SS詳細
春風、近付いて
登場人物一覧
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聖教国ネメシスにほど近い、幻想の海沿いの町――此処ドゥネーブに吹く海風にも、仄かに春の香りが漂ってくる頃。
その地を治める一人の騎士が立ち上げた『黒狼隊』が兵舎として使う屋敷の廊下を、紙袋を抱えた夏子が一人歩く。
「あーあ、ROO内でも……って思ってたんだけどな。お見舞い、ベッタベタだけどこんなんでイイのかな~」
ひとりごちる夏子の足どりは、いつも通り軽快で――目的の部屋の前で立ち止まり、ノックをしようとする手が止まる。
(あー、どういう顔すればいいんだ? 普通、フツウ……あわよくば元気なら、まぁ、まぁ?)
うんうんと唸り数十秒。意を決し夏子は――
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午後の西日が射す部屋のベッドで、タイムは身体を起こし束ねられた羊皮紙をぱらぱらと捲っていた。
(……ほんと、一人も死なないで済んでよかった)
読み返すのは、年を跨いだこの数か月の依頼の記録。ゲームだ、なんて何も解らないまま飛び込んで――そこからの日々は、永遠にも、一瞬にも思えて。
『セフィロトの揺り籠』で奇跡を願い掴んだ平穏が一瞬で終わるなんて、あの時のタイムには信じられず。竜の口に呑まれてなお、こうして生きていることが不思議だった。
「静かね……」
傷と疲労が祟りしばらく休養をとっていたこの一月あまりは、目まぐるしく駆け回っていた日々が嘘のようで――身体を休めきった今、心が
一連の騒動でローレットに死者が居ないことも知っているし、見舞いに来た友人に聞けば「夏子さん? 元気だったよ! 連れてこよっか!?」とドーナツ片手に話していたものだから――それなりに元気なのだろうが。
気にしがりの彼のことだから、会いに来ないのも此方を気遣ってのことだろうけれど、寂しいものは寂しいのだ。
「……会いたいなぁ」
小さく零せば、口にした言葉にじわりじわりと自分自身が侵食される。
――こん、こん。
寂しい、会いたい、に呑まれてしまいそうな思考を打ち消すような控えめなノックが数度。
いつも通りの友人かと「どうぞ」と声を返し開かれた扉から入ってきた姿に、タイムはこれが午後の微睡で見る夢かと錯覚した。
「やっほ、タイムちゃん……元気?」
「わ、わ……びっくりした! 少し散らかってるけど入って……!」
跳ね上がるようにベッドから立ち上がると、タイムはサンダルへ足を入れつんのめるように駆け寄って。
「そこすわ……きゃっ!」
「おっと。病み上がりなんだからそう走るんじゃないよ」
バランスを崩したタイムの腰を、夏子は空いた手で掴むと――今度はちゃんと助けられた、と笑うものだから。
「なつこさん」
「なぁに、タイムちゃん」
どんな薬より休息よりも効く薬に、タイムの身体はふわりと軽くなって。
「久しぶりね」
と腕の中で笑えば、見慣れた顔がそこにあった。
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「や~、なんか久しぶりだね。ああゆっくりしてて、出来る事はするからさ」
座ってて、とタイムが指し示したソファに座ることなく、おもむろに紙袋をソファの前のローテーブルに置くと夏子はタイムが寝ていたベッドに向かう。
ベッド横の窓を開ければ、心地よい風が吹き込み――無造作に投げ捨てられた布団を、慣れた手つきで畳む。
「あとは? 洗濯物とかあれば持っていくし、なんなら洗うし」
「~~~いらない!」
下心があるのか親切心かの言葉に抵抗をしながらも、当たり前のように交わされる言葉がそこにあって。
「お茶淹れてくるわ、紅茶と深緑の緑茶どっちが」
「病み上がりの女の子を働かせるわけないでしょ、な、なんとお茶も持参してまぁ~す」
ほら、と夏子が示した紙袋からは、果実とお茶の瓶が覗いていて。嬉しさと気恥ずかしさとが天秤に乗って――ほんの少し勝った方の気持ちに弾む心のまま、夏子の手を引いてソファに腰を下ろす。
「うわわ、危ないなぁまったく。うっかり押し倒しちゃったらどうす――やめとこ。
今日はお見舞いに来たんだしさ、まったくタイムちゃんってば無茶するんだから」
聞き捨てならない言葉はいつもの夏子だからこそのもので、けれど後半の言葉の表情には軽薄さはなく、そこにあったのは優しさだけ。
「……ありがと、夏子さん。お世話しに来てくれたの?
ふふ、ありがと。日常生活送れるくらいには元気よ。でも、流石に疲れちゃったみたいで」
「そっか。それならよかった」
差し出されたお茶を飲み、風を感じれば隣では夏子がしゃりしゃりとナイフで果物を剥いていて。
「汗かいたよね、身体拭こうか?」
「身体? 今は大丈夫よ。それより沢山お喋りしたい気分なの!」
夏子の申し出の下心には今度こそ気付かず、タイムはあのね、と話し出す。
「夏子さんは元気?」
「ん? 元気だぁよ、ほら見ての通り」
ソファに並んで、喋りたい事は沢山あったはずなのに――こうしてみると、何から話そうかとタイムの頭にぐるぐると言葉が巡る。ああ神様助けて、なんて思えば――かみさま、の名にタイムの言葉の堤防は決壊して。
「そう、そうよ神様! ねえもう、神様って何だったのよ!
