SS詳細
吼える竜達のパストラル
登場人物一覧
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朝焼けの茜に響く羊飼いの
夜の残り香と朝靄を宿した空気の中で黒い羊が草を食んでいる。
通り過ぎていく緑の丘陵地は牧歌的で、同時に酷く眠気を誘う単調さも持ち合わせていた。
シラスは馬車の手綱を握り直すふりをしながら欠伸をかみ殺す。
今日は暖かな日になりそうだ。
艶のある黒髪が風に遊ばれ、透き通った鳶色に輝く。
「御者、変わりましょうか」
リースリット・エウリア・ファーレルの穏やかな提案は子守唄のようにするりとシラスの耳に滑りこんだ。初夏の薫風と乙女の微かな笑い声。シラスは半ば頷きかけた頭を慌てて引き起こす。
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
シラスとリースリット。
二人はパヴロ・シャルトラン老の生誕祭へと向かう途中である。
事の次第はローレットに持ち込まれたシラスへの指名依頼が始まりであった。
疲弊した情報屋と煌びやかに飾り立てた伝令使が受付に現れた時から、もっと言えば緊急案件であると食事中にも関わらず強引にギルドまで拉致……もとい呼び出された時から幻想貴族絡みの案件だろうとシラスは察しをつけていた。
「警護ですか?」
依頼書には最低限の情報しか書かれておらずその精度も怪しいとしか言いようの無いものだ。
参加者も屋敷の見取り図すら与えられることもなく、当然質問など許されるはずがない。
思わず溢れたシラスの一言は独り言として黙殺される。
「畏れ多くも、我が主人であるエベニーザ様は貴様に『ナインベル荘』内へ入ることを許された。どこの血とも分からぬ野犬が伝統の宴に入り込むなど堪え難いが、主人の命だ。仕方あるまい。精々道化として励むが良い。ハハハ!!」
高圧的な伝令使の物言いにも、秘匿された情報にも、断るという選択肢が与えられなかった事にもシラスは怒りを感じなかった。
慣れた様子で柔らかい微笑みを作ると肯と目を伏せる。
「それは幸甚の至り。ご命令、謹んで承ります」
『ダンスパートナーの帯同:一名まで』
依頼書に書かれたその言葉を、策謀の眼差しでなぞりながら。
シラスは見た目通りの優男ではない。
殴られたら殴り返す。嵌められたなら嵌め返す。
勝ちに貪欲であり、名を上げる為の努力は惜しまない。それがシラスという青年であり彼の持つ強さである。
幻想貴族にとって「血」は何よりも優先される。
平民ならば傅いて当然従って然るべきという風潮が幻想の貴族社会では根強い。
それは幾たびもの国難を救った「勇者」相手でも変わらない。
それを堕落と見るか、好機と割り切るか。
シラスは後者であった。だからこそダンスの相手に彼女を選んだ。
信頼できる仲間の縁を手繰って呼び寄せた、貴族の懐へと潜り込む切り札。
幻想東部域は聖教国ネメシスとの国境近くに領土を持ち、その守備を担うファーレル伯爵家が二女。美しき黄金の髪を持つ乙女『紅炎の勇者』リースリット・エウリア・ファーレル、其の人である。
「パヴロ老の名には、少しだけ聞き覚えがありますね」
のんびりと詠うようにリースリットは呟いた。
膝の上で重ねられた嫋やかな手には調査ファイルも貴族年鑑も無い。彼女自身が書庫でありアーカイブであるからだ。
長い睫毛を伏せると、幼少の頃より蓄積してきた膨大な情報を丹念に精査して頭の中から拾いあげていく。
「政界を引退されて久しいですが独自の情報網をお持ちのようですし、何より政界で『長い年月を生き残った』と言うのは駆け引きの上手さを証明します。培ってきた発言力やコネクションも未だにご健在でしょう」
「確かシャルトラン家はフィッツバルディ派だったか」
「はい」
リースリットは頷いた。
「末も末ですが、血筋的にはそうなります」
貴族院の議席にも確か同じ家名があったはずだ。ブレイブメダリオンの授与式に参列していた貴族の中にいただろうか。
シラスは思案気に頬杖をつく。その思慮深い眼差しを見るに、眠気はすっかりと飛んでいったようだ。
