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議題『わたしは卵を産むのでしょうか』
登場人物一覧
その日、エルピスは悩み続けていた。
人生にはいくつもの岐路が存在し、人々は選択を迫られる。聖女と崇められた難聴の娘が『神の聲』さえ聞こえなくなったと襤褸の如く納屋に押し込まれたときと同じく、歪な世界は生存が為に選択を迫るのだ。
そう、エルピスと云う名を与えられた元・聖女も人生の岐路に立って居る。
「あの……雪風さま。その……『たまご』とはどのように――」
「ああーーーっと! ごめん、エルピス。今日、俺、そのぷり☆ぷりの最新話があってアハハハ!」
手を伸ばしかけたそれを引っ込めてエルピスは雪風の背中を見送った。普段より表情がころころと変わる雪風ではあるが顔を真っ赤にしてエルピスでもわかる言い訳を並べ立てるのだから――きっと、言い辛いのだ。
(わたしが……物を知らな過ぎるから雪風さまも戸惑っていらっしゃるのでしょうか……)
その晴れの色の瞳には憂いを湛え乍らエルピスは「雪風さま、ごめんなさい」と独り、呟いた――
――呟いた、のだが。それを聞いていたのが我らが看板娘のユリーカ・ユリカだったのだ。
「どうかしたのです?」
「あ、ユリーカさま……」
刹那げに眉を寄せ、今にも泣き出しそうなほど肩を竦めた元・聖女。胡乱に周囲を見回すさまはある意味ではいつも通りなのだが……先程凄い勢いで顔を真っ赤にして走り去る雪風を見ていたユリーカは「けんかでもしたのです?」と首を傾げる。雪風の様な奥手男子がエルピスに何か粗相をする訳もなければ喧嘩も中々に珍しい事だろうという安定安心の認識であるユリーカは悲し気な表情で俯いた儘のエルピスを心配するように手を引いた。
「ボクで良ければ聞くのです! ローレットではボクがエルピスさんの先輩なのですから!」
ふふん、と。可愛らしいドヤ顔は先輩風を吹かせて嬉しいという意味も感じさせる。愛らしいかな、ユリーカ・ユリカ。彼女のその言葉を聞いてエルピスは手を引かれながら「え、と」と歯切れ悪く言葉を紡ぎ出した。
この時のユリーカは『きっと、エルピスが雪風の大好きなオタク趣味を知らず何だか気に障ることでも言ってしまったんだ』程度に考えていた。雪風が怒るとするならば、きっとそう、そう言う事なのだという信頼の許での想像だ。一先ずは温かなココアを用意して椅子に腰かけてお話を聞こう。それがきっといいとユリーカはエルピスへ振り返った。
「あの、ユリーカさまは、」
「はいです」
「その」
「……ど、どうしたのです?」
ユリーカは立ち止まりエルピスをつい、と見上げる。不安げな瞳を向け乍らユリーカさま、と呟くエルピスの手をぎゅ、と掴んで「大丈夫なのですよ」と安心させるように囁く。
「ユリーカさま、は、その、たまご」
「たまご?」
「たまご、は、何個、産みましたか……?」
ユリーカ・ユリカ。新米情報屋。かの稀代の情報屋たるエウレカ・ユリカが一人娘にしてギルド・ローレットの看板娘。
彼女はその経歴と愛らしさを全て塵芥とするかの如く冷えた声音で「は?」と云ったのだった。
「エルピスさん?」
「ッーーご、ごめんなさい! ぜ、前回はいつでしたか!」
「は?」
「う、産んだ際は、その、どんな調理を!」
ちょっと、とユリーカの制止を聴くことなく慌てたエルピスは「か、勝手に年頃になれば産まれるものなのでしょうか!」と涙を浮かべながらユリーカへと勢いよく問い掛ける。彼女の中には性知識やメカニズムに関しての理解は薄い事が一つ、共通の認識として存在しているが――いったい誰が、こんなことを教えたのだろうとユリーカはエルピスを見上げる。
「エルピスさん」
「は、はい……」
