SS詳細
酩酊、誘惑、蜜融けて
登場人物一覧
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四月の月は遠く、まばゆく。
花曇りの空から零れ落ちた月光は、次第に夜の藍を広げ、星明かりを零した。
再現性東京、某高層マンション。孝臥と弦月は夜桜を肴に月見酒。花は盛りに月は煌々と。脳裏に焼き付いたネオンの色はまだ真新しく、ここが異世界であることを伝えようとはしない。けれど確かに、ここは異世界なのだ。
ようやく新生活にも慣れてきた。今日は月見と洒落込もう、なんて話して。つまみや副菜を用意して、テラスに用意した机と椅子。肌寒いような、そうでもないような。春の夜風に黒髪はなびいて。
決して低くはないはずなのに桜の花びらはテラスにまで飛び込んでくる。ああ、春が来たのだと、そう実感せざるを得ない。
「孝、飯は出来たか? 俺腹減ったから早く食いたいんだけど」
先に酒を飲むと孝臥が煩いので、ぼんやりと風景を眺めていた弦月。しかし暇が過ぎる、ので奥で料理を作っていた孝臥を急かしてみたり。からかうついでではあったのだけれど。
「そろそろだ。そっちに運ぶのを手伝ってくれ」
手際よく料理を進めていたのだろう、孝臥はおぼんにのせた料理を目線で示して運ぶように促して。勿論弦月も、暇なのでやはり手伝う。まるで新婚さんだなんて考えたのは、どちらだっただろうか。
「にしても今日は沢山だな。張り切っただろ」
「ああ。せっかく満月に被せたんだから、どうせなら沢山楽しめたほうが弦も嬉しいだろう?」
「そうだな。じゃあ先運んどく。何か他に持っていった方がいいものは?」
「えーと、そうだな。取り皿と箸と、あとコップとドレッシングを頼む」
「結構こき使うんだな、了解」
意地悪く弦月が笑えば、孝臥は拗ねたように睨んでくる。そんなものは挑発にしかならないと余裕綽々な笑みをこぼして、弦月はテーブルに美味しそうな料理を並べていった。
「……作りすぎたな」
「実感した?」
「ああ。なんというか……すまない」
「まぁ成人男性二人だし、これくらい余裕だろう。いけるいける」
「はぁ……まぁ大丈夫だろう」
「おう」
自分でも作りすぎた、なんて夢中になって作っていたら気付かないものだ。多分。少なくとも孝臥の場合はそうだった。
弦月が嫌がっていないのがせめてもの救いだと、小さくため息を零す。食べたり、飲んだり。そうやって、戦いを置き去りにして楽しめるのはいいことだ。それが日常であると錯覚できるから。ローレットの
(だから、か)
孝臥が『つい』『うっかり』作りすぎてしまったのは。故郷を。生まれ育った国を。世界を、忘れたくないのだという一種の願掛けに近いだろう。再現性東京に身を寄せているとは言え、練達から一歩外に出てしまえばそこはちゃんと『異世界』だから。文化も種族も違う生き物で溢れている、残酷な世界だから。
「……これ、懐かしいな」
「ん?」
「ほら。あの時の帰りも、居酒屋に寄って食っただろう、これ」
「……ああ」
「何だ、店主にレシピを聞いたのか?」
「まぁな。美味しかったから、つい。悪くはないだろう?」
「だな。見た目は美味しそうだ、見た目はな」
「……文句を言うなら食わなくてもいいぞ」
「おいおい、そいつぁ酷い冗談じゃねえの! 怒んなって。な?」
「はぁ……今回だけだぞ」
なんて言いながらも、孝臥が自分に対しては強く出ることが出来ないのを知っている。揚げたての唐揚げを甘いたれで漬け込んだそれは、じゅわっと肉汁が溢れ出るけれど、弦月好みの味付けに寄せられていて。
「うっま……」
「ふふ、だろう。見た目だけなんかじゃない」
「ああ。ほんとに上手いし……あー、酒が欲しい」
「はは、月見酒だしな。間違っちゃ無い」
お見通しだとでも言わんばかりに冷えたグラスを取り出されれば、それに手を伸ばさざるを得ない。缶ビールを開けて、勢いよくグラスに注ぎ込み、喉の奥に押しやって。
「っ、はーーーー!」
「旨い?」
「ああ、旨い」
別の皿に盛られたきゅうりもまた、後を引く味で。なんでこいつはこんなにも料理が上手いのかと羨んでしまう。男料理と言えば体裁は良いが調味料をぶちこんで炒めることしかできない弦月にとってはまさに胃袋を掴んできた孝臥の存在。食べることや飲むことが好きな弦月の為に覚えたのだろうけれど、それにしたってこんなに料理が上手い。
がつがつと食べる弦月を微笑ましく見守る孝臥の瞳は優しく、そして熱がこもっていて。その意味には気付いているし同じ気持ちだけれど、まだ何も伝えてやるつもりはない。
(……ほんと、わかりやすいやつ)
ふっと笑みが溢れた。不思議そうに首を傾げる孝臥をよそに、弦月は先程の唐揚げを箸で掴んで孝臥に向ける。
「ほら。先に飲んぢまったけど、孝が作ったんだからお前も食えよ」
「なっ……いや、俺は味見をしたから……」
「だからって俺が一人でこんな量を食うわけにもいかねえだろう?」
「む……まぁ、それもそう、だな?」
「ほら、口開けって。食えよ」
孝臥がなんとか交わそうとするのを、弦月はにこにこ笑いながら、なんてことないフリして追い詰める。
間接キスにたじろいでいるのだろう。なんてわかりやすいのだろう!