「依頼人はエベニーザ・シャルトラン卿。父の生誕祭をパヴロ卿の隠居先『ナインベル荘』で行うとギルド・ローレットに伝えてきた」
「そのパーティー警護を、幻想の『勇者』であるシラスさんに頼みたい。そういうご依頼でしたね。何か気になる点はありましたか?」
考察の先を促す優しげなリースリットの言葉はまるで歴史の教師のようだ。シラスもそれに気づいたのか、苦笑めいた表情となる。
「一つは、今まで私兵の警護で済んでいたお誕生日会にわざわざ俺を指名した理由だ。
「はい」
「そしてもう一つは、リースリットの今夜の衣装だな」
「あら」
リースリットは緋色の瞳を瞬かせると微笑んだ。
「シラスさんのエスコート、期待していますね」
「あれだけ練習したんだ。必ず物にしてみせるさ」
突如として、緑の田園風景に似つかわしくない白亜の城が現れる。
「さて、どうなることやら」
シラスの呟きと共に、小さな馬車は黒い鉄柵の向こうへ消えていった。
●
本邸に近づくにつれ忙しない空気が顕著になっていく。
しかしながら大量の花飾りや白布を運ぶ使用人の足取りは軽い。
思ったよりも抑圧された環境ではないのかもしれない、というのが二人の感じたナインベル荘の第一印象であった。
「父上、お待ちください。貴族が庶民を出迎えるなど聞いたことがありませぬ」
そんな中、動き回る従僕をかきわけるように非難めいた男の声が聞こえた。
「少しくらい良いではないか。おお、そなたが勇者シラスか!」
玄関へと現れたのは恰幅の良い恵比須顔の老人である。
林檎色に染まった血色の良い丸い頬は、隣に並んだ中年男性の陰鬱な顔立ちを一層際立たせていた。
「遠路遥々よう来てくれた。そちらのご令嬢は……なんと!! ファーレル伯爵のご息女ではないか。そなたもまた『勇者』の称号を得たと聞いておるぞ」
現当主であるエベニーザ卿が「フィッツバルディらしさ」を彷彿とさせる存在ならば、パヴロ老は「フォルデルマン三世らしさ」を思い出す存在であった。あっけらかんとした物言いは駆け引きとは無縁に感じるが周囲を取り囲む黄金色の装飾の中ではすべてのやりとりが白々しく虚飾めいたものに見える。
「幻想を救いしフィッツバルディ派の勇者が二人も我が館を訪れてくれるとは。今日は何と善き日であろう。なぁ、エベニーザ」
「……左様でございますな」
同意を求められた現当主たるエベニーザは苦い顔から仮面めいた虚無へと即座に表情を切り替え、静かに頷いた。
息を吸う一拍分の呼吸をおいた後シラスは流れるように前へと進み出る。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。ご召喚によりまかりこしましたシラスと申します。パヴロ・シャルトラン様におかれましては本日めでたく誕生日を迎えられたとのこと。尊老のご健康と繁栄を、謹んで心よりお慶び申し上げます。こちらはリースリット・エウリア・ファーレル嬢、今夜のダンスパートナーです」
話の区切りを見つけたシラスは見事な一礼を披露した。それに合わせてリースリットもスカートの裾を持ち上げたカーテシーで挨拶をする。
見目麗しき二人の男女の仕草に、恍惚とした溜息や押し殺した黄色い悲鳴が漏れ聞こえた。仕事の手を止めて見に来た屋敷の使用人たちだろう。人が集まっている――俯いたまま、シラスは視線を奔らせた。隣のリースリットも探っていることを気取られぬよう視線を巡らせている。
今のところ異常は見当たらないと瞳で頷きあった。
「ほれ、礼儀を心配する必要など何処にも無いではないか。視よ、この実に堂に入った振る舞いを。同じフィッツバルディ派として鼻が高いわい」
カラカラとパヴロは笑ったが、エベニーザは無言を貫いている。
否、シラスとリースリットから忌々し気に外された視線が彼の内心を物語っていた。
「二人とも、そうかしこまるな。今日は内々の祝いじゃ。儂のことは気軽にパヴロ老とでも呼んでくれ」
「父上、流石にそれは」「お心遣い深く感謝いたします、パヴロ様。しかしながら」
するりとシラスが言葉を挟み込む。
「閣下の御名を私が親し気に呼ぶことでシャルトラン家の皆さまにいらぬ労をおかけするやもしれません。若輩者の放漫をお許しいただけるなら、ここは何卒、ご容赦いただきたく存じます」
