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慧と百華の話~存在論~
登場人物一覧
- 八重 慧の関係者
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自分に価値があるなんて思わなかった。
殴られ、蹴られ、食事を抜かれ、せめて愛玩動物だったらと毛並みのいい犬猫を羨む生活。齢8にして絶望の味を知っていた。
見世物でしかない自分は、水鏡に写るたびにその理由を知る。捻くれて垂れ下がる幾本もの角。ねじくれた奇怪なそれが自分を貶めているのを感じる。だから自分が好奇の目で見られるのは仕方がないことなのだ。檻の中でじっと座り込んでいるのがお似合いなのだ。ずっとそう思っていたし、これからだってそうなのだと思っていた。
だがそんな日常はあっけなく終わってしまった。
「出て行け」
興行主と座長が檻の鍵をはずした。何を言われたのかわからなくて、いぶかしみながら外へ出る。久しぶりに踏んだ土はひんやりとしていて心細さに拍車をかける。
「出て行け」
座長がもう一度言った。
「飯代を稼ぐにはもう大人に過ぎる。価値が下がった。これからはお前の好きなように生きるといい」
ぽかんと口を開けた俺は、座長が吐いたあまりの言い分に怒る気もなくしていた。ふたりのおとこは、まったくもって俺への興味を失っているようだった。
「ほら出て行け、念願の自由の身だぞ。おまえだってもう子どもじゃないんだ。自分の口くらい、自分でしのげるだろう」
たったそれだけで俺は宿無しになった。
檻の中ほど辛いことはないと思っていたが、宿無しになってみればもっと辛いことだらけだった。見世物にされていた頃は少なくとも雨露はしのげたし、食事だってでた。ムチで打たれたりは日常茶飯事だったが、腹と背がくっつきそうな飢餓感に比べればまだましだ。とにかく、空腹、これが厄介だった。口に入りそうなものは手当たり次第口に入れた。しぶいだけの木の実や、まだ柔らかな新芽。木の根っこや、畑から拝借した作物。とにかく生きるために何でもした。飢え死にだけは嫌だった。雨、これも厄介だった。山に入れなくなるし、里をうろつこうにも視界が閉ざされる。なにより雨に打たれているとそれだけで体力がメリメリ減っていくのを感じた。だから俺は雨の日が大嫌いだった。
あの日もそんな雨の日だった。俺は空きっ腹を抱えて洞穴でうずくまっていた。この世の何もかもが呪わしく思えた。忌まわしい角が養分を吸って育っていくのを感じながら、俺はこいつを抜きとれば少しは楽になれるだろうかと物騒なことを考えていた。
「だれ?」
内に沈んでいた俺は気づかなかった。誰かがやってきたことに。ぎょっとして顔をあげると、同い年くらいの子どもと視線がかちあった。
「だれ? このあたりの子じゃないよね」
かぶりつきたくような色白の肌、桃色の長い髪はつややかで手入れが行き届いている。つまみ細工のついた和傘をさし、着崩した着物には絢爛たる染模様。獄相は見当たらない。さてはヤオヨロズかと俺は毛を逆立てた。せっかく見つけた隠れ家を開けわたしたりしたくなかった。なのにそいつはしげしげと俺を眺めてにっこりと笑った。嘲笑以外の笑顔を見るのは初めてだったから、俺は面食らった。そのすきにそいつはすたすたと歩いて俺の隣へぽすんと座り込んだ。
「どこから来たの?」
「……」
俺は返事をしなかった。どう答えればいいのかわからなかったから。そいつは体を左右にゆらゆら揺らし、上機嫌で続けた。
「まぁいいや、雨が上がるまでお話ししない?」
「……っす」
「雨の日ってたのしいよね。いろんなものが違った表情を見せてくれるのだもの」
「……そっすか」
「うん、今の時期は紫陽花がすてきだよね。紫陽花知ってる? 私は大好きなんだけど」
「知らないっす」
「こう、ちょっとひねくれた花でさ。花に見えるのは花びらじゃなくて萼(がく)っていう部分なんだって。この間旅人が教えてくれたんだよ」
「……はあ」
「でもね、とってもきれいなの。この時期の花だったら私はいっとう紫陽花が好き! あなたは?」
俺は言葉に詰まった。花を愛でたことなど一度もないからだ。暗い見世物小屋で生きてきた俺には紫陽花などという立派な花は検討すらつかなかった。
「わからない」
「なにが?」
「花が」
「花がわからない?」
「どんな花があるか知らない」
「だったら見に行こう。おいでよ!」
そいつは急に立ちあがり、俺の手を引っ張った。そして空腹と立ちくらみでへたりこんだ俺をみて、そいつはたいそうあわてたようだった。
「だいじょうぶ? おなかすいてるの? あ、そうだ。さっきクワの実見つけたんだ、いっしょに食べよ」
俺は伸ばされた手を取りそうになり、ひっこめた。こんなふうに施しを受ける時には、なにかしないといけないんだ。
「どうしたの、いらないの?」
「いや、まだ、芸をしていない……」
「芸? 芸人さんだったの?」
