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月と灰
登場人物一覧
●酔い残しの色
「まだ天辺に麦酒が残っていますね」
「ん、もう朝ぁ? まだこうしていたいのにぃ……」
クラシカルで小洒落たアパルトマンの一角。
『キールで乾杯』ミディーセラ・ドナム・ゾーンブルク (p3p003593)は、欠伸をする女の長い髪を指に絡め、天辺に残る小麦色に口唇を落とす。
夕陽が沈む西の空のように酒の名残が色づき、酔い醒めと共に消えてゆくのを眺める朝が好きだった。
小柄で少年のような獣の男の腕の中。
『キールで乾杯』アーリア・スピリッツ (p3p004400)は頭を擽る吐息に身じろぎすると、白いリネンを掻き集めて恥じらい残る胸元を隠す。
アーリアの髪はギフトの効果で昨夜の酒の色がわずかに残っていたが、肌に散りばむ花押が消えるのはもっと先のようだ。
「わたしももう少し色が抜けきるまで眺めていたいのですが。何しろわたしの髪は灰色になってしまいましたので」
「え、何それ? 元から灰色じゃないのぉ? だって耳も尻尾も灰色……」
「噓です」
驚いて身を起こす彼女の問いを、短い言葉と共に彼の口唇が封じる。
「灰かぶりと魔女の話ですわ。聞いたことないですか?」
ミディーセラは口唇を離すとセーターを拾って頭から被る。
袖を通しながら見下ろす胸元には月の紋様。
それは不滅の棘に犯された灰色の子どもの寓話。
それは月の女神に愛された灰色の男の物語だ。
●不滅の七色
『人里離れた森の奥深く、7人の魔女が暮らしていました。
不死を司る月の女神を崇める彼女達が求めるのは、人を不老不死にする魔法。
ある月の綺麗な夜、魔女達は森に捨てられた真っ白な髪の子どもを拾いました。
ごらん、この子の真っ白な髪を。これは無垢な魂を持った印だよ。
きっと月の女神が捨てられたこの子を哀れんで私達の元へ導いたのに違いない。
ああ、でもこの清らかな子はきっと汚れた外の世界で黒く染められてしまうだろう。
だから与えよう、与えよう、不老不死の魔法を。
だから贈ろう、贈ろう、不滅という呪いを。
第1の魔女は真っ赤に燃え盛る炎を灯した松明を振るいました。
すると子どもは瞬く間に炎にまれ、肌は醜く焼け焦げました。
だけど魔女が松明の火を消すと、焦げた身体は元通り。
「これでお前は炎に焼かれることは無くなったよ」
第1の魔女が贈ったのは、どんな炎にも焼かれることのない魔法。
子どもの髪は炎の赤色に染まりました。
次に第2の魔女が熱で橙色になった焼き鏝を胸に当てました。
すると子どもには罪人の刻印が押され、胸は熱で爛れました。
だけど魔女が鉄を冷やすと、白く滑らかな胸は元通り。
「これでお前は鉄の武器で殺されることは無くなったよ」
第2の魔女が贈ったのは、鉄器によって殺されない魔法。
子どもの髪は夕陽の茜色に染まりました。
次に第3の魔女が大量の金貨を降らせて潰しました。
すると子どもの身体は重みでひしゃげ、肉の塊となりました。
だけど魔女が金貨を袋にしまうと、子どもの姿に元通り。
「これでお前は重いものに潰されることは無くなったよ」
第3の魔女が贈ったのは、どんなに重りにも潰れない魔法。
子どもの髪は小麦の黄色に染まりました。
次に第4の魔女が種を撒くと大地から蔦が生えて巻き付きました。
すると子どもの身体に蔦が巻き付き、絞られて千切れました。
だけど魔女が鎌で蔦を刈り取ると、千切れた手足は元通り。
「これでお前は千切られることがなくなったよ」
第4の魔女が贈ったのは、豪腕でも千切られない魔法。
子どもの髪は草の緑色に染まりました。
次に第5の魔女が息を吹くと、息は吹雪となって襲いました。
すると子どもの身体は氷に覆われ、凍えそうになりました。
だけど魔女が暖かな吐息を吹きかけると、氷は溶けて元通り。
「これでお前は寒さに凍えることはなくなったよ」
第5の魔女が贈ったのは、どんなに寒くとも凍らぬ魔法。
子どもの髪は氷の青色に染まりました。
次に第6の魔女が桶の蓋を開けると、津波が押し寄せてきました。
すると子どもは水に飲み込まれ、溺れてしまいました。
だけど魔女が桶の蓋を戻せば、飲んだ水まで元通り。
「これでお前は溺れることはなくなったよ」
第6の魔女が贈ったのは、どんな水にも溺れない魔法。
子どもの髪は海の藍色に染まりました。
最後に第7の魔女が香炉を焚くと、毒の霧が立ちこめました。
すると子どもの肌は紫色になり、口から血を吐き出しました。
だけど魔女が香炉の火を消すと、毒の香りは消えて元通り。
「これでお前はどんな毒も効かなくなったよ」
第7の魔女が贈ったのは、どんな毒も効かない魔法。
子どもの髪は匂菫の紫色に染まりました。
こうして子どもは決して滅びることのない体を得ましたが、同時に体の中に流れる時間も止まってしまいました。