「そうか……」
「父上、お戯れもその辺りで。勇者殿にも準備がありましょう。そろそろ部屋にお連れしませぬと」
しょんぼりとしたパヴロの前に進み出たのはエベニーザであった。
「それもそうじゃな。それではシラス殿、リースリット殿。また後で」
「着いてこい」
エベニーザが先導し、手を振るパヴロから引き離されるように玄関ホールを後にする。
真紅の絨毯にキャンバスのような白壁、磨き抜かれた黒檀の建具。
歩く度に軋む床の音から分かるように古い建物だ。
しかしながら丁寧に手入れされてきた旧邸ならでは味がある。
廊下に飾られた絵画には丘陵地や羊が描かれているものが多く、まるで小さな窓のようだった。
「ここだ」
通されたのは書斎であった。あまり使われていないのか僅かに埃の匂いがしている。
窓が無いために朝だというのに薄暗く、こもった蝋の臭いを誤魔化す為か香が焚かれていた。
「それで」
分厚い扉を閉めたエベニーザは睨みつけるような声を出した。
「貴様らはどこまで話を聞いた?」
「パヴロ様の誕生日を祝うパーティーの警護依頼だと、聞いております」
「そうだ。しかし全てではない」
シラスの前を横切ると、エベニーザは机の抽斗から一通の白封筒を取り出し差し出した。
「読んでも?」
頷いたことでシラスは白封筒から便箋を取り出し肩を寄せあうようにしてリースリットと共に覗き込む。
「パヴロ様への殺害予告ですね。日付は今日だ」
「そうだ。そして此れががギルド・ローレットに依頼し、詳細を伏せた理由でもある」
「この手紙の件をパヴロ様はご存知なのですか?」
「ああ、誰かの悪戯だと取り合ってもらえなかった。あの通り、父は物事を軽く考えすぎる節がある」
溜息とも呆れともつかぬ深い息を長々と吐くとエベニーザは陰鬱な顔をのろのろと持ち上げた。
「貴様らは腕が立つと聞く。特に勇者の称号を襲名せしめた者の中には身の程をわきまえず、貴族社会に潜り込もうとしている者がいるとな」
シラスは苦笑した。それが自分のことであると調べ上げたうえでシラスに依頼してきたのはエベニーザの方である。
「金銭的な報酬は期待するな。しかし、賊をとらえた暁には私個人の力が及ぶ範囲で手を貸してやろう」
「貴方への貸し一つ。それが今回の報酬、ということですね」
「品の無い言葉に直せば、その通りだ」
弱小ではあるがフィッツバルディ派。貴族に顔と恩を売っておく良い機会でもある。
「この手紙はどちらに落ちていたのですか」
リースリットが尋ねた。
「一週間ほど前に父の寝室の前に落ちていた。早朝、掃除をしていた新入りのメイドが見つけてな。父の誕生祝いの計画を立てるため私も数名を引きつれナインベル荘を訪れていたが私兵は賊が屋敷内に侵入したことに気付かなかった」
「屋敷周りの森に潜んでいる方々も、侵入には気づかなかったのですね?」
花のような声でリースリットは告げた。
屋敷を囲う森のなかに猟師を潜ませている事を見抜かれ、エベニーザは面白いほど目を泳がせた。
「……っ、そうだ。ゲームキーパーとして屋敷の周りの森には猟師たちを配置している。彼らは普段から森の中で生活をしているが、異変を感じた者はいなかった」
「ありがとうございます」
賢明なる淑女は微笑みながら礼を言った。
●
弦楽器の優しく甘い調べが、のびやかな雲を抱いた黄昏の空へと響き渡る。
パヴロ・シャルトランの誕生会は予定通り夕刻より開始された。
細かな泡沫を抱いた黄金色のワインを手にした客は羊の群れのように、あちらこちらにいた。
身内だけのパーティーと言っていたが少なくとも三、四十人はいるだろう。
白と黒のタイルが埋め込まれたダンスホール、黄金色の絨毯と壁紙に囲まれた談話室、そして季節の花で溢れる中庭が解放され、
パヴロの友人が集まったというだけあって参加者の年齢層は高く、足取りや動きはゆったりとしたものだ。
その中で若木のような瑞々しさをもつシラスの立ち姿はよく目立っていた。
一筋の乱れもなく撫でつけられた黒髪はこれから訪れる夜の色よりも深く、優美な身体の線に沿った濃紺の燕尾服には皺ひとつない。ホワイトタイを直す白い手袋は真珠貝のように白く、その襟にはパーティーの参列者であることを示す常緑の小枝が挿されていた。
