SS詳細
もう迷わないし、離さない
登場人物一覧
●
痛みがわかちあえたのならば、どれほど素晴らしかったことだろう。
愛しいひとの身体に傷が付くのは耐えられなくて、咄嗟に庇ってしまった。
それが例えあなたを怒らせることだと解っていても――
「――――ッ、孝!!!」
弦さえ。弦月さえ生きていてくれるのならば――なんだって、どうなったって構いやしない。
●
なんてことない依頼のはずだった。
思い返せば、弦月はそう考えるだろう。
きっとやり遂げることが出来たし、出来なかったのは自分自身のミスで失態にほかならないと。
二人だからと慢心していたのかもしれないし、油断してしまったのかもしれない。
それでも、きっとできると思ったのだ。間違いではなかったと、信じている。
ただ攫われた子供を助け、敵を倒し、帰る。適切かつ適正帯の依頼。そのはずだった。
幻想外れにて、子供が何人も立て続けに居なくなる。そんなよく出来た噂話。
その実態を調査するべくローレットから派遣されたのが二人だった。情報屋の事前の調査によれば、おそらくは盗賊たちが子どもたちをさらっているのだろうと。ならば綿密な計画が必要とされるだろうことも織り込み済み、しっかりと時間を掛けて計画して。
本来ならばローレットで相談すればいいものを、二人だけだからと共に暮らすマンションで地図を広げて毎夜話し合ったのはそう遠い記憶ではない。少しずつ汗ばんでいく季節になるからと製氷機から氷を取り出して、ガラスのグラスにコーヒーを注いで二人で分かち合って。クーラーを付け、付箋や位置情報の記載がされた用紙とにらめっこしながら、作戦を立てたのもいい思い出だと思う。
いつぶりだろうかと思わず吹き出したカラーペンでのマーキング。ノートを使っての作戦の組み立て、確認。
「……なぁ、弦」
「ああ、おそらく……」
どうしようか。こうするのは? 俺もそう思ってた。気が合うな。
なんて、繰り返した言葉を数えて。そうして声を、言葉をかわす度に。言葉を交わすほどに。また貴方を好きになる。
案外字がきれいなんだよな、とか。消しゴムで苦戦してて可愛いな、とか。そんな些細で、どうだっていいこと。だけど特別で、きっとこの世界においては自分以外の誰もしらないこと。
(……はぁ、参った)
と考えたのは誰だろう。きっとどちらもだ。お互いが愛おしくて、たまらないから。
相手は命がかかっているというのに、なんて悠長で失礼で不謹慎なんだ。とは自覚しているのだけれど、ときめく胸ばかりは死なない限りはどうしようもない。恋は熱病で盲目で、付け足してしまうならバッドステータス。だけれどもその身を焦がしてしまうのだ。
二人共考えていることがおんなじなんだから、きっとこの依頼はうまくいくだろうなんて確信めいた予感を抱きしめて依頼へと向かう。間違いなんかない、と決めつけることはできないけれど、なんとなく大丈夫な気がする。でもそういうときって七割型危ないんだ。
きぃ、と錆びついたランタンが音を鳴らす。
古ぼけて時が止まってしまったかのような洋館の扉を押し、ホコリのつもったレッドカーペットを進んでいく。
「どうしたものかな……」
「手分けするのはまずいだろうな。根気強く探すしか無いだろう」
「だな」
お互いに顔を見合わせ頷き進む。それだけのことが孝臥にとっては幸せだった。
(……このまま、のんびり部屋の内見気分で楽しめたらいいんだがな)
はぁ、とため息をつく。そうは行かないのが依頼だ、というのは重々承知しているつもりだけれど、折角の二人きりでのお出かけなのだからそんな都合のいい妄想をしてしまったりしても少しくらい甘やかしてくれたのならどれだけよかったか!