(俺じゃなかったら……どうなってただろうな)
自分ですら笑ってしまうほどの対抗心と嫉妬心。孝臥はまだ知らないけれど、この胸の内に潜む恋心を吐き出してしまったなら、どんなに顔を赤くするだろう。両想いだと告げてしまったら。そんな瞬間を見ていられるのは自分だけが良い。特別な瞬間に、特別な場所でなんて夢を見てもいいし、嘘のようなふりをしてからかってやってもいい。
口元が綻ぶ。
「ほら、早く。冷めるぞ?」
「……あー、」
躊躇いがちに広げられた口を押し広げるように、ぐいと唐揚げを押し込む。形の良い唇が箸に触れ、それを意識したのだろう孝臥の頬はみるみる赤らんで。
「どうだ、旨いだろ?」
けらけらと笑う弦月。孝臥の心などお見通しなのだ。孝臥はぐい、とビールで唐揚げを喉奥に押し込んだ。
「……ああ」
本当は味なんてわかっていないくせに。なんとか頷いたのだろう孝臥を肴に、弦月はまんまるな月を眺める。
「丸いな……」
「ああ……」
「それにつまみも旨いし。最高の夜だな、ほんと」
「……そうだな」
好きな人と、二人きりで。お供には美味しい手料理と酒。最高だ。
和やかな団らん。穏やかな会話。少しずつ減っていく料理。そして、事件は起こった。
「それにしても孝」
「ん?」
「お前、酒のペースがやけに早いんじゃないか?」
「そうか……?」
そうだ。そうだと言っているだろう。
(……うーん)
缶を五つほど潰していた孝臥の頬はすでに赤らんでおり、そして呼気にはやはりアルコールの香りがにじむ。効果音で言うならぽやぽやというのが似合うだろう。
「あー……」
「……どうした、弦?」
「うーん……」
「俺は平気だ、ぞ?」
「……そうか」
「ああ。だから、もっと食べても良いんだ」
ふにゃーっと笑う孝臥の姿はなんとも破壊的で、弦月の心のツボをぐさって刺す。いけない。
「……とりあえず、水を飲め、孝。な?」
「……なんでだ?」
「なんでって……お前が酔ってるからだけど……?」
「酔ってないから飲まない」
「……」
駄々っ子のように頬を膨らませて、自分が作った料理に手を付ける孝臥の姿は何とも愛らしくて、いけない。
「あーもう……じゃあ酒はとりあえず此処までな?」
「なんでだ?」
「お前が酔ってるからだよ、孝」
「でも弦はお酒が好きじゃないか……」
「……そうかもしれないけど、酒はいつだって飲めるから。な?」
「むう……」
(むうって言った?!)
