SS詳細
日常への希求
登場人物一覧
昨夜から降り出した雨が、窓ガラスを湿った風景へと変えていた。
そんな風景をどこが疎ましく思いながら、シキは起き出した。人知れず痛む頭に知らん顔して。
隣で眠る友人、エルスを起こさぬようそっとベッドから出て、軋みの激しい階段で極力足音を殺しながら降りる。
昨日、久しぶりに会ったシキとエルスは近くに出来たばかりのレストランでディナーを楽しんでいた。
その店は色々な生地が選べるガレットがイチオシらしく大変美味しかったのだが、帰りがけに雨に降られてしまったのだ。
その為、レストランから近かったシキの家へとエルスを泊めたのが昨夜の経緯である。
「シキ……? 起こしてくれても良かったのに」
一方で知らない間に伸びた腕が冷たい床を叩いたことでエルスは目が覚めた。
隣を見るとシキは既に起き出しているようで姿がなかった。借りた服を可能な限り、整えてから階段を降りて挨拶をする。
「おはようございます、シキ。朝食作るの、手伝うわ」
「おはよう、エルス姉さん。それじゃあ、コーヒーお願いするよ」
何度か互いの家に遊びに行っている2人は、だいたいの物の配置は覚えている。
シキが冷蔵庫を漁っているうちにエルスがヤカンで湯を沸かし、コーヒーメーカーのセットを整える。
ガラス瓶に入った粉末コーヒーを専用のスプーンで二杯ちょっと、紙フィルターに入れる。
そのフィルターをコーヒーメーカーへセットして湯を専用の所へ注ぐ。
後は勝手にコーヒーが出来ると言うのだから、練達の技術力には感心しかない。
「朝ごはんも出来たよ、食べようか」
溶けたバターがバケットの表面を美しく彩り、その上に目玉焼き、カリカリのベーコンを乗せたもの。
小さなカップ2つにはシーザーサラダとヨーグルトがそれぞれ入っていた。
「美味しそうね。いただきます」
2人揃って朝食を食べて、さて今日はどうしようかと話す。なにせこの雨模様、洗濯物も出来ないし出掛ける気分にもならない。
ゆったり落ち着いて読める本なんかも、生憎とシキの家にはなかった。
ふと、つまらなさそうに髪をかき揚げるシキを見て、エルスが呟いた。
「……伸びたわね。髪を結ってあげるわ」
「はぇ?」
シキの髪は紫苑の花そのものを思わす淡く美しい紫色で、膝裏まで及ぶ長さを誇る。
アクアマリンの大きな瞳に良く合う美髪だった。
その髪をエルスは優しく梳かすと、どう結いあげるかひと房持ちながら悩む。
「何か希望はあるかしら? 大人っぽく?」
それにシキが任せるよ、と微笑んで目を閉じる。あら、と笑い返すエルスは楽しそうだ。
最初の髪型を決めたらしいエルスの指が動き、前髪とサイドの髪を斜めに流すときっちり目に編み込んでいく。
下まで編み込んだそれを耳の辺りで一旦止めると、残った襟足の髪をひとまとめにして、緩めのシニヨンを作る。
「終わった? ……素敵だね。これに合わせたドレスを着ないとね?」
「それなら、その時は選ぶの手伝うなきゃね?」
クスクスと笑い会いながら、エルスがもう一度ほどいて梳とかす。
シキはすっかり上機嫌で「ねえ、三つ編み以外で私にも出来そうなのってあるかい?」とリクエストをしてみる。
それにエルスは唇に指をあてて考え始める。
「そうね……。まず両方のサイドの髪と中心の髪を分けてゴムで止めるでしょ?」
シキへ教えながらその通りに手が動き、サイドの髪を取る。
それからシキの身体を鏡に対して斜め横へ向けさせると、説明を再開する。
「サイドの髪を上の方へ結んだ後に輪を作ったら、そこを通して1回転。それからゴムの位置を少し上に戻すの」
「これを左右?」
そう、と告げて反対側はシキ本人にやらせて出来た所でまた正面を向かせる。
そのまま俯かせると、残った髪を櫛で集めてひとつに括る。
「これでどうかしら? ポニーテールは俯くと、それだけ高さが出てキレイに出来るわ」
それに対してシキはなるほどねえ、と呟きながら出来上がったポニーテールを興味深く触る。
確かにこれは動きやすく簡単な髪型だった。
「しかしエルス姉さん髪弄り慣れてるね。もしかして得意なの?」
「というより人の髪に触れるのが好きなのよ。…… 本当なら義妹にだって…………」
脳裏に思い描く姿は美しい髪だった。けれど触れることも向き会うことすら叶わなかった。
心なしか冷えた指先に暖かな温もりが触れる。シキの手だった。
「……妹、いたんだねぇ。エルス姉さんもそういえば、旅人だっけ」
そうよ、と返して遠い故郷を思い返す。もはや帰ることなど有り得ない世界。
復讐の為とはいえ、一族全てを滅ぼしたことへの罪悪感は、エルスの中で燻り続ける。
「……あの世界で取り返しのつかないことをしてしまったわ……。悔いても悔やみきれない、そんな罪を犯してしまったの……」
