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薄明のBlack Swan
登場人物一覧
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何処かの国。
人々が行き交う大通りから、身を隠すようにして。
二人の少女の影が裏路地の壁にシルエットで写されていた。
「クスクスクス、知っていて?」
「ええ何を何を?」
「知らないの、ブラックスワン」
「ブラックスワン? ああ、世界がまだぼんやりとしている頃に現れる”あの”?」
「そうよそうよ、そのブラックスワン。噂だと、呪われているらしいの」
「呪い? 嘘よ。私は憑りつかれているって聞いたわ」
「憑りつかれているって何に?」
「さあ何でしょうねクスクスクス――」
会話が進むごとにシルエットはジャスチャーをして動き、やがて、ス――と大きな建物の影へと消えていった。
………かちゃり。
『お道化て咲いた薔薇人形』ヴァイス・ブルメホフナ・ストランド(p3p000921)が、カップソーサーに紅茶の入ったカップを置いて、ゆっくりと瞳を開けた。
此処はヴァイスのギルド『ローズ・クラウン』。
朝方で、小鳥の囀りだけが響く庭園の中で。アンティーク調の椅子に座りながら、ヴァイスは遠くを見つめている。何か思考をしているようだが、それが纏まらないのだ。まるで記憶に薄い靄がかかっているかのように。
「ブラック・スワン……?」
ヴァイスは静かにその名前を呟いた。
何処の国で聞いたかもう覚えていないが、噂好きの少女たちが甲高い声で何度も繰り返し読んでいた名詞だ。
噂好きの若い女性は多い。波紋が広がるように、噂は天と地を駆け抜けて、あの街中に広がっているのだろう。
しかし。
「どこ、だっけ……」
ヴァイスはあの噂好きの街で、ブラックスワンという単語を耳にしたのは『久しぶり』であった。
もっと違うどこか。別の場所で、あの名前を聞いていたような気がするのだ。
とういうのも、ヴァイスは混沌の世界から与えられたギフトで、否応なしにあらゆるものと意思疎通が出来る能力が備わっている。
気づけば壁とだって疎通が出来るし、知らないうちに話しかけられていた事もあった。
生きている人かと思えば、残留思念や、霊体であることも少なくは無い。
故に、心当たりが多すぎて逆に判らないのだ―――はて?? ブラックスワンとは??
何処の何者が言った言葉であっただろうか。
それが心の奥に引っかかっていて、取れないところに引っかかってしまった魚の骨のようなものになっていた。
何かに突き動かされるように、薔薇人形は独りの茶会の席を立つ。
いや、厳密には彼女の周りには彼女しか会話ができないお友達ばかりであったのだが。その声を振り切って、ヴァイスは噂を辿ることとなった。
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繁華街は色々な音がする。
行き交う人々の音、無機物の声、動物たちの世間話。どれを取っても、音を声や文字情報として全て吸収してしまうヴァイス。
そのボリュームの大きい声たちの中央で、ヴァイスはゆっくりと優雅に歩いていた。
あの声は、あの名前は。どこで――?
歩き流れではあるが、ブラックスワンという単語を街並みから探し出すように警戒しつつ。
すると、クスクスクスと笑い声がヴァイスの耳に届いた。
『ブラックスワンはね』
『せかいがぼんやりしている時刻に』
『しか』
『あらわれない』
『ノですヨ』
びくりと球体関節が揺れた。ヴァイスは思わず周囲を確認する。
今のはどの無機物の声なのだろうか。
今のは一体誰の声なのだろうか。
今のは人間の声なのだろうか。わからない。
からかわれているのだろうか――それなら少しタチが悪い意地悪ばかりだ。
輝きを放つオッドアイの瞳が、いくらか悲しい色を差し込ませていた。
どうやらブラックスワンとは、たぶん、おそらく、存在しているらしいのだが。
でもどうして?
私は、その名前を追っているのだろうか――疑問がヴァイスの心に刺さった針のように残る。
ふとその時、肩を叩かれたような気がした。
「だれ?」
勢いよく振り返ってみたが、人々が行き交う喧騒があるばかり。
誰。
誰なのだろう。私を導こうとしているのは――そのブラックスワンって、なあに。
コワイもの?
アブナイもの?
それともアマイもの?
タノシイもの?
「ブラックスワン……」
極々稀にではあるが、このヴァイスも狂気性を伺える時がある。
しかし訳も分からないものを追っている自分のこの行動は、今は、己が狂気に突き動かされているのではなくて、別の何か――第三者の狂気に付き合わされている感覚だ。それはそれで、腹立たしいような気もするが。
「……」
ヴァイスは一度人々の喧噪から外れて、郊外へ出ることにした。
此処は幻想。
少しでも歩けば静かな森だってあるのだ。そこへ、まずそこへいこう。無駄な雑音が無いその場所へ――。
薄明のブラックスワン。
―――ハッとした。
ヴァイスは空気を飲み込むように、肺に取り入れてから当たりを見回した。何故だろうか、その名前が頭をよぎったとき、何か敵意にがあるものに見つめられているような感覚があったのだ。
此処は遥か奥の幻想の森。
普段は立ち寄ることは無いのだが、ここはいくらか静かだ。
でも今の感覚は? 危険な感覚は?