賃金に報酬に色々と貰えるのだからやはり気を引き締めなければいけないわけで。となると頑張らないわけにも行かず、そしてきっと自分とは違って邪な妄想も感情も抱いていないだろう同居人は、真剣に室内の観察をしてみたり、敵の気配がないかを探ってみたり。じいっと背中を見つめてみるが、そんなことには気付く素振りもなく熱心に依頼を遂行しようと努力している。
(……はぁ)
やはり舞い上がっているのも浮かれているのも己だけなのだから、切り替えはきっちりしなくてはならない。片道はデートのようなものだったのだから、それで万々歳じゃあないかと己を納得させて。ホコリの積もり具合や扉に残された痕などなど、犯人の手がかりらしきものと子供の捜索を同時並行で行っていく。
うーんうーんと呻いていた孝臥の背を見ながら、やれやれと肩を竦める弦月。
熱い視線が飛んできていたのは痛いほど理解しているがきっと反応しないほうがいいだろうと判断してそれとなく探索を行っていた。つい熱心に探してしまったと思えば、急にため息を吐いて落ち込みだすものだから流石にどうしたと声をかけそうになるのをぐっとこらえたほどだ。
(なんだ……何か悩んでるのか?)
と、心で騒ぐのは自由だけれど、結局のところ己は手を出さないのだ。そうしたほうが面白くて、可愛い孝臥の顔がたくさん見られるから。性格が悪いというのはもう充分理解している。あとはいつ両思いだよと告げて驚かせるかだ。まぁきっと、そうすぐにやってくるものではないのだけれど。
依頼を頑張るのだって、なんてことないふりをして孝臥にアピールをするため。頼もしいところを見せて、目移りさせないようにするため。だからきっと意識してくれているのだろう。だけどため息なんて!
思い当たるフシはないのできっと自責の念に駆られているのだろうが、やはり何か励ましてやりたくなるのは惚れた弱みというやつなのだろうか。つくづく己も孝臥にだけは甘いことを理解しているので、なんともいい難いところではあるのだが。
「この部屋は特に手がかりはなさそうだな」
「だな。次の部屋に行くか」
とっくの昔にわかりきっていた事実だけれど。孝臥の肩をつつき、弦月は扉を指し示す。孝臥も頷いて、弦月の背中に続いて。あまり話したりも出来ない都合上、やはり潜入というのはお互いをよく知っていなくてはいけないな、と思う。だからこそ二人にとっては最適のバディで。何かを盗みに来たような気持ちで部屋を漁るのは、案外悪い気持ちではなかった。勿論盗みを正当化するわけではなくて、宝探しをしているようなそんな気持ちなのだ。そういったごっこ遊びをした幼少期ではなかったけれど、それでも二人にとっては互いが特別だ。
とまぁこんな風に何部屋も回っていけばどの部屋が怪しいかというのも大体は目星がつくというもので。
「……さて、どうしたものか」
「孝はどうしたい?」
「俺は……そうだな、早く子どもたちを家へ帰してやりたい」
「なら決まりだな。今日片付けてしまおう」
「でも、それじゃ弦が無理をすることになる」
「何言ってるんだ? 二人なんだから孝も無理はしてもらうぞ、俺ひとりじゃあ太刀打ちできないかもしれないしな」
「それはもちろん、そのつもりだが、」
「ならそれでいいだろう。決まりだ。軽く作戦を立てていくぞ」
有無を言わさぬ弦月の迫力に気圧されたのか、はたまた。それは本人のみぞ知るところではあるのだが、それはそれとして救わねばならないものがあるのもたしか。子供、と聞けば思わず身体が動いてしまう孝臥の気持ちを、弦月は誰よりも理解しているつもりであったから。だからこそ、それが孝臥の願いであるならば厭う道理は何一つない。幼少期に落ちた影の影響を強く理解しているのは、弦月よりも孝臥だから。
「おそらく、あと調査してない図書室に居るだろうな。だが、それにしては静か過ぎる」
「……ああ、俺もそう思う。それに順調過ぎる。これは罠だと想定するべきだろうな」
「だな。だから取り敢えずは子供の保護を優先して、人質に取られないようにして戦う、ってのが一番いいと思うんだが、どうだ?」
「ああ。弦が考えたのならきっと上手くいくさ。それでいこう」
手放しの信頼を見せられては失敗などできようもないというもの。想い人の前であるのならばなおさらに。
「それじゃあ行こうか、孝」
「頼りにしている」
「任せろ。頭を使うのは嫌いじゃない」
いつも通りの軽口。やりとり。それも一歩足を踏み出せばすっと消えていく。
此処から先は命のやり取りだから。下手な茶化しを入れている余裕があれば、己の首を狙う敵を殺さなくてはならないから。
「……」
「……」
索敵も多くなることだろう。これまで普通に会話ができていたことのほうがおかしいのだ。
手での合図は祖国、否、元いた世界でも使ってきたものの通りに。
(……待機)
己の心臓の音。それから、呼気。それはひとつふたつなどではない。
耳をすませば聞こえてくる。荒い呼吸音が示すのは――
(泣いている?)