見え隠れする懐中時計の鎖は金。ここにいるものは皆『黄金双竜』レイガルテ・フォン・フィッツバルディに忠誠を誓う者である。小物の中に金を用いるのは当然、他にも誕生日であるパヴロの長寿を願い枯れることの無い常緑を身につける者も多い。
(『持ち物で意思や派閥を表明する』って手法はどこも変わらないな。品にかける金額は違うようだが)
物憂げに伏せられたシラスの黒曜の瞳が持ち上がり、ざわめきに揺れる入り口を見た。
芳醇な葡萄酒の滝を思わせるクリムゾンレッドのドレスとヒール。
神々の宴で供される
天鵞絨の手触りにも負けぬ艶のある肩は薄絹の黒ショールに覆われ、胸元には金の台座に飾られた深い翡翠のブローチが輝いている。
耳元を飾る紅梅色の三つのリボンは気品のなかにも愛らしさを秘め、リースリットの妖精のように美しいかんばせに彩りを添えていた。
薄く化粧をほどこされた白い肌には柔らかな桃色が差している。ゆるやかに微笑む唇は月見草の色。
何よりも目を引くのが宝玉のような紅の瞳であった。シャンデリアと夕焼け空の光を取り込んだ赤が星のように瞬いている。
シラスは進み出るとリースリットに手を差し出した。白い手袋に包まれた手が花弁と水面のように触れ合う。
二人は比翼のように連れ添い、夕暮れの中庭へと歩いて行く。颯爽と並び立つ二人の勇者の姿は会場に咲き誇る大輪の華だった。
「綺麗だよ」
「ありがとうございます。シラスさんのエスコートもお上手ですよ。練習したかいがありましたね」
「どうかな、本番はこれからだ」
「最低二曲は踊りましょう」
「見られるのも練習、只管鍛錬あるのみ、か」
「はい」
微笑みあった二人は中庭に用意されていた乾杯用のシャンパングラスを取った。
「それでは皆様。お手元にグラスは行渡りましたかな」
涼やかなグラスの音が響きわたり、パーティーを取り仕切る現シャルトラン当主がタキシード姿で現れた。
その隣に立つふっくらとした笑顔を浮かべたパヴロ老がシャンパングラスを持ち上げると、倣うように会場の全員がグラスを掲げる。
「皆の者、今日は儂の誕生日によく来てくれた。あと何年こうやって皆の顔を見られるかは分からぬが、残された時間を心残りなく大切にしたいと思うておる。じゃから無駄話はこの辺りで切り上げ、乾杯しようではないか。――幻想の栄光に、乾杯」
「乾杯」
ボトルのコルクが開く音が響き渡り、待機していた楽団がファンファーレを響かせる。注目の波が引いたのを見計らい、リースリットは小さく声を出した。
「どうでしたか」
「殺意のこもった視線を幾つか感じた。まあ、リースリットと一緒にいるから嫉妬の視線かもしれないが」
「私も同じです。少し目立ち過ぎましたかね」
「折角来たんだ。これくらい見せつけてやらないとな」
衆目を集める為にあえて華やかな演出をした二人は、互いに気になった人物の情報を交換しあう。
「外からの襲撃と内からの暗殺。警戒するならばどちらだ?」
「後者です。そして賊は既に屋敷の内部に客として侵入している可能性が高いと思っています。もしくは……」
――もしくは、屋敷で働いている者が襲撃者か。
そう考えれば辻褄の合うことが多くなるのも事実である。
「パヴロ様に出す食事や飲料は、全てエベニーザの妻と毒味役がチェックをすることになった。ケータリング業者にも出入りの業者にも異常はなし。メイドや従僕にも確認してみたが贈り物にも異変はない。だが従僕の中に少し気になる奴がいてな。そちらの収穫は」
「訪問予定客の一覧を見せて頂きました。私が確認した範囲ではお客さんの家名と顔は一致しています。御用聞きの商人たちとのパーティーは後日別に開かれると言いますから、ここにいるのは純粋な貴族だけ、ということになりますね」
シラスはリースリットの記憶力に舌をまいた。リースリットもまた、この短時間で使用人たちから話を聞き出してきたシラスの話術に感歎する。
「ってことは、俺の他にも偽貴族が紛れ込んでいる可能性があるってことか」
「誰だか分かりましたか?」
「勿論」
シラスがリースリットに耳打ちをすると、照明の光が反射して絢爛な世界を照らしだす。
