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あいさない
登場人物一覧
薄暗い部屋。その唯一の照明である蝋燭がジジッと音をたてながら、蝋を垂らしている。この蝋燭も後一時間程すれば、消えてしまうだろう。部屋にある椅子には大柄な男が女性の生き人形を抱きしめている。——いや、抱きしめているというのは、正確ではない。人形に甘え、縋っているのだ。そのさまは、まるで大きな人形に抱きついている幼い女の子のように。
男の名はジョセフ・ハイマン。宗教が支配する世界で遺伝子操作され生まれた異端審問官。母親に包まれた幼子のように安心しきって、助けを求めるように己の手を人形の手と絡める。
絡めた手の先にある人形の名は沁入:礼拝。最高の技術、素材、そして、本物の女性の精神を削り出し作られた、その世界では最高峰の生き人形。その使命は愛を理解してもらえない異端者を愛し、日常に帰れるようにすることだ。そして、ジョセフの愛は痛み。傷つけ、傷つけられることこそが彼の愛だ。全くの異端だ。礼拝の使命の対象者そのものだ。だから、愛する。指先の傷、形、凹凸を手でゆっくり撫でさする。それを記憶に刻み、蓄積する。相手を知り、相手のことを考え続けることが礼拝の愛だ。
礼拝はこれまで、話を促すように、時には励ますように強く握り返し、時には慰めるように優しく撫でさすり、落ち着かせてきた。蝋燭の短さはそれにかかった時間を如実に表している。
ジョセフは異端故に怯えていた。ジョセフの愛を受け入れてくれる人などいないと思っていた。だから、異端である己を見られることに怯えた。故にフルフェイスの仮面を被る。だが、礼拝は異端であるジョセフに愛を紡ぎ、捧げ続けた。愛に餓えていたジョセフの心を礼拝の愛はどれだけ揺らがしたか。
その結果が今に至るというわけだ。ジョセフの話を聞き、言葉でも慰めながら、手を睦合わせる。ジョセフの傷に触れては、心配するように優しく傷をなぞる。ジョセフの手の触れてないところがないように、手をゆっくりと撫で、指で細かなところまで触れていく。ジョセフの指が救いを求めるように指を絡ませてくれば、大丈夫というように指を強く絡ませ合う。
ジョセフも礼拝がするように、礼拝のことが知りたくなった。だから、礼拝の生まれた経緯や世界のことを聞いた。それは許し難いものだった。それでいて、過去の傷を抉られるような感覚がした。自分と同じではないか。両親と呼べるものはいない。宗教のために計画的に作られた自分という存在。神は私を愛してくれているのか。疑念、不信、絶望の渦巻く己の心中。自分の気持ちを代弁して欲しくて、ジョセフは礼拝に問う。
「君は、己の事をどう思う? 己に課せられた……定められた道を。役割を」
礼拝は大丈夫だ、というように震える手を強く握る。そして、正面に立ち、仮面で見えないことを知りながらも、ジョセフの心に突き刺すように、目のある辺りを真剣に見つめる。
——誇りに思います。
その言葉はジョセフの目を見開かせた。何故、欲望のために作られて誇りになど思えるのだ!
「私は人の道具として生まれました。人に求められ、慰めるのが私の価値。最高の性能を披露するのが私の義務。この異世界に落とされて、私は『故郷』を背負って常に証明し続けなければならない」
——私の『世界』はどこの世界にも劣ってはいないと!
その声は凛として、膨大な熱をもっていた。その目は己が信念を一切の曇りなく信じきる者の目だ。その姿勢は退くことを知らぬものの生きざまだ。華奢で美しい、その姿から思いもよらぬほど、強く熱い信念を礼拝はもっていた。
「私も勿論知っています。自分が自由であり、他の生き方もあるのだと。それでも、私は自分の選んだ生き方に誇りをもっています」
そう言う礼拝の姿は柔和で澄んだ瞳をしていた。
ジョセフにはその姿が眩しくて目眩がしそうだった。この回答は、ジョセフの異端審問官としての人格——ペルソナ——にとって理想的な回答だ。けれども、ジョセフの見たくない己——シャドウ——とは乖離している。同じ境遇の人間だと思っていた。何もかも信じられないのだろうと思っていた。だが、誇りに思い、その生き方を選んだだと! 自分の心が壊れていくような感覚に陥る。私は、いや僕は、そんな人生を選ぼうなどとはしなかった。ペルソナとしての仮面がずっしりと重く感じる。
「僕は君のようにはいられない。僕、は……信じきれなかった。疑っていた。恐れていた。己も、世界も、神も、何もかも。何も、無かった。僕は、僕は、愚かで、臆病で、だからこんな……仮面で……」
視界が泪で歪んだ。シャドウが膨れ上がり、喚く。臆病が故に、己の異端を隠す仮面を被った。愚かが故に、己を信じることができなかった。
——僕は、なんと惨めなのだろう。
