を送り出した。
彼女はそれっきり学校には帰ってこなかった。遠くの町で遠くの魔法使いになるらしい。
そうやってクラスメイトは徐々に数を減らしていく。魔法使いになる者。魔法使いになれるほどではなくとも少しだけ素養があった者。
魔法使いになる者は担当する町の近くで学んで魔法省に入りエリートコースを歩むらしい。
素養があったものは魔法薬を作成する勉強をして故郷で魔法使いのサポーターを行うのだと聞いていた。
何もないにんげんだけ変わらない生活をする。社会を回すために必要な歯車になりなさいと教えられているかのように。
15歳になったある日に、魔女の屋敷はざわざわとしていた。
ぽかぽかとしたお日様が愛おしいそんな日だった。わたしは何時も通りテラスのある庭からこっそりと洋館の中に入り込む。
玄関では数人のおとこが魔女と話しているようだった。
「頼むよ、早く魔法省に戻ってくれ」
「炎の魔法使いは特に生まれないんだ。炎が枯渇すれば此の儘生活が回らなくなる」
魔法薬を腰から下げて、腕章をしたおとこたちは魔法使いではなくその
魔女はいやいやと駄々を捏ねるように首を振る。
「わたしにはもう、そんな力はありませんよ」
「そんなことはないじゃないか。君の魔法適正値は最良だった。魔力適性だって最上。その年齢まで生きてこられたのだって魔力の多さだろう?」
「こんな老い耄れ、あとは自然に死ぬだけですよ」
魔女の手をぐっと握ったおとこ達は叫んだ。
「あなたが炎の魔法を使わなければ、この世界から火が消えてしまう!
にんげんの為に最期のいのちを使って世界に帰ろうとは思わないのか!」
叫んだおとこの声がぎいん、ぎいんと音を立てて響いた。魔力が反響するその音の中で魔女はかなしげに笑っているだけだった。
あのひとたちは魔女に死ねと言ったのだ。
世界のために、悪い魔女は死んでしまえ。世界のために、最後のチャンスをあたえてやるのだと。
「魔女!」
逃げようとわたしは魔女の手を引いた。
どうしてか、当たり前だった世界が恐ろしくなったのだ。
魔法使い達はにんげんの為に尽くしてくれる? にんげんは魔法使いを支えて過ごしている?
嘘ばっかりだった。魔法使いはいのちを削って、搾取されるだけだった。わたしは魔女の手を引いた。
暫く走ってから、魔女はわたしの手をそっと離した。薔薇の香りも遠離って、気付いたらわたしと魔女は林檎の木の下に立っていた。
瑞々しい林檎のしたに立っているわたし達はあのおとこ達からすると悪人だった。
「逃げようよ」
「いいのよ」
「どうして」
私は叫んだ。魔女にそうやって叫んだことは初めてだったからだ。
魔女は私に言った。魔女は世界を裏切ったから悪人なのだと。そろそろ死んでしまう最後の命を魔法石に閉じ込めて永遠にすることがひとのためなのだと。
「わたしはね、ふつうのにんげんのように生きてみたかったのよ。
あなたを巻込んでしまったら、本当に悪い魔女になってしまう」
「けれど、魔女は望んでいないでしょ? こんなの、不幸だよ。わたしが魔女を救ってあげるから。
だから、一緒に逃げようよ。世界の端っこまで。ずっとずっと走って行けば生きていけるかも知れない」
魔女は首を振った。
それから、わたしの頭を撫でた。温かい掌からきらきらとした光が溢れ出す。
きれい。魔女のいのちが光になってわたしを包み込んだのだ。
「もう、忘れてしまってね。悪い魔女の事なんて。
あなたは素敵な人だから、きっとおとぎばなしの天使のようになれるわ?」
「天使?」
「ええ。にんげんも魔法使いも関係なく誰もを沢山救ってくれる天使様よ。
祈れば、とても素敵な楽園に連れて行ってくれるの。あなたが不幸だと感じた全てを幸福に変えてしまうような、素敵な人」
なら、わたしは。
いつか、天使になって世界中の不幸を摘み取りたい。魔女のようなかわいそうな人をなくすために。
「わたしは天使になれるの?」
「なれるわ。あなたはわたしを自由に連れ出してくれた天使だもの」
けれど、不幸な誰かを見る事が幸福な人もいる。その人から見れば私は悪役なのかもしれない。
……ああ、けれど、それでいいの。わたしにとっての正解は不幸を摘み取る事なのだから。
わたしは、魔女を助けたかった。ただ、それだけだったのだ。
「もう全て忘れてね。あなたは悪い魔女にだまされて仕舞っただけだったの」
「ちがう! ちがうよ! わたしが勝手に」
「いいえ、いいえ。おやすみなさい――いいゆめを」
もしも、わたしを悪だという人が居たならばその人の事も覚えておこう。
わたしは正義も悪もなにもないうつくしい世界でさいわいだけを与える天使様のようになりたかったのだから。
わたしは薄れる意識の中で、彼女の優しい笑顔を見ていた。
魔女、魔女。
呼びかけても、言葉はぽろぽろと崩れていく。
にんげんも、魔法使いも、誰もがわかりあう未来はなかったのだろうか。
ねえ、わたしは悪い事をしましたか? わたしは、きっと、世界にとっての悪だったでしょう。
魔女を、わたしを、悪だと詰るにんげんはたくさんいるのでしょう。
それでも、この世界にそうやって生きた人がいた事を。忘れてはいけないの。
だって、その人はそうして生きて来たのだから。
それがにんげんも魔法使いもない、そのひとそのものだったのだから。
それを否定してはいけないの。
その人が生きたという事を確かに、わたしは覚えておこう。それがその人へのせめての手向けなのだ。
魔女、あなたは幸せでしたか?
「ええ、しあわせよ。最後の最後に、わたしの名前を呼んでくれるとっても素敵なお友達がいたのだから。
あなたを悪人だと詰るひとがいたならば、教えてやって頂戴ね悪い魔女の最期を」
だから、その日――
おまけSS『天使様のようなひと』
本棚に大切に仕舞っていた古びた背表紙の御伽噺は、何度も何度も読み返してきたものだった。
魔法使いに憧れた少女の話は元は一つの文庫本だったらしい。それが途中の物語を端折り児童向けの文学として絵本などでも刊行されていた。
アレクシアが最初にその本を手に取ったのは可愛らしい背表紙の天使がハートを抱えて泣いている絵本だった。
背が伸びて、沢山の文字を識ってから、きちんと読み直せば何とももの悲しい物語のように感じた。
命の選別をしている。屹度、これもそうなのだ。
――わるい魔女だから殺してしまえ!
魔種だから殺してしまえ、と声高に叫ぶような。そんな現実がのっぺりと横たわっているような奇妙な違和感。
違和感を覚えようとも、拭いきれぬ常識が揺らぎ続けて居る。一つずつ、詳らかにして行くように本のページを捲ったあの日を思いでしてからアレクシアはその背表紙を撫でた。
「行ってきます」
決まって、右足から踏み出す癖はないけれど。
ぽかぽかとしたお日様が愛おしかったのは同じ。目指すのもあの、天使のような存在だと決めたのも同じだった。