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そのキャンバスに色彩はない
登場人物一覧
ぎいと軋んだ扉の音に顔を上げた由奈はその瞳に歓喜のいろを乗せた。ソファーよりすぐ様に飛び降りて、玄関へと走る由奈は「おかえりなさい」と声を弾ませる。
靴を脱ぐ青年のその仕草に構う事無くその胸に一刻も早く飛び付かねばならぬと由奈は両手を広げて彼の――死聖の胸へと飛び付いた。広い胸板に、知ったかおりが鼻先を擽る。あゝ、これが幸せというものなのかしらと本棚に適当に並べられていたラブロマンスの一文を思いだす。
「由、由奈」
靴が脱げないと慌てて吐き出したその言葉。愛らしい妹というのはこういうものを言うのだろうかと甘えたな少女の仕草を拒否することなく受け止めた死聖の背後で二人の霊が小さく笑っている。
「お兄ちゃん、今日はね。シチューにしたの! 前にテレビで見ておいしそうって言ってたでしょ?
ほら、あの……黒髪の女優さんが出てたドラマのやつ。だから、作ってみたんだ」
「ああ。ありがとう。……別に料理もしなくても大丈夫だよ?」
負担になるだろうと彼女を気遣った死聖の言葉に由奈の頬がぷうと膨らんだ。あゝ、どうやらこの言葉はだめらしい――どうにも世話をしたがり『お嫁さん』の様に振る舞いたがるのだ。甲斐甲斐しいのはありがたいのだが、妹にそこまでの負担を強いるのも悪いではというのが彼の考えだ。
「なんで? 大丈夫。大好きなお兄ちゃんの為だったら何でもできるから! ……あれ?」
猫の様にごろごろと甘えていた由奈の貌が上がる。スーツの袖より薫ったのは死聖のものではない甘やかなコロンであった。ちら、と死聖を見上げた由奈の瞳に陰りが差した。どうにも、この甘いかおりは『姉』が好んでいたものにも似ている。
「……お兄ちゃん、今日、おんなのひとと一緒だったの?」
「ああ、依頼人の人で。どうして?」
「……だって、お兄ちゃんのお洋服から香水の匂いがしたんだもん」
ぷ、と頬を膨らませた愛らしいその妹に死聖は頭を撫でつけた。「名刺交換の時だよ」と誓って怪しい事などないと笑みを溢した彼の掌のぬくもりの心地よさに目を細めて由奈はお兄ちゃんと死聖を呼ぶ。
その指先を絡めるように、きゅと握りしめ「今日、一緒に寝て呉れなきゃやだよ」とその耳朶に囁いた。
●
幸せというのは何時だって解れる。美しき空の色に雲が陰りを見せるが如く――
ばしゃばしゃと雨水がトタンを叩く。随分遅くなってしまったと時計を確認しながら死聖は帰路を急いだ。
背後では常に行動を共にする二人の霊が由奈が心配だと言う様に死聖に声かける。勿論、死聖だってそう思って居た。行き過ぎた愛情を与えて呉れる彼女の事だ、心配だとこの雨の中街に飛び出して居たらどうしようとモンスターの跋扈する夜を彼は走った。
走っていたのだ。只、その時だろうか眩い光が彼を覆い尽くしたのは。
モンスターの襲撃であるかと彼が顔を上げれば白い天井が茫と移り込む。
「――ちゃん」と呼ぶ声に頭が動いた。車いすに、点滴スタンド。これは……何であろうか?
まばゆい光に包まれながら、死聖は神様のいたずらの如く、少女の体の中に閉じ込められた感覚を知る。
窓の外に見えるのは自身の知る風景でも、雨も気配でもなく、またも世界が暗転した。
流転するかのようにぐるりぐるりとその身体が何かに飲まれていく。群青色の空にぽかりとその身が頬りだされたとき、立ち上がれぬ儘に死聖は車いすごとばたりと倒れた。
「ここは……? 境? 里美!?」
煌びやかなネオンとは程遠い空中に浮かんだ島に放り出される。共に在る筈の親友と恋人の霊気は近くになく、地面を這いつくばるようにして掻いた砂が爪先に入り込む。
「由奈は……!?」
慌て飛び出した言葉に応えるものはいない。黒いカソックに身を包んだ女が起き上がることを手伝ってくれた時、自身がおんなの体になっていることに気づき死聖は脱力した。
――ここは混沌世界に旅人が呼び出されたときに最初に辿り着く場所、空中神殿なのだと云う。
あゝ、異世界? 空中神殿? それがどうした。その身は少女のものとなり車椅子から立ち上がることさえできないではないか。
親友も、嘗ての恋人も消え失せ、大切な妹さえもここには居ない。
「境……里美……由奈……」
その言葉は、美しい群青に吸い込まれるだけであった。
●
テーブルの上にはサラダとカレーライス。大切な『お兄ちゃん』の為にと夕飯を用意した由奈は電気もつけずにソファーに座って待ち続けた。待ち続け、焦がれ、そうして――気づいたのだ。
いなくなった、と。姉の時と一緒なのだと由奈の掌は震える。大切で、唯一だった『お姉ちゃん』と同じ。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん。
何度も繰り返し、街へと飛び出した。素足の儘で、衝動の様にその身が走り出す。
(いってきます、って)
――彼は普段と同じ笑みを浮かべていた。寂しいと甘えればその頭を撫でつける優しい掌がそこにはあったのだ。
(早く帰る、って)
約束のようにいつも口にされるその言葉が合図だった。だいすきの代わりの響き。必ず戻るという誓いの様な、甘いことば。
由奈の唇が戦慄いた。その目からは雨に溶ける様に涙が落ちる。我武者羅に走って、擦り切れた皮膚から血が流れている。
――何がいけなかった?
――何を間違った?
どうして、と漏れた言葉に誰も返す人はいなかった。由奈と呼ぶ人もいなかった。
「ふ、ふふ」
唇から漏れだした笑みは、乾ききって空より降る雨の中でも尚、潤いを帯びることはない。
分かっていたのだと少女は呻いた。わかっていて、縋ったのだ。自分勝手に永遠なんて言葉を口にして。
結局、大切な人たちはみんなみんなみんな離れていくのだ。両親も、お姉ちゃんも、『死聖お兄ちゃん』も。
「……私の人生って、やっぱり、不幸で、この世界は地獄だったんだね……」
お兄ちゃんが全てだった。お兄ちゃんがいのちのかたちをしていた。お兄ちゃんが、いないと、耐えられなかった。
ぼたぼたと溢れ出る血を見下ろして、群青には似合わぬ赤は宵の中に溶けてしまえばいいのにと膝を掻き抱いた。
「……ごめんなさい、お兄ちゃん……私は……妹失格でした」
薬指からするりとおちた指輪を眺めて由奈は「きれー」と子供の様に呟いた。
きらりと光ったそれ、『お兄ちゃん』がくれた愛のかたちで、いのちだった。
(来世というのがあるというなら……願わくばもう一度『お兄ちゃん』の妹としてありたいな)
彼がどんな外見であっても、存在であっても構わなかった。ただ、『ヒーロー』の傍に居たかった。
救いの手を伸ばしてくれる愛する存在。たいせつで、だいすきで、かけがえがなくて。あゝ、視界がかすんできた。
お兄ちゃん、大好きな、お兄ちゃん――
目を開く。覗き込むおんなの貌が其処にはあった。
そこが、混沌世界――兄が居るという場所――であると知ったのは、少しした後であった。