はっ、と顔を上げる孝臥が速いか、それに気付く弦月が速いか。
待てを示していた手のひらは、即座に変わっていく。
(突入!!)
緊迫、均衡、進撃。
戦いの場に置いていつも感じるそれは嫌いじゃない。
ただし今回狙うべきは撃破ではない。保護と、対象を連れた逃走だ。
(狙うのは……子供だ)
「敵襲だァ!!!!!!!!」
野太い男たちが上げるいくつもの鬨の声を切り分け気絶させ、二人は奥にいる十数人の子どもたちに声をかける。
「……もう大丈夫だ。俺たちに着いてきてくれ」
「ただし大きな声を出したりしてはだめだ。見つからないように、協力してくれ」
子どもたちもきっと、望みこそしていないだろうけれど、そういった脅しにも似た状況ですべきことを理解しているのだろう。
反抗せず。大人しく従う意志を。姿勢を見せればいい。
そうすれば相手も下手に危害を加えるようなことはしないから。
(ひどい傷だ……)
きっと奴隷として質に入れるつもりだったのだろう。幻想の裏では奴隷が売買されていても珍しくはない。実際にイレギュラーズが奴隷を保護した事例もあるくらいなのだから、至って『当たり前』のことなのだろう。けれど、こんなにも生々しい傷跡を見てしまっては、保護するイレギュラーズの気持ちもわかってしまう。
(不甲斐ない……)
己よりも小さい子どもたちが、ただ一方的に暴力を振るわれている。そんな状況を知らず、己はぬくぬくと飯を、風呂を、睡眠を行っていたと考えれば、己がいかに無力化を味わうというものだろう。
唇をぎりっと噛み締めた孝臥の額を、弦月が指で弾く。
(……そうだ、考えたって仕方がない)
これはあくまで依頼なのだ。
自分にどうこうできるような問題ではないからこそ。手におえないからこそ依頼をされるのだ。
そして自分たちは今その依頼を受けた。ならば果たすべきは依頼の達成。奴隷となった子どもたちを保護することは依頼に含まれていても、奴隷となった子どもたちのすべてを保護して衣食住を提供することまでは依頼のオーダーには含まれていないのだ。つまるところ、ここで子どもたちを助けて依頼主の元へ連れて行っても、彼らが幸せになる保証もないのだ。
「…………なぁ、弦」
「ん?」
「俺は弱いな」
「……そうかもな」
否定はしない。弱さがあるということは、他人に情けをかけられるということだから。そしてそれは決して悪いことではないし、むしろ誇ってほしいとすら思う。もしも孝臥が危険な状況にさらされた時、きっと弦月は何に止められても孝臥を危険な目に合わせた対象を追い詰めるだろう。たとえそれが自分であっても。
(……さて、無事に出られるかは勝負だな)
「いいか。ここからは窓で降りる。裏門から出て、そのまま走るぞ」
「……」
頷く子どもたち。その中の何人かは、恐怖が顔ににじみ出ている。
「……怖い子は、俺達がおぶるから。大丈夫だ」
「おい、孝……」
「大丈夫だ。その方が早いだろう?」
「はぁ……まぁ、そうだな。とりあえず、安全な部屋に行くぞ」
言うが早いか進むが早いか。安全に来たここまでが証拠だとでも言うように、一同は進んでいくはずだった。
「居たぞ、逃がすな、追え!!!!!!」
「っチ、まずいな。走れ!! 孝、先導してやれ、俺は一旦足止めする!」
「了解した!」
長い黒髪が揺れる。すれ違った時には、同じシャンプーを使っているはずなのに、まるで違うもののような、ただ孝臥だけの匂いが鼻をくすぐって。
「うおらァッ!!!」
地に向けて大きく金槌を振るう。地割れのような振動とともに、目の前の通路の床を砕いていく。柱を叩き割り、これ以上無い足止めをお見舞いして。
(……さて、追いかけるか)