よっぽど酔いが回っているのだろう、こんな様子ではきっと正常な判断も出来ていないに違いない。きゅっと口を結んで、ずっとむすっと怒ったような顔をしている孝臥の様子。口角がみるみる上がり続ける。
(可愛い……)
ほんとうに、可愛い。この間ぬいぐるみを買っていたときといい、ついつい手料理を作りすぎてしまったその様子といい、全てが可愛い。化粧くさくて粉っぽい女達よりもよっぽど、孝臥のほうがかわいくて愛おしくてたまらない。
「はぁ……ちょっと待ってろ」
「いやだ……」
料理を片付けて、どうにか中で寝かせよう。そう考えて立ち上がった弦月の服の裾を引いて抵抗する孝臥。思わず固まってしまう。
「……っ、じゃあ、これを中に運ぶのを手伝ってくれるか?」
「なんで……? 外で飲むんじゃないのか……?」
「……あー、」
酔っているのに弦月を優先しようとするその癖。無意識に刻まれているのだろう。そんなところもかわいくてたまらない。
「……寒くなってきたろ。だから、中で食おうかなって。だめか?」
「だめじゃない……手伝う……」
「ん、ありがとうな」
あんまりにも可愛いものだから、つい頭を撫でてしまう。普段なら猫のように威嚇されじっと見られてしまうからつい手を引っ込める。が。
「……もっと撫でないのか?」
「……あ、ああ」
ぺしっと手を跳ね返されるでもなく、むしろ撫でるのを求めてくるなんて。これはレアだ。
(……堪能しておこう)
泥酔している内に。甘えてきたのはそっちだと理由も付けられる。何かあっても問題ない。よしよし、と大型犬を相手するように髪を、頬をなでてやれば、嬉しそうに頬を擦り寄せてくる。
(…………)
ぐっと堪える。内側からこみ上げてくる劣情をねじ伏せて。撫でるのを終えて、皿を運ぶことに徹する。自分を律するのだ。そう、まだ告白すらしていないのだから。
「ほら、運ぼう。な?」
「……うん」
「よし、偉いぞ」
「……」
弦月が褒めると、それだけで嬉しそうにゆるゆると口元を緩める孝臥に、此方まで笑みが溢れてしまう。こんな調子では皿を運んで夜が明けてしまう。ここは己の心を食い止めて料理を運ぶことにする。せっかく孝臥が丹精込めて作った料理が虫に食われるのも本位ではない。
ふらつく足元をなんとか自分で支えながら、ゆっくりゆっくりと運んでタッパに詰める孝臥は、一個運んで、詰めて。それを終える度に、にぱあと笑みを浮かべて、褒めてくれと言わんばかりに弦月を見つめる。そんな仕草がたまらなく愛らしいから、また撫でてやる。こればっかりは、酔いが冷めたときに孝臥の記憶が無いことを祈るしか無い。お前も乗り気で撫でてただろうなんて言われてしまっては、返す言葉もないから。
「よし……それじゃあ次は……」
「此処にいてくれ……弦……」
またしても服の裾を掴み、ソファで己の横をぽんぽんと叩く孝臥の姿。可愛い。行かないで、と口にこぼして、ねだって。試しに首を横に振ってみれば、それを真似するように孝臥も首を横に動かして。駄々っ子よりも駄々をこねて、甘えて。普段自制しているであろう甘えん坊な部分が露見して。
それはきっと、孝臥の家庭環境や生い立ちに関係しているのだろう。甘えたくても甘えがたい環境。それが、甘えないと。ひとりでも生きていけるのだと、自分で自立して生きていけるようになるという決意を固めさせてしまったのかもしれない。
(……俺なら)
俺なら、そんな悲しみを感じさせたりはしないのに。
普段は伝えられない本音を、手のひらに乗せて。愛しさが伝わればいいのに、なんて考えながら、撫でて、愛でて。口付けを添えないだけマシだと思って欲しい。今はまだ独占欲を抑え込めているけれど。これ以上挑発されてしまっては、抑え込めるかもわからないから。
「ほら、孝。孝臥」
「ん……気持ちいい……」
「…………言葉のチョイスには気をつけような?」
「ん……?」
「はぁ……解ってるのかこいつは……」
溜め息しか出ない。きっと無意識の内だろう言葉のチョイス。何も解らずに首をこてんと傾けて、孝臥はふにゃりと笑う。撫でられるのが嬉しいのだろう、いや、顔が嬉しいと物語っている。苦し紛れに頷いて、なんとか同意を示す。そうすることでしか、冷静になれそうにない。
「取り敢えず、のんびりするか……孝は、なにがしたい?」
「……一緒にいたい」
「それなら、一緒にいよう」
「うん」
小さな子猫のように、しがみついて離れない。心地よくてむず痒い、僅かなその距離感。孝臥が酔っていなければ、すべて起こり得なかったことだ。
(……喜ぶべきなのか、これは)
気まぐれに手を構ってみたり、指を絡めてみたり、つついてみたり。じゃれつく孝臥を横目に、弦月は己の理性と戦っていた。