いや、まずは心を落ち着けよう。胸に手をおき、深呼吸。
すると森の中で、普通聞くことが無い音に出くわした。誰だろう――誰かが、泣いている声がするのだ。
自分を呼んでいるような声色に、白すぎる洋服を纏ったヴァイスは森の奥へと入って行く。既に太陽は沈みかけ、それこそ薄明に誘われているように。
「あなたね?」
ヴァイスの手前には誰もいない。
けれど、ヴァイスはそこに意思があるのを感じ取っていた。
すすり泣いて、悲しい声。
嗚呼、これは女性なのだろう。
きっと生前は美しい声をしているのだろうね――だって、とっても綺麗な音を出しているのだから。
「貴方ね、私にブラックスワンと言ったのは」
虚空に手を差し伸べるように、ヴァイスは両手を仰いだ。形は無いけれど、きっとそこには何かが存在している。
魂というものがあるらしいが、今だ練達の研究でもそれは確立していない物体だ。
もしヴァイスがそこにあるものが魂であり、霊であると認識すれば、その眼前の意味不明は形を設けるのだ。
「一度、この森にふらっと寄ることがあったわ。依頼の帰り道だから気にしなかったけれど。
その時に、貴方は私たちへ語り掛けたのよね。その声、私以外には聞こえなかったの、ごめんなさい。
私は貴方の聲を覚えていたわ。
それでここに来た、ううん、導かれる運命だったのかもしれないけれど」
遠慮したような控えめの笑顔を浮かべて、ヴァイスは顔を横に傾けた。
目の前のものに、可能な限り優しい声で接し、けして刺激を与えないように。ほら、元来、霊的なものは刺激するとついてきたり、良くない事をしてしまう事が多いから。
でもそれは大体助けて欲しいからであって。故に、その『迷信』をあえて信じるならば問いましょう。
「私に、何か頼みたいことが、あるのではありませんか?」
森の中、すすり泣く声がぴたりと止んだ。
代わりに、今まで穏やかであった森が凶器にまみれたかのように強風に包まれていく。
木々が折れそうなくらいに曲がりながら上下に揺れ、耐えきれなかった葉や花が旋風に乗っていく。
髪の毛の飾りや、アクセサリーが飛ばないように身体を手でささえたヴァイス。その突風の中で薄っすらと瞳をあけたヴァイスは、風が一定の方向へ流れていくのが見えていた。
けれど、風の方向に相反して、風は、「そっちにいったらだめだよ」と伝えてくるのだ。
どうして、なぜ。
私をどうしたいの―――!!
一歩踏み出すヴァイス。行くのか、風の中へ。風が誘う、その奥へ。
『ブラックスワンはね、優しい人。でも』
ヴァイスの耳に女性の声が聞こえてから、それから彼女の声は一切聞こえなくなっていた。
代わりに踏み込むヴァイスの足。それは森の奥にある――とある湖へと繋がっていた。
『ブラックスワンはね』
「世界がぼんやりとしているといに現れるの――」
ヴァイスは空を見た。すっかり太陽が西の空に逃げ始め、茜色――いや、血のように赤い空が広がっている。東のほうでは既に星が出始め、不気味に白すぎる三日月が太陽の代わりにヴァイスを照らしていた。
湖面には月明かりが差し込み、そして不思議にも湖一帯はなんの音もしなかった。いつの間にか風は止み、そして虫や鳥、動物の足音さえもしないのだ。
ふと、ヴァイスは湖の中央に人がいることに気づいた。
背中に真っ黒な一対の羽をはためかせ、燕尾服を着た男性が。顔立ちはよく、髪の毛も濡れた鴉のように真っ黒で、しかし肌が死人のように白いのが際立っている。
湖面の中央でヴァイオリンの音色が響いていた。それが、静かに止むと男はヴァイスをじっと見つめ――。
ヴァイスは思わず、問う。
「だれ? ブラックスワン?」
「……?」
顔立のいい男は、暫く黙ってから、小さく笑みを零した。
「こんな所に、人が来るとはね」
「ええ、女性が……女性に導かれて。貴方……」
「ああ、最近恋人がね不慮の事故で。馬車にね、……」
「……」
「ああ、君に……そう悲しませるつもりは無かったんだ。彼女の声を聴いたのかい?」
「ええ」
「そうか、だから此処まで」
「ブラックスワンなのね」
「そうだね、そう呼ばれているらしい」
「そう。なら―――」
ヴァイスはアンラックアンジェを展開する。
かのブラックスワンに与えるのは、悪意の波動。いや断罪の一手。
紡いだヴァイスの魔法が弾丸となりブラックスワンへと放たれ――――やがて、その着弾する手前で、口端が裂けるまでブラックスワンは、笑ったのだ。
「命を無駄に狩る悪い黒は、この私が此処で終わらすわ」
ヴァイスの耳に、あの女性の悲しい声が響いていた。
ブラックスワンはね、とても優しい人。
でも悪いものに憑りつかれて、彼は魔へと堕ちたのです――。