「降りれる子は俺のところに飛び込んでこい。怖くない、俺が絶対キャッチしてやる」
「怖い子はまだ此処に居ていい。俺がおぶってやるからな」
逃げるためには少々の危険もつきものだとはいうが、まさかこんなにも子供が多いとは思っていなかった。二人で庇うには少々厳しいと判断したのは正しかっただろう。しらみつぶしに探した部屋も役に立ったというもの、広大な屋敷の中から逃げ出すにはうってつけのなんてことない部屋は沢山あるからだ。
けれど。
事件は起こるべくして起こるものだ。
弦月は視界に違和感を覚え、もう一度孝臥の方へと駆け寄った。
「!!!」
弦月の視界に写ったのは、最後の子供と共に降りる孝臥。それだけではなく、その背を狙う敵。
先程蹴散らした筈の敵のひとりだろう、しつこく追いかけてきたのか。思わず怒りに体が震える。
しかしそんなことを言っている場合ではない。このままでは、孝臥が危ないのだから。
「おい孝ッ、後ろ!!!」
「ッ?!!」
弾丸が孝臥の頬をかすめる。ただそれだけならばよかったのだ。けれど、子供を抱えた孝臥は不安定なまま二階から落下していく。
弦月は走る。受け止めることが出来るから。けれど。孝臥はそれをよしとしなかった。
そうすれば二人分の重みを背負うことになるから。必然的に、弦月が怪我をする可能性が上がるから。
だから。孝臥は静かに首を横に振った。
「――――ッ、孝!!!」
静かにしろといったのは誰だったか。
ふと笑った孝臥。腕の中にいる子供をぎゅっと抱きしめ、そのまま受け身の姿勢を取った。
「…………っ、!!!」
「おい孝、立てるか、大丈夫か?」
「ああ……腕が痛むが、大丈夫だ。それよりも……逃げなくては」
「……」
不服そうな顔をした弦月は。心底深い溜め息を吐いて、子供たちの先を行くように走り出した。
これが、昨日までのこと。
●
「全治一ヶ月は確実です」
「はぁ」
どこか他人事にすら思えてしまうのはきっと、それを誇らしく思っているから。勿論今だって傷口は痛むしたっぷりと塗り込まれた薬には涙目になってしまうけれど、そんなことすら許せてしまうような気がするのだ。
この傷は、大切な人を護り抜いた勲章なのだ。そう思うと、なんだか嬉しくなってしまう。
もちろん自分はマゾではないが、けれど大切な人を護り抜いた。しかもこの手で。それはとても誇らしくて、嬉しくて、愛おしい傷跡に思えるのだ。
そんなことを言ってしまえばきっと、優しい彼の表情は曇ってしまうだろうけれど。今は痛むこの腕すら、愛おしい。どうしたってこんなに誇らしく思えてしまうのかわからないけれど。生きているのだから、それでいいじゃないか。
なんて考えていた。の、だが。
「……ああ。おかえり、孝」
「ただいま、弦。心配をかけたな……すまない」
「いや、俺はいいんだが。……その腕」
「ああ、これか? 一ヶ月はかかると言われたな……だが大丈夫だ、日常には差し支えないように努力する」
「……」
料理を中断して走ってきた弦月の心をきっと孝臥は知らない。どれほど心配していたかも。どれほど苦しかったかも。だから笑う。
けれど。そんな孝臥の素振りを見る度に、弦月の心はざわつくのだ。
「……なぁ、孝。ちょっといいか」
「? ……ああ」
握られた手首が熱い。どうしてだろうか。熱でもあるのだろうか。
こうしてちゃんと生きているし、怪我だって治る見込みもある。なら、先日の依頼になにか問題があったのだろうか。
思い当たる心当たりがない。孝臥は思わず表情を曇らせた。
「なぁ。なんであの時、俺に飛び込んでこなかった?」
「だって、そうしたら弦が怪我するだろう」
「試してもないのにそんなこと、言い切るなよ」