オープニングを彩る華やかな曲から落ち着いたワルツへと曲が変化すると、パヴロとその妻が手を取り合いフロアの中心で踊り始めた。
それを合図に数組のダンスペアがフロアへと歩み出る。
シラスは給仕の盆にシャンパングラスを乗せるとリースリットに誘いの手を差し出して腰を折った。
「一曲、お相手を。リースリット嬢」
「ええ。喜んで、シラス様」
挑戦的なシラスからの誘いに、するりとリースリットは乗り込んだ。
手を絡めると流れるようにステップを踏み出しフロアの中心へと躍り出る。
勇者たちの舞踏は大勢の感嘆と少数の憎悪に見守られながら行われた。
優雅で生命力の溢れた足運びは、のびのびとした自然の力強さをおもわせるものだ。
一曲踊り終わったパヴロが自慢げに二人のこと来客に話している。
リースリットの瞳の中にはシラスが映り、シラスの見つめる先にはリースリットの姿がある。二人は小さく頷き合った。
曲が再び変わる。二人は身体を離すと優雅に一礼をしあった。
「素晴らしいダンスでしたわ。次は私と踊ってくださいませんか。勇者様」
「勿論ですとも」
「レディ、貴女をダンスにお誘いしても?」
「ええ、喜んで」
踊り終えた二人の元に、初老にさしかかった男女が声をかけてきた。
当然のようにシラスとリースリットは別々のペアの手を取り、再びフロアへと踏み出していく。
相手の背中に手を回し、体温が分かるほどに密着をする。先程とは違い、少しテンポの速い曲だ。
繰り返される規則的な足運びのなかでシラスはうっそりと囁いた。
「レディ、貴女さえよければお時間を頂けませんか。静かな場所でゆっくりとお話をしたいのです」
「まあ、貴方ってばあんなに綺麗なパートナーを連れておきながら悪戯っこなのね」
「生まれが生まれですからね」
シラスは女性と連れ立って中庭へと談笑しながら歩いていく。
「彼のことは良いのかい?」
リースリットと踊っていた男が問うた。
その表情の下にある醜悪な歪みが見えるようだとリースリットは内心でため息をつく。
下世話な話題で誰かを貶めようと企む時は、大抵このような顔になるものだ。
「ええ」
だから相手が聞くに堪えない言葉を紡ぐ前に、リースリットは相手に肌を合わせるように寄り添った。
潤んだ瞳で見上げれば、相手の喉がごくりと動く。
「折角ですから、私達も人気のない場所に行きませんか?」
「……どうだった」
「黒でした。そちらは?」
「同じく黒。変装を引っぺがして渡してきた」
ごく当然のように二人は再び会場の空気に溶け込んでいた。
今まで会場を抜けていた事に気づいた者は果たして何人いるだろうか。
オルラント夫妻は体調が優れず、帰ったようですと訪問客へと説明するエベニーザの胡散臭い笑顔を見ながら、二人はゆるんだ手袋を引き締めるようにはめ直した。
「本物の貴族なら、俺の出自くらい調べてるだろ。踊ろうとは思わないはずだ」
「私も同じです。この赤い瞳の噂を知っている年配貴族は、未だに私と踊ることを躊躇います」
「そもそもダンスの相手ってのは同年代に声をかけるんじゃなかったのか」
「はい、ダンスの相手選びとはお見合いや当代での交友相手を見定めること。余程のことが無い限り同じ年頃の方を選ぶのがルールです」
「二人目までは深い意味を持つんだっけか」
「ええ、ですから二人目までは、慎重に相手を見極めてくださいね」
そう言ってリースリットは困ったように笑った。
「貴族社会のルールには意味が分からねえ物が多すぎる」
「徐々に覚えていきましょう」
会場では歓談が続いている。ソファで食後の珈琲を飲む者に、遊戯室でカードゲームに興ずる者。
何も無い、平和な光景だ。
ただ一人、焦ったように周囲を気にする男以外は。
使用人が着るブラックスーツの胸ポケットには薄桃の薔薇の花が挿されており、銀色の時計鎖が見え隠れしている。
「アレは……わざとか?」
「わ、分かりません」
聡明なリースリットにも分からないことがあるらしい。困惑した声に、シラスはちょっぴり安心した。
「誰も注意しないのか」
「貴族にとって使用人とは見えない存在ですから」
フィッツバルディ派のパーティーで
よくよく顔を見れば、それは依頼をシラスに持ってきた傲慢な伝令使だった。