あんまりにも可愛いものだから、どうすればこの可愛い生き物が己から興味を失うのか悩んでいたのだ。そろそろ弦月の理性が崩壊する、そんな時に、第二の事件は起こった。
「弦」
「ん?」
「暑い」
「なにか飲むか?」
「……アイス」
「……?」
「アイス、たべたい」
「ん、じゃあとってきてやるよ」
孝臥がべったり腕にしがみつくのをなんとかはがしたしなめて、孝臥のために適当にアイスクリームをとってくる。偶然か必然か、棒アイス、しかもバニラしか残っていないのだが。
(……まぁ、そんなうまい偶然あるはずが)
あるんです。
「……食べさせろ」
「ん……?」
「弦が、俺に。食べさせて?」
「……自分で食えないのか?」
「……だめ?」
「いや、だめじゃないけど……そのだな……」
「……」
しゅん、とわかりやすく肩を落とす孝臥に、弦月は弱い。
「あー……もう。ほんとに、今日だけだからな?」
「うん……ほら、はやく」
「ったく……」
なんとか袋を開けて、口元に近づけて。
「……なんだよ」
「いや、お前が食べさせろって言ったんだろ」
「うるさい……」
はむ、と小さな口で控えめに咥えて。ちゅう、ちゅう、と舌で溶かしながらミルクの味わいを楽しんでいるようだ。見ていられない。
「孝……」
「?」
「…………はぁ」
何も解っていない。その赤い唇がどれだけ弦月の心を擽るのか。リップ音にどれだけ理性を試されているのか。伸びる舌にどれだけ本能を煽られているのか。
何も。何も。解っていない。
(……こいつ、誘ってないならたちが悪すぎる)
今日ばかりは酔えないことを悔やんだ弦月。ぱっくりと大きく咥えて飲み込んだ孝臥は、ふにゃりと笑いながら弦月を押し倒す。ソファの上で逃げ場のない弦月の様子を満足気に眺めた孝臥。
弦月の頬に手を伸ばし、頬を撫で、頭を撫で、首筋に顔を埋め。まるで恋人同士がするような身の触れ合いに、さすがの弦月の笑みもどんどん崩れて、焦りと動揺が表面に浮き彫りになる。
「お、おい、孝……」
「なぁ、弦」
「なんだ……?」
「俺、弦は嫌がると思うけど、弦のことがずっとずっと、好きなんだ……」
「……っ」
こいつが酔っていなかったら。
こいつがシラフだったら。
そんなにも甘ったるい瞳で見つめて、熱を孕んだ吐息で耳を擽るなんて。ずるいに決まっている。
「……孝」
「弦……?」
頭をぶつけないように押し倒し返して、がしがしと頭を掻く。
(あー。ほんと……)
こんな筈じゃなかったのに。
余裕綽々で大胆で、何を考えているかわからない弦月。その皮を被り続けて、いつかとっておきの告白をしてやろうなんて考えていた筈なのに。孝臥を前にすると、どんな飾った言葉よりも、真っ直ぐに向き合うことが一番気持ちが伝わるのではないか、なんて思わされてしまうのだ。
シャツに伸びた手をそっと下ろし。代わりに、孝臥の頭をわしわしと撫でて、笑った。
「……知ってる」
「……うん」
「知ってるから、安心して良い」
「そっか……」
「ああ。だからもう寝ろ。今日は疲れたろう、ありがとうな」
「弦のためだから……」
最後の最後まで、幸せそうに。愛おしそうに笑った孝臥。弦月の掌が離れぬようにと腕に抱きつきながら、規則正しい寝息をこぼし始めた。
そんな孝臥の様子を眺めて、弦月はようやく安堵の息を零す。ソファからずるずるとすべり落ち、胸の底から息を吐いて。
「…………危なかった」
手を出さないと決めている。嫌がることはしないと。互いの同意の上で、ちゃんとそういう関係になれてから。
夢見がちかもしれないけれど、きっとそれがお互いのためなのだ。無防備な唇に噛みつかなかった己を褒めてやりたい。
孝の髪を撫でて、そっと口付けを落とす。
いつかはその唇にも、ちゃんとキスをするのだと、空に浮かんだ満月に誓って。
●
「……あれ、なんで俺こんなところで寝て……?」
「……起きたか」
「弦……? おはよう」
「おはよう。お前、昨日俺がどれだけ大変だったか……」
「……そ、外で寝落ちたのか? それは悪かった、重かっただろう」
(…………違うんだけどなあ)
ちゅんちゅんとすずめはからかうように鳴いて。頭をぼさぼさと掻いた弦月の瞳のしたには隈がうっすらとにじむ。
「まぁ、そうだな……次はきっちりお礼してもらうから、今回だけだぞ?」
「お、おう……? 昨晩は迷惑をかけたな……」
「本当にな!」
けれど、昨日したことされたことを孝臥が覚えていたら、きっと今のように和やかに話すことも出来まい。
(……俺だけの秘密だな)
ふっと溢れる笑み。その意味を知らない孝臥は、ただ首を傾げ続けたのだった。