SS詳細
銀色の雫、静かな旋律
登場人物一覧
ぽつぽつと降り続ける雨が、瑠藍の髪に触れ、肌に触れては滑り落ちていく。水気を吸った衣服は段々と重さを持ち始め、瑠藍の動きを鈍くしていく。
晴れていたから折角遠乗りに来ていたのに、今ではすっかりこの天気だ。見晴らしのよく綺麗な場所を眺めていたはずが、それも十分に楽しめなくなってしまった。
雨は、嫌いではない。だけど川の水は濁るから、水の中を移動するのはできなくなる。かといって地面を歩こうとしても、ぬかるんで歩きにくい。それに、歩いた場所に点々と跡をつけていくことになるから、厄介だ。
足跡を残して帰るなんて、追いかけてくれと言っているようなものだ。故郷に厄介な敵を招くことになりかねないし、少しでもそんな可能性を作ったものなら、何を言われるか分かったものじゃない。
「子どもの頃みたいに、外に出るななんて言われるのは、うんざり」
瑠藍は一族の中で、一番色素が薄い。水中に隠れるために深く暗い色をした者が多い中、光にかざせば透き通るような、虹のような色の尻尾を持って生まれてきた。
人目を引くそれは、皆の不安を煽ったようだった。敵に見つかってはいけないからと、危ないからと、外へ出向くことを許してもらえなかったのだ。
次兄の二哥はこっそり連れていってくれたけれど、今ではそんなことも願えない。だから自分の足で、外の世界を踏みしめるのだ。
この天気の中帰るくらいなら、野宿をしていったほうが良い。鍛錬に来たということにしてしまおう。そう思って近くの洞窟に馬をとめ、剣を携えて雨の下に戻る。
空の色は相変わらずで、しばらくの間天気は変わりそうにない。雨を吸い込んだ髪も衣服も肌に張り付くけれど、この冷たさはどこか心地良い。
ぬかるんでいる地面で、少し慎重に足を踏み出す。足場が悪いことは否めないが、滑りやすいという程でもない。これなら、この周辺に現れるモンスターくらい倒せるだろう。
天気が悪いときの戦闘に慣れるのには、いい機会だ。
敵を見つけては、剣を振りかざす。
抜き身の刃に雨粒が当たるたび、銀色の水滴が跳ねる。空の様子を映して鈍い色を放つ刃に、静かに光を添えていく。
交わる金属の音。再び繰り出された斬撃。そして、地面に崩れ落ちる敵。
広い世界を歩いていくには、身を守れるようにならなければならない。どこにでも行けるようになるためには、どこに行っても咎められないようになるためには、力が必要なのだ。
だから、強くなりたいのだ。
ふっと息を吐くと、身体の奥底から研ぎ澄まされていくような気がする。心の動きも身体の動きもひとつに合わせて、剣を握る手を操っていく。そうして放たれた銀色の一撃は、寸分違わず敵の心臓を貫いた。
辺りを見渡すと、敵の気配はなくなっていた。どうやら、あらかた片付け終わったらしい。
ゆっくりと息を吐き出すと、束ねられていた神経がほどけていくようだった。剣を収め、睫毛を縁どる水滴をぬぐう。
こうして己を鍛え続けて、今よりもずっと多くの場所を歩けるようになればいい。いや、なるのだ。
そうしていれば、二哥のことも何か掴めるかもしれないのだから。
ああ、そうだ。この前会ったあの人。彼が二哥に似ているのだ。
姿も似ているし、趣味も似ている。それに時々、二哥と瓜二つの霊が重なって見えるのだ。二哥の手がかりがあるように思えるのだが、当の彼は何も覚えていないという。
これ以上の追及もできないし、かと言って無関係とも思えない。血縁かもしれないと思うと、彼とどう付き合えばいいのはなおさら難しくなる。
いずれ、本当のことが分かるだろうか。彼との付き合い方も、それまでに掴めていればいいのだが。そう思いながら、顔に張り付いた髪をそっとよける。
さあ、野宿の準備をしようか。雨の中、足を踏み出した。
***
雨が降っているせいか、図書室を訪れる人は普段より少ない。本を濡らさないようにという配慮なのか、雨の中荷物を増やしたくないという気持ちなのかはともかく。メモをとるだけに留めたり、借りた本を持ち帰らずに、帰る前に返却したりする人が多いようだ。
そうなると、書架の整理やレファレンスにより時間を割けるようになる。ざあざあと降りしきる雨の音を片隅で聞きながら、セスは本を丁寧に扱い、訪れてきた人たちの要望に応えていく。