そう思うと、自然と椅子から崩れ落ちた。涙も何もかも止まらない。両手は礼拝の小さな手に縋りつく。この惨めさを、この虚しさを、ひと時だけでいい。愛で埋めてくれると信じて。
「僕を慰めておくれ。僕を救っておくれ。一時でいいんだ。惨めな僕を、情けない落伍者を、慰めて、救って、……う、受け入れて、くれ。お願いだ……。か、仮面を、外して……くれ」
暴走したシャドウはペルソナたる仮面を外したがり、より多くの愛を礼拝に求める。
礼拝は優しく慰める反面、この仮面を外した瞬間どうなるのかと心配だった。仮面がジョセフの異端と日常を繋ぎ止める唯一の道具であることは明白だ。緊張しながら、椅子に座り、仮面の留め金に指をかける。思ったよりあっさりと仮面は外れ落ちた。
ジョセフは膝に縋る。礼拝の膝はあっという間にジョセフの泪や体液でびしょ濡れになり、更に滝のように溢れてくる。ジョセフの心は今生まれて初めて癒されている。只々救いを求め、傷だらけの手を礼拝に向けて伸ばす。礼拝はそれを己の頰に添わせ、もう片方の手をジョセフの頬に添わす。手に触れる滑らかで柔らかい感触はジョセフの心を落ち着かせた。そして、指先で頬を緩やかに撫でていく。そして、親指を礼拝の下瞼の際に添える。
「君の瞳は、黒いな。濃い色の瞳はよく光を映して……。ああ、深い。吸い込まれそうだ。鏡のように、影のように」
礼拝の瞳にジョセフは心を奪われる。もっとよく見ようと、礼拝と鼻を突き合わせそうなほどに、顔を近づける。
——きれいだ。
礼拝はその言葉を聞いた瞬間、ジョセフの何もかもを知ろうとしてしまった。緑色の子供のような目に惹きつけられて、瞳孔を大きく開く。睫毛、角膜、瞳孔、一つ一つの虹彩に至るまで。機能停止しそうになるほどに。礼拝にとって愛とは相手を知り、記録し、考え続けること。礼拝は今自らを犠牲にしそうになるほど、ジョセフを愛そうとしてしまったのだ。礼拝は万物を愛する。決して愛には溺れない。そのはずなのに。愛に溺れそうになる。全ての愛を捧げたくなる。それを恋と呼ばずしてなんと呼ぶのであろうか。礼拝は女に堕ちて恋をする。
——みられたい。
——視線を独占したい。
——その唇から私のことがこぼれ落ちるのを聞きたい。
呼吸停止、思考凍結、深呼吸、再起動。その何もかもが無為に終わって、再起動すれば、また恋に落ちる。恋に落ちては再起動。再起動の無限ループ。
ジョセフは思う。礼拝の変化には一切気づかないままに。
——君を人間にしてしまいたい。
君という殻を壊して、礼拝という人形の存在を否定したい。全てを愛するのではなく自分だけを愛する人間に変えてしまいたい。特別な存在から堕とす。それは礼拝に最大限の痕を残すことに違いない。それがジョセフにとっての最大限の愛情表現だ。ジョセフは何にも気づかぬまま恋をする。
恋は麻薬だ。相手以外の他に何もいらない。相手さえいればいい。相手を全力で愛したい。けれども、礼拝の愛は万物への愛。ジョセフの愛は痕をつけ、つけられること。並走する愛が交差するとき、どうなるのだろうか。礼拝はジョセフという個のみを愛す。ジョセフは礼拝を壊さない。礼拝とジョセフは深い身体関係を求めるようになるのだろう。より深く愛し合うために互いに首を絞めながら。礼拝は女としてのひと時の幸せを得、ジョセフはひと時の傷つけ合いで愛を確認するのだろう。
そう、ひと時は。ひと時ならそれで幸福な恋だ。だが、生物には欲がある。もっと深く愛し合いたくなる。もっと自分の愛を表現したくなる。その結果、礼拝はジョセフだけを深く愛しながら、壊れることすらも許し、ジョセフは礼拝の身体に念入りに痕をつけ、そして最後は壊してしまうのだろう。礼拝はその時、ジョセフの心を大きく傷つけ、ジョセフの一生の特別な存在として君臨し続けるに違いない。
だが、それは本当にジョセフの一番になる方法だろうか。物語を特別として愛するジョセフの大切な玩具が増えるだけなのではないか。礼拝は記憶だけの女になどなりたくない。二番目の特別なんて、そんなの嫉妬で狂ってしまう。心が出血してしまう。それすら快楽になっている今、礼拝の精神はジョセフに既に侵されてしまっているけれど、今なら後戻りができる。
——二番目にしないで。
礼拝は血を吐くような想いでなんとかそれを口にする。ジョセフの一番になるために。ジョセフに愛し合わないことを誓わせる。
——わかった。僕は君を愛さない。でも、君が好きだ。
礼拝は、恋する己を封印する。それでも、『愛さない』という言葉に心から血が溢れ出す。もう心は傷だらけだけれど、それがジョセフの愛だと思えば、全ては快楽だ。
礼拝にジョセフへのもう一つの愛が生まれる。ジョセフという異端を人間にするのだ。殆ど何もない純真無垢な異端を立派な人間にする。それは、母という特別な愛の形だと礼拝は気づいているのだろうか。無意識だとしたならば、それは恋を封印した人形の違う恋の形なのかもしれない。