「二階から何人もの子供たちを運搬してるのに、大人が二人共怪我したら誰があの子達を護るんだ。俺が残るよりも弦が残ったほうが強いし、それに、俺は弦に怪我をしてほしくない」
「だからって、孝が怪我をしてもいい理由にはならないだろう」
「弦がけがをするのは、嫌だ。弦を護るためなら、俺はどうなったってかまわない」
「は?」
低い声がリビングを支配する。
ぐっと握られた拳が机へと向かい、机はみるみるひび割れていく。
「……俺だってな、孝に怪我はしてほしくない。だがな、俺という犠牲ありきで手に入れた平和なんざなんのカチも持たないことは孝が一番良く解ってるだろう。それは俺がお前だったとしても一緒なんだよ、孝。お前がお前自身を無下に扱っていい理由にはならない」
「…………」
「わかってるのか?」
「……俺は」
「俺は、俺の選択は間違ってないと思う」
断言する孝臥に、ため息を吐いた弦月。立ち上がると、自分自身の部屋に返って。そうしてから数分後、荷物をまとめた弦月はリビングへと走った。
「なぁっ、弦、おい、」
「……俺、ちょっと頭冷やしてくる。だからお前も少しは考えてくれ、俺の言葉の意味」
傷口に響かないように、けれど乱暴に振り払われた腕。弦月の背中を、孝臥は追うことが出来なかった。
弦月を傷つけてしまった。苦しめてしまった。もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。その苦しみのほうが、大きくて。みるみる孝臥の心を支配していく。
(……嫌われた?)
へたり、と足から力が抜けていく。
今までも些細な喧嘩はなんどかしたことがあったけれど。今回ばかりは、どうしたらいいのかわからない。
二人共が好きな菓子屋でケーキを買って仲直りするわけにもいかない。
代わりに家事当番を変わることだって出来やしない。
弦月は荷物をまとめて出ていってしまった。その事実が悲しくて。苦しくて。
(……でも、弦がこんな姿になったら、俺、耐えられないんだ……)
ぼろぼろと涙がこぼれる。
でも、それを拭える手は片方しか無い。
ひび割れた腕の骨がじくじくと痛むようで、でもそれよりも胸のほうがずっと痛い。
腕が折れた時なんかよりも、ずっとずっと。
(……そうか、解ってたけど。俺、失恋したのか……)
どうすればいいのかわからない。けれど今はその背中を追いかけると一層溝が深まるような気がしたから、追いかけることも出来なくて。
そういえば弦が好きな店なんかひとつもしらないな、と気付いて。それがまた悲しくて泣けてしまって。結局その日は廊下で眠った。
廊下で眠ったのは流石に良くなかった、と気付いたのは起きてからひどく身体が痛んだから。でもどうしようもないのだ。彼の居ない人生に意味はないから。
だからずっとここで犬のように待つことしか出来なくて、ああ、依存していたんだなあなんて思い知らされるのが一層辛くて。
「弦……」
ここに居るわけじゃないのに、会いたくて 会いたくて仕方がなくて、涙が止まらない。
普段から泣いているとよく手を差し伸べてくれたっけ。それから、大きな手のひらで乱暴に拭ってくれるんだ。ハンカチがあればハンカチで、なかったら袖で。
ああ、思えばずっと迷惑をかけてばっかりだったんだろうな。なんて考えて、また寂しくなって。
せめて弦が、もしも万が一戻ってきてくれるのならば、一番に出迎えておかえりといいたい。だから今日も玄関で寝よう。
昨日の反省を活かして布団を引いて。けれど弦の居ない部屋は廊下であろうと広すぎて。まるで心に穴があいたかのように寂しくて悲しい、たったひとりだけの時間が流れていく。