「内部の犯行なら手紙も怪しまれずに置けるな」
「ギルドへの依頼書が薄かった理由にもなりますね」
「仕事が終わったら、あとでもう一曲踊ってくれるか」
「喜んで」
影のように音もなく、運命のように予兆もなく、二人は伝令使の傍へと近づいていく。
「失礼」
「な、なんだ貴様らは!? 用も無いのに私に近づくなッ」
「用ならありますよ」
両脇をリースリットとシラスに固められた男は歯を剥きだした。
「そうか、貴様らの仕業か!?」
「何のことでしょう」
鬼の形相で男はスーツの内ポケットに手を入れたが、そのナイフが取り出されることは無かった。
「そこまでにしようぜ、おっさん。俺も飽きてきた」
「がっ」
シラスの手刀が相手の意識を刈り取る。
「おや、突然倒れて……大丈夫ですか?」
「シラス様、むこうにお医者様が待機していますのでお連れしましょう」
「そうですね」
我ながら白々しい演技が身についてきたものだと、シラスは笑顔をかぶった。
●
「あれは私が最近雇った類縁の者だ」
「犯行の動機は?」
「父がシャルトラン家の金を食いつぶしているせいで、自分の給与が上がらないと喚きおった」
「わぁ」
疲れ果てたエベニーザが報告に来たのは翌日の朝食の席であった。
真っ白な皿の上には卵にパンにコーヒー。並んだジャムの色と朝日が目に眩しい。
リースリットはナイフとフォークを置いた。それを横目で見ながらシラスも銀の食器を皿の上に置く。
「誕生日に命を狙われるとはなぁ。ははは」
「笑いごとではありません、父上」
心底嬉しそうにパブロは腹を抱えて笑った。
「別に良いでは無いか。勇者殿が賊を捕らえてくれたのだし。欲を言えば活躍を間近で見たかったがのう」
シラスやリースリットの捕まえた賊の本業は詐欺師であったらしく、あっさりとパヴロ・シャルトランの暗殺計画を白状した。
ナインベル荘がもつ長閑な雰囲気に騙されているのか、それとも単純に考え無しなのか。
貴族に刃を向けて生きていられるはずもないというのに。
「オルラント卿は?」
「ご無事であったと馬を走らせた者から報告が来た。そもそも招待状が送られていなかったそうだ」
「しかし予告状を出すとは、あの男も迂闊でしたね」
「それは儂が自分で書いた」
あっけらかんとパヴロが言い、場に沈黙が落ちた。
「何ですと?」
「いや、お前の連れてきたあの男は儂の死ぬ機会を狙っておるようじゃったからな。近日中に動くように焚きつけ、儂の仕業だと分からぬように犯罪者の仲介をし、自分の部屋の前に予告状を置いた。心配性のお前なら護衛を雇うと思うておったが、まさか二人も勇者殿が来てくれるとは思わなかったぞ」
貴族というものは変わり者が多いというが、まさか自分の暗殺を推奨する者がいるとは。
「そうならそうと言ってくだされば!」
「全部自分で用意してしまえば、贈り物をもらうドキドキ感が無くなるじゃろ?」
そう言ってシラスとリースリットにパヴロ老は片目をつぶってみせた。
「リースリット、貴族ってのは皆こうなのか?」
思わずシラスは小声でリースリットへと問いかけた。
「全員が全員というわけではありませんけれど、多いかもしれませんね」
「そうか……そうかぁ……」
噛みしめるようにシラスは言う。
彼の異文化理解は始まったばかりだ。
おまけSS『勇者たちの夜会』
中庭のテラスに二つの影。
モノクロームの世界の中で、一人は夜を、一人は炎を優美にひるがえす。
月下のなかで蝶のように戯れる二人の表情は勝利の余韻に浸っていた。
時には華のように誇らしく、時には風のように穏やかに刻まれる三拍子。
植物すらも寝静まった世界で勇者だけが秒針のように動き続けている。
「次はタンゴを踊ろうか」
「このリズムで、ですか」
可愛い悪戯を注意するようにリースリットはシラスを見上げた。
「ゆっくり動くのは、慣れないんだ」
「慣れれば平気ですよ」
ここには叫ぶ血飛沫もなければ、翻る刃の銀光もない。
贅を尽くした煌びやかな世界。
しかし此処は紛れもなく戦場で、その渦中にシラスは自ら飛び込もうとしている。
いや、もう飛び込んだあとだろうか。
「応援してますよ」
「ありがとう。必ずのし上がってみせるよ」
嗚呼。
ようこそ、眩い地獄へ。