シキは立ち上がってそんなエルスを抱き締める。細くて小さな肩だった。エルスは特に義妹から呪いを受けるほどだった。
3つ受けたとされるが、エルス自身が知覚できているものは2つのみ。
その2つだけでもエルスを苦しめるには充分である。
吸血種でありながら血を厭う呪いによって肉体の成長は止まり、その姿は永遠に少女のものだ。
彼女が少女の姿から成熟した大人の女性へと姿を変えるのは、きっと……。
窓の外で悲しげな音を立てていた雨はいつの間にか、霧雨となって啜り泣いていた。
その雨を見つめて、シキがおもむろに口を開く。
「……私の中にも、あるんだ。罪の意識」
それは雨の日。醜い雨の日のこと。
シキが生まれた世界はどこまでも荒野が広がる世界だった。
その中で生まれつき宝石の瞳を持つがゆえに他民から狙い襲われ、戦い続ける民だった。
その中でシキは処刑人という仕事に就いていた。処刑に邪魔な心がないよう生きていた。
けれど、あの日。シキが待つ処刑台に登ってきたのはシキの弟だった。
見慣れた顔の、その最期を作るのが自分だと分かったあの瞬間を、どうして忘れられようか。
あの雨の日はいつまでも、シキの心の中に在り続ける。弟を処刑した日を。
心を持たない処刑人だったはずなのに、今はこんなにも豊かな心を持っていることを含めて。
そっと、エルスの腕が伸びてシキを抱き締め返す。吹雪の中で避難小屋を見つけた心地だった。
「……それだから、エルス姉さん。今は前を向いて生きないか?」
楽しいことをもう少しだけ、頑張ってみないかと誘うシキにエルスはぎこちなく、泣きそうな笑みを浮かべた。
いつか向き合わねばいけない時の為に、今は前を向いて心を満たしたい。
「……ええ、そうね。今は楽しいことを。例えば次に晴れた日にしていく髪型を考えるとか、どう?」
「うん、良いね! 次に晴れた日の服も決めよう!!」
シキはパッと明るく笑うと、鏡の前に座り直す。その後ろにエルスが梳を片手に立つ。
髪をまとめたゴムを外し、また丁寧なブラッシングでシキの髪をほどく。
「そういえばシキ、髪飾りはないの?」
「あんまり持ってないかな……。普段適当だから」
シキは確かに普段から長い髪を三つ編みにしている姿ばかりだなと、エルスは思い直す。
こんなにも美しく遊び甲斐のある髪なのだから、もっと色々挑戦しても良いのにと、エルスは勿体なく思ってしまう。
「あなたは可愛いのだから、髪ももっとアレンジしてもいいと思うの」
言いながら手がするすると動き、やや太い三つ編みを3本作ると、その3本で三つ編みを作った。
この大胆さにシキも驚いたようで出来上がったそれを持ち上げたり、撫でたりしている。
「すごいね、これ……。三つ編みを重ねただけでこんなに違うのか…………」
「ここにパールが連なったヘアアクセサリーとかを巻き込んで編めば、もっと華やかになるの」
それなら服はシンプルにワンピースとかロングスカートかね、とシキが検討を始めてエルスが同意する。
シキの髪色ならば春らしい黄緑が似合うかもしれない。
「じゃあー、次はエルス姉さんだね! と言っても私は大したことは出来ないんだけど」
「いいえ、楽しみにしてるわ」
緊張しちゃうなぁ、とシキが笑ってエルスの髪をゆっくり梳かし始める。
エルスの髪は夜明け直前、陽が登るかどうかの空に似ている。
紫とも青ともつかない、なんとも言えない色含んだ綺麗な黒髪。
白く澄んだ肌を引き立てているようで、さらりと落ちるそれが気持ちいい。
「うーん、そうだなぁ。横の髪を編んで……」
前髪を残してサイドの髪を三つ編みに。それを左右に2本作る。
その2本をひとまとめにして、くるくるり、小さな団子にするスタイルだ。
「どうかな? 普段のイメージにないものを選んだつもりなんだけど……」
「素敵だわ。洋服はどういうのが似合うかしら? スカートもパンツも合いそうね」
あえてパンツを合わせても良いかもしれないが、2人でスカートを穿いて合わせてみたい。
そんな事を話ながら、エルスは自身のクローゼットを思い返す。
「確か……家に薄いピンクのスカートがあった気がするの」
「似合いそうだ! じゃあ、上は白のブラウスが良いんじゃないか?」
素敵だと言い合って、ふと見えた時計はもうお昼過ぎ。2人、顔を見合わせてふっと笑う。
「私たち、こんな時間まで話したんだね」
「お昼ご飯、どうしましょうか? 着替えて外で?」
それなら近くの軽食カフェがテイクアウトを始めたから利用してみようか。
それから次に出掛ける場所がどこが良いかの相談をしようと、姉妹のような2人は笑いながら着替えを始める。
もちろん、お互いがお互いにした髪型をそのままに。髪型に合わせてお互いの服を選びながら。
いつか悲しい
そしていつか、乗り越えらえたら良い。満たされて強くなった自分たちを。
エルスとシキ。心に刻まれた傷と闇を抱えて、それでも絆を強めて笑う。