神だよなんて言って、いっぱいナンパ……は夏子さんだし仕方なくないけど仕方ないし、それでもみんなで竜域踏破は楽しかったのよ」
「いやハイ、神はそのまぁ神プレイがしたかったというか若気の至りでして」
「でも!」
ずい、と夏子に向くタイムの顔は上気していて――それが溜め込んだ言葉を放出する熱と思えば、夏子とて揶揄はできず、果実の皮を剥く手を止める。
「……沢山、此処のみんなが帰ってこられなくなって。夏子さんだって無茶して、起きてこられないんじゃないかって思って」
もう、あんなに静まり返った屋敷は嫌だ—―それは、夏子のことも、黒狼の皆のことも大事な仲間だからこそ。
(……俺もま、その。タイムちゃんのことなんだかんだ探して――好き勝手して帰ってこられなくなったのは、ハイ)
言い返せる言葉などないことが解っているから、夏子はただずっと言葉を受け止める。
「セフィロトはマザーが大変で、でもクリストも大変で、そしたら皆が帰ってきてくれてほっとしたのよ」
「後ろ足でかける、砂の役。よかったでしょ~?」
「もう!」
「ていうかタイムちゃんはその時まーた死にそうになってるし」
「そ、それは……」
――箱庭の母よ、我らが愛を、恕し給え。
幸せの蒼い鳥と掴んだ奇跡は、赤く染まった世界を塗り替えて。
それに後悔なんて一片もなくとも、弱い点を突かれたら言葉には詰まるもの。
「でもって休んでたと思ったら、ハイウェイかっとばしてカーチェイスして竜に食べられたってんだから、よっぽどタイムちゃんの方が心配させるんだからねぇ」
「それも仕方ないじゃない、守りたくて……え?」
(しんぱい。夏子さんが心配? わたしを?)
気付いていない夏子の言葉を指摘しようとして――けれど、指摘したらもったいない気がして。
それに何より、それ以上に話したい言葉が沢山あるものだから――タイムの言葉は止まらない。
「でね、でね、その時校長先生ってばね――」
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お茶も底をつき、剥かれた果物の皮もすっかり水分を失って――それでもなお、タイムのお喋りは止まらない。
「そうだ、夏子さん知ってる?」
「何なに? タイムちゃんのことなら何処に黒子があるかも知ってるけど」
「もう、そうじゃなくって!」
斜め上を見つめたまま、何かをにやにやと思い出すように指折り数える夏子の脇腹にタイムは軽く拳を入れる。ぐぇ、と夏子が発する声は大袈裟すぎるもので、けれどそのやりとりがこうしてまた出来ることがどうしようもなく楽しいのだから――惚れた弱みというものにはほとほと困り果てる。
「この近くにね、桜がきれいな場所があるみたいなの。もう少し先になるけれど、行ってみない?」
もうすぐ春が来る。秋も、冬もずっとずっと働き詰めで、奇跡も祈って。流石に随分と堪えた身体だって、春の日差しの下ならばゆっくりと並んで歩けるから。
「そうなんだ、良いね。今度いっしょに……」
(いっしょに……あれ、続きは!?)
もちろん、と答えるべく桜色の唇は開かれているのに、待ち望む続きの言葉は届かない。
そこで言い淀むほど、この数か月で関係が後退したわけではないはずで――ぎゅっと膝の上で握りしめた拳を見つめれば、肩にこてりと重い感触。
「へ?」
「ぐぅ……」
タイムの耳に届いた「いっしょに」の続きは、言葉ではなく小さな寝息。そっと目線を横に移して見た夏子の頬は、前に――あの溶けるほどに暑かった夏の夜に間近で見た時より、幾分かほっそりとしていて。
「……もう、相変わらず自分の事には鈍感なんだから」
隣の男は、いつだってそうだ。
他人のことばかり気にかけて、心配して、自分の傷も疲労もないがしろにする鈍感な人。
(夏子さんだって、疲れてるのよね……それなのにこうやって来てくれて。
あ、どうしよう今わたしすっごく嬉しいかも!)
にやつく口元が見られないことへの感謝を胸に抱きながら、タイムは夏子を起こさぬようそっとベッドへ手を伸ばす。
身体を動かさなさ過ぎて、脇が攣りそうになったのは内緒だけれど――適当に畳まれていた毛布を手繰り寄せ、夏子へとかける。
「んん……」
目にかかる前髪が鬱陶しいのか、眉根に皺を寄せる夏子の前髪を指で払う。
「……おやすみなさい」
夏子が目を覚ましたら、熱いコーヒーを入れてあげよう。
そうしてそれを飲みながら「今度いっしょに、の続きは?」と聞くのだ。
戦って、戦って。
これがひと時の平和だとしたって――そんな日常が、春風と共に戻ってきたのだから。
おまけSS『春眠、覚めて』
――夢を見た。
真っ白なドレスのタイムちゃんを、この腕に抱いていて。頬をくすぐるヴェールが、夢だというのにくすぐったい。
ひどく不思議な、嘘みたいな夢で――俺は、なんて言っていたんだっけ。
「おはよ、夏子さん」
目を覚ませば、何時も通りに笑うタイムちゃんがいて――あのまま寝てしまったのか、と合点がいく。
あの楽し気に転がる声で「夏子さん」と呼ばれるのが当たり前だったから、元気になったと噂を聞きつけお世話――に下心が混じっていないとは言えないけれど、まぁ顔を見て色々、そう色々『お世話』が出来ればな~くらいのもので。
だからこそ、顔を見てそんな『お世話』もせず話を聞いて、あまつさえこうやって自分が頭を預けて眠っていたことに申し訳なさと――不思議だ、と思う自分が居た。
優しくて、いい子で、あとお尻が大きくて。
またこうしてタイムちゃんと話せるのは――なんだかいいな、と思った。