子どもは何年経っても、魔女達が死んでも、子どものまま大人にはなれなかったのです。
「わたしは滅びぬ体などいりません。どうかわたしに時を返してください」
七色の髪となった子どもが月の女神に祈ると、月の女神は言いました。
「それならお前の命を燃やして時を進めよう。その虹色の髪と引き替えに」
月の女神がそう言うって子どもの胸に月を描くと、月から茨が生えてきました。
茨は子どもの命を吸ってどんどん伸び、子どもの髪は灰色になり、そこには一人の老人がいました』
●我が愛しき灰色
「ミディーくん、それって……」
「老人になっていませんのにね。噂っていうのは時が経つにつれ面白おかしく尾鰭が付くものですわ」
服を拾う手が止まる。
アーリアが皆までは言えずにいると、一足早く身繕いを済ませたミディーセラが事も無げに言った。
ミディーセラは不滅を追求する魔女の一族に拾われた捨て子。
そして一族の全てを受け継ぎ、長い時を生きてきた。
彼の胸には欠けてはまた満ちる月……不滅の象徴たる三日月の紋様が刻まれ、手足には戒めのように茨模様が絡んでいる。
長命種であるせいか、それとも一族の粋を集めた成果か。
彼は小柄で若々しく少年のようで、老いを知らぬようにさえ見える。
身に施された術式の幾許かは物語の通りでなくとも。
「どうせ染まるなら私もアーリアくんみたいにお酒の色が良かったですわ。幸せの余韻ですから」
ミディーセラは呟くと鏡面の前に座り、灰色の髪を隠すように大きな先折れ帽を被ろうとした。
だがそれより先に着替え終えたアーリアの手が彼の背後で灰色を掬い上げる。
「私はミディーくんのこの髪が好きよぉ」
アーリアは愛しげに手の中の灰色を見つめながら酒と色とを語り出す。
「赤は芳醇なワインの色ね。
乙女が素足を汚して葡萄を踏むのよ。私もやったわぁ。そして出来上がったワインの葡萄の濃厚な色と香りが好きなのぉ。
オレンジはさしずめテキーラ・サンライズね。暮れなずむ西の地平線のように底は赤が、上には照り返ったオレンジ色が広がって、余韻に焦がれるように甘いのよねぇ。
黄色はやっぱりビールかしらぁ。
きれ味の良さは青い空の下、一面の小麦畑を渡る風のようでとても爽快な気分にさせてくれるわぁ。
緑と言えばアブサンを思い出すわねぇ。
ニガヨモギが原料の薬だったのが酒になって多くの人を魅了したのよねぇ。中毒者を出したりたけどもぉ。
青はブルーハワイ、ブルーラグーン……カクテルでは好まれる色ねぇ。
青い珊瑚礁のある南国の海のようで、いつだって私達の目を惹くんだわぁ。
藍色はブルーキュラソーかしらぁ。
色は青いけどオレンジの果皮が使われていて、偉大な女帝の好んだ酒だとも伝わっているわよぉ。
紫はそう……ヴァイオレット・フィズ!
ニオイスミレのリキュールはカクテルにしても菫色で、仄かなバニラの香りが初恋を思わせるわねぇ」
アーリアは鏡越しにミディーセラに微笑みかけると、掬った髪を愛しげに頬に擦る。
「私はそんな風にこれまでいろんなお酒を飲んでぇ、いろんな色に染まってきたけどぉ……でもねぇ、私はこの灰色の髪が一番好きよぉ」
アーリアは癖のないミディーセラの髪が掌から零れ落ちると、また一房手に掬った。
アーリアの髪が幸福の余韻ならば、ミディーセラの髪は夢の残滓。
風に攫われる灰のように、さらさらと灰色の髪は留まることなく滑り落ちていくけれど──
「私の故郷、天義では、全て白か黒かに分けられて、黒とされた者は正義の名の下に粛清されるのよねぇ。でも誰にだって白い部分や黒い部分はあるし、誰かの目から見て白でも、他の誰かの目には黒に映るかもしれないじゃない? だから白っぽいか黒っぽいかの違いで、人は本当はみんな灰色なんだと思うわぁ」
アーリアは灰色の髪を見つめなから亡き母を思い出す。
故郷も地位も捨て恋人と共に亡命し、密告により粛清された母を。
だけど大人になった今なら少しは理解出来る。
曖昧を許さない世界の窮屈さを、白も黒も他の色も存在する混沌こそが世界の姿だと。
「灰色って素敵な色だと思うのぉ。白でも黒でもあるんだもの。だから私は灰色が好き。ミディーくんのこの髪が好きよぉ」
白でなく。
黒にもなりきれず。
だけど灰色はありのままの色。
夜更けに彼女を見下ろし雨だれよう垂れる灰色の髪は、いつだって彼女を慰め、愛を降らせてくれる。
こんなにも優しく、これほど愛おしい、彼女が愛した何者でもない彼という灰色。
「そう……ですか。それなら少しはこの髪が自慢に思えてきましたわ」
ミディーセラが帽子を膝の上に持ち満足げに微笑むと、その後ろでアーリアの口唇が動いた。
──あなたが好きよ
鏡の中には幸せそうな顔をした灰色の髪の男と、愛しそうに灰髪を梳く酒に色づく髪の女。
変わらぬものと、変わりゆくもの。
窓辺から差し込む朝の柔らかな光が、愛し合う二人の色を混ぜ合わせ、不滅の月はいつしかどこかに消えていた。