●
流石に心配をかけるのは良くない。
そう思って、2日ぶりに家の扉を開けた弦月が目にしたのは、愛しい人が布団を広げ玄関で熟睡する姿。
得も言われぬ喜びと不安の両方が襲ってくる。きっと出迎えようとしてくれていたのだろうという、誰かに対してマウントをとってしまいそうなほどに嬉しい事実と、こんなところで寝かせてしまうほどに追い込んでしまった己への怒り。
(参ったな、これじゃあ素直に喜べない)
どうしたものか、と頬を掻く。とりあえずこんなところで寝かせておくわけには行かないので、孝臥の身体を姫抱きにして孝臥の部屋へと連れて行く。
よっぽど疲れるなにかがあったのだろう、不安定な姫抱きにも孝臥はぴくりともせず、ただぐっすりと熟睡し続けるのみだった。
「……あれ、俺……」
「玄関で寝てた。何してんだよ……」
「……弦?」
「なんだよ」
「ほんとに、弦か? 夢じゃない?」
「夢じゃねえよ……ほら」
いつの間にか自室に寝かされていた。傍らにある愛しい人は都合の良い幻覚なんじゃないかと勘違いしてしまうから、己をなんとか律してみる。
けれど。ぼろぼろになった涙腺は、やはり安心すると、また壊れてしまうようで。
「よ、よかった……もう、もどって、こないかと……」
「お、おい、泣くなよ……」
慌てて、孝臥の頬をとめどなく伝う涙を両の手で拭う。
その手のひらの温度に酷く安心するのは薄情だろうか。だけど、こうやって己のみを案じてくれているのはありがたいし、そして何より幸せだ。
「俺もどうしたらいいのか、分からなかったんだ。孝の言い分だってわからないわけじゃないが……だけど、少なくともあの瞬間の俺には理解できなかった。それに、俺はずっと孝がどこかにふわっと消えてしまいそうで心配なんだよ」
「俺が……?」
未だ止まらない涙を、今度は隣りに座って肩を抱き、とん、とんとあやして。子供を慰めるようだ、とは思ったけれど、幼馴染のような関係なので今でもずっとお互いのことが子供に見えているのかもしれない、なんて考えて。
「……そうだよ。悪いか?」
「いいや、悪くはないけど……俺は、弦がいるところにしかいないから、大丈夫だよ」
「……は、さらりと言ってくれるじゃねえの」
まるで、心配していたこと全てを吹き飛ばすかのような孝臥のことばに、思わず弦月は吹き出して。それにつられて、孝臥もふはっと笑みが溢れ出す。
「なぁ、弦」
「ん?」
「……その、すまなかった。俺は、弦の気持ちまで蔑ろにしていたんだな」
「ああ……わかったならいいんだよ。もう次はしてくれるなよな? 宿探し、すっごく苦労したんだ」
「はは、善処するよ:
「再発防止に努めてくれ」
「わかった」
やいやい、わいわい、和気あいあいとしたやりとりも、ようやく仲直りができたからこそ。当たり前の日常のかけがえのなさは、失ってからこそ気付くものだとはよく言うけれど。実際にその身になってからこそ、その言葉の重みがしっかりわかる。
「……そうだ、ケーキ買ってきたんだ。俺達が好きな店のやつ」
「あそこのか? ……で、でも」
「いいんだよ、仲直りの口実の一つになればいいかなって思って買ってきてたんだから……」
「……じゃあ、遠慮なく。何買ってきたんだ?」
「今日は奮発したんだ、ショートケーキにガトーショコラにフルーツタルトに、あとなんだったかな」
「……だ、だいぶ買ったんだな」
「どこかの誰かがストレスをくれたもんだからな」
「し、しばらくは擦るつもりだろ!」
どうかいつまでも、二人で。なんて、願わなければ気が狂ってしまいそうなほどに。
この日々が特別でかけがえのないものだと、気付かずにはいられないのだ。