「気分が晴れるような物語ですか? そうですね、こちらの作者ですと透明感のある爽やかな作品が多いですよ」
対応をしているときの表情は、あまり変わらないままだとは思う。ただ、話す相手が普通のひとたちだから、声色を優しくしている。
「レポートの参考資料ですね。それならこちらの棚を」
希望ヶ浜学園の図書室の司書。その役割は、仮初のものだ。それでも、人の要求に情報を伝えることで応えられるのだから、この職は気に入っている。
多くのことを知り、それを活かしていこうとするのは、何も司書だからというだけではない。自分の作られた理由が、関わっているからだ。
知識は力になる。それを守り、活かしていくことも、大きな力になる。自分はこの力で星の標を読み解いて、伝えなければならない。それがこの自分に求められている役目。
ああ、なのに。自分は、あれには対応できなかった。
あの時、目を覚ましたばかりの彼女は、ひどく困惑したようにこちらを見ていた。怒りにも似た怯え、驚きのような悲しみ――あれはそう表現するのが適切なのだろう――を浮かべて、こちらの胸ぐらを掴んだのだ。
『どうして貴方が二哥の躰を持っている!? 二哥に何をした!』
何のことか分からなかった。だけど心当たりも無ければ否定するだけの材料もない。それを告げ、よくよく話を続けると、彼女の勘違いだということが分かった。セスの製造年が、亜竜種の寿命にそぐわないらしい。ならばセスに瓜二つの霊は、きっと祖先だろう。そう彼女は納得していたが、真実が掘り起こされたわけではない。
セスには、彼女の言う霊が見えない。それに、自分の中心となっている素材に、亜竜種が使われている確信もない。だから彼女が求めている、彼女の兄の情報もセス自身の情報も何一つとして差し出せなかった。彼女に申し訳なかったし、このままでは役目を果たせない。
知識を集めなければ。
数多くの媒体。数多くの知識。それらを集めて飲み込んで、自分の中に組み込まなければ。そうして星が示す時が来たら、彼女に伝えよう。彼女の知りたいことも、自分たちの不思議な間柄のことも、すべて。
「ねえ、この本探しているんだけど」
「ああ、その本は、ここの棚に」
「ありがとう」
何となく、首元に手を伸ばす。ストール越しにコアの感触を確かめて、何事もなかったように手を降ろした。
本をいくつか抱えて、図書室の中を移動する。窓際を通りかかったときに外を眺めると、雨足が弱くなり始めていることに気が付いた。
確か今日の予報だと、これから降る雨は穏やかなものだったはずだ。外の様子から見ても、その通りになるのだろう。
「あの、セスさん。少しお尋ねしたいことが」
窓の外から視線を外し、声の主の元に向かう。
セスのたてる小さな足音に紛れて、雨音が不思議な旋律に変わっていく。うっかりすると忘れてしまいそうなそれに、セスは時折耳を澄ませた。
おまけSS『雨上がり』
夕方になって、晴れ間がのぞいた。青い空は次第に広がって、その色が橙になるころには、重たい雲はすっかりどこかに消えていた。
昼間に来られなかった人たちや、授業が終わった学生たちがぽつぽつと図書室を訪れ、段々と人が増えてきた。本の貸し出し、返却。それからレファレンスへの対応。先ほどよりあわただしくなってきた。
今日は、もう気温は上がらないだろうが、湿度は下がってくるはずだ。所謂過ごしやすい天気に近づくだろう。
この自分に過ごしやすさが感じられるかはさておき、後で外に出てみようか。そう口の中で呟いて、セスは本を抱えて歩き始めた。
***
夜になってようやく、雨があがった。
焚火の前に座りながら、瑠藍は濡れた靴や服を乾かす。靴についていたはずの泥は砂に変わり、こすれば地面に落ちていく。
遠乗りを中断せざるをえなかったのは残念だったが、収穫はあった日だった。それに明日の朝、しずくのついた草木が陽光に照らされているのは見物だろう。
こうして今日を振り返って、明日のことを考えていると、自分の足で世界を踏みしめているという実感が湧いてくる。
より強くなれば、もっと広い世界を見ることができるのだ。そう思うと、何だか胸が弾んだ。