「芸というか、その、見世物小屋にいた……」
俺は醜いだろう? そうつぶやいて、髪をかき分け、ぐにゃぐにゃの角を見せた。自分の恥部を晒す行為に、俺は眉をしかめ顔を火照らせた。何度やっても慣れない。だけども俺が檻の外で生きていくためにはやはりこうするしかないんだ。悔し涙があふれそうになり、俺はあわてて目元をぬぐった。
だがそいつの反応は薄かった。
「でっかい角だなあとは思うけれど、変だとか妙だとかは思わないなー」
雷が落ちたような衝撃を受けた。そいつがなにげなく言ったセリフに。俺はひたすら自身を醜いものだと思いこんでいた。なのにそれをさらりと覆された。出会ったばかりのそいつの、たった一言で。
呆然としていると、口の中へクワの実を押し込まれた。そいつはにい~っと笑って、自分の口へも実を放り込んだ。
「ちゃんと洗ったから大丈夫だよ」
クワの実はほんのりとすっぱく、甘く、舌がしびれるほど美味かった。よだれがしとどに湧いてきて俺は夢中になってその甘露を味わった。飲み込むのがもったいなくて口の中でムグムグしていると、またそいつは笑った。
「あはは、まだあるから大丈夫だよ。はんぶんこしよう?」
そいつは袋の中いっぱいのクワの実を俺へくれた。
「それじゃ、いただきまーす」
そいつが手を合わせて聞き慣れない呪文を唱えたから、俺はくびをかしげた。
「食事の前はね、『いただきます』っていうんだよ。なんかね、命を頂きます、ありがとうって意味らしいよ」
いのちをいただきます。そんな殊勝な食事にありついたことはなかった。見世物小屋でのメシは欠けた茶碗に玄米を炊いたもの。それから菜っ葉が浮いている薄い汁。それだけを手づかみでガツガツ食べた。檻を出た後は言わずもがなだ。石を投げられ、邪険にされ、なんとか食いつないできた。
いま俺は手の中のクワの実を存分に見つめている。明るくなってきた天からの光でやわらかく照らされたそれは、たしかに命の象徴として俺の前にあった。
「……いただきます」
俺はクワの実をしっかりとかみしめた。美味かった。今まで食ったどんな料理よりも。こんな風に、普通に、同じ人間として扱われることがどれだけ幸福で幸運か、味わいながら食べた。隣のその人が俺を対等な存在と認めてくれたことが、なによりうれしかった。俺はこの人の前では角を隠すことも、無駄飯食いと罵られることもないんだ。それがどれだけ安心できることか。
気がつけば雨はやんでいた。
洞穴の外に青空が広がっている。空気は洗い清められたように澄んでおり、どこかで鳥のなく声が聞こえた。その人が立ちあがり、背伸びをした。
「……帰るのか?」
「うん」
「……そっか」
とたんによくわからない気持ちが湧いて俺へ絡みついた。寂しいという感情なのだと、後になって俺は知った。
「名前言ってなかったよね。私は百華っていうんだけど、あなたの名前は? どこ住んでるの?」
どう答えていいものやらわからず俺はうなだれた。ないものはない。俺は正直に答えることにした。
「……その、どっちも、なくて」
顔から火が出るとはまさにこのことだ。俺は宿無しの食いつめもの。相手はいいところの出。きっとこれが最初で最後のふれあいなんだろう。そう思うと俺の胸はカリカリと削られ、鼻の奥がツンとしてきた。この人が、この人だけが、俺をまっとうな人間としてあつかってくれた。そのことをきっと忘れない。明日からは仕事を探そう。まだ子どもの身で何ができるかわからないけれど、水くみでも牛追いでもなんでもしよう。俺がいっそ悲壮なまでの決意をした瞬間、百華は俺の手を握った。サラサラして柔らかくて温かい手だった。
「じゃぁ、慧ってどうかな?」
「けい?」
「えーとね、さといとか、かしこいって意味!」
けい、けい、慧……。俺は何度も舌の上で新たな名前を転がした。あんまり御大層で、俺なんかにはもったいなく感じられたが、百華が俺をそう呼ぶのならそれでいいと思った。
「うん、慧っす。よろしくおねしゃす」
「今日はどこに泊まるつもりなの? この洞穴?」
「……うん」
「風邪引いちゃうって。とりあえずウチにおいでよ、けーちゃん!」
「わ、わ!」
百華は笑顔のまま俺を引っ張っていく。驚きながらも、俺は喜んでいた。手を握ってもらうのも、一緒に行けるのも、うれしいという感情なのだと、その時の俺はまだ何もわかっちゃいなかった。たとえばこの胸に灯ったぬくもりの正体とか。たとえば空をゆく鳥の存在とか。たとえば道の両面を埋め尽くす植物の名前だとか。
だがしかし百華が俺へ名を与えてくれたように、俺もこの世界を俺なりに定義していこうと思う。後ろを向いてばかりいた俺だからこそ、前を向いて行こうと思う。だいじょうぶだ、百華がいてくれる。この手のぬくもりがある限り、俺はどこにいようと「慧」でありつづける。俺が俺を定義し、この名に恥じぬ存在になろう。まずその一歩として、この両脇に生えた花を名付けてみよう。
この雨に濡れた美しい大粒の花の名は、たぶん紫陽花というのだ。