「まず、ボクはたまごは産まないのです」
「え……!?」
エルピスが口元を押さえ、そ、とユリーカの腹を見下ろした。立派な臍がある。その臍こそが胎生であるとでも言う様に――倫理という言葉を脳内に何度もテロップとして流しながらユリーカが小さくため息を吐く。
今日という日は保健体育の先生なのだ。エルピスという無垢なる元・聖女にきちんと教えなくてはいけないとユリーカは決意した。
「エルピスさんも、産まない方だと思うのです。
確かに、かの海洋の貴族派筆頭コンテュール家なんかは卵生であるだとか聞いたことがあるのです。本人自体も旅人の皆さんからすればハーピーと呼ばれる存在なのでそう言った事もあるかとは思うのです」
人それぞれなのですよ。その言葉にエルピスはほっと胸を撫で下ろす。もしも自身が知らぬうちに卵を産んでいたのだとすればそれは大問題なのだとでも言う様に悲しげな顔をして――「それでは、コンテュール……ソルベ様の御一家の様に卵をお産みになるかたがいらっしゃるだけで、わたしは……」とユリーカを見遣る。
「きちんとぽんぽんの中で大きくなって、立派な赤ちゃんとして育ってくると思うのですよ」
「そ、それでは……知らぬうちに母になっていた可能性は……」
「そんなホラーはないと思うのです。ボクもそう言った事例は幻想都市伝説File.15でしか読んだことがないのです」
安心させるかのように柔らかな声で告げたユリーカにエルピスは涙をぽろりと流してよかったと呟いた。
自身が産卵する運命にあると信じて居た彼女は『卵産んだことあるよね?』という問いかけを無意識にそういった事をしてしまっている自分が親のなき子供を作り出したという妄想にまで発展させていたのだろう。聖女として育った彼女には『そう言った親のなき子供達』を見る事も多かったのだろう。
「大丈夫なのですよ」
「ほんとうに……?」
「は、はい」
「けれど、わたしは卵を産むと――」
「……誰が、そんな」
慰めるような柔らかな声音が、凍った。ユリーカの若葉を思わす美しき瞳に陰りが差し込んで僅かな苛立ちの気配が宿る。人の声音をギフトで聞く事のできるエルピスにとってはその声音の曇りはダイレクトに伝わったようで怯えの気配を孕みながら「ええ、と」と言葉を絞り出す、そして――
ばたん、と扉が大きな音を立てた。幻想の街角、その一角に『彼』が居るという情報をキャッチして見せた敏腕情報屋(?)ユリーカは「こんにちはなのです」と溌溂な笑みを浮かべる。
「やあ、ユリーカ。それにエルピスもどうかしたのかい?」
「アトさん。今日も元気そうでボクはとってもとってもハッピーなのです」
「ユリーカ、一ついいかな? その楽し気な言葉とは裏腹に手にしている『バールのようなもの』は暴力的かつダンジョンアタックにでも使用するかのような硬質さを感じさせる気がする。それに、後ろのエルピスが泣き続けている事も気がかりだ。気になることばかりだけれど、一つずつ教えて呉れるかな?」
「ボク、とっても感謝してることがあるのです。アトさんって、是が非でも生き残る戦いを意識してるのです」
「説明になっていないと思う」
テーブルの上にそっとグラスを置いたアトが立ちあがる。にんまりと笑ったユリーカが手にしていたバールはない☆ないに使用するが如く非常に強固なものであった。泣き続けるエルピスは「アトさま……」と悲し気に眉を寄せている。
「エルピスはどうした?」
「……わたしは、卵を産まなかったのですね」
「ああ、それか。その話なんだけど、海洋に卵生の貴族が――」
ブンッと鈍い音を立ててバールが振り下ろされた。アトは「リジェネがなかったら死んでいた」とユリーカを見上げる。
何時もの愛らしい気配はなく暴君が如く其処に君臨したユリーカは「はい」とアトの言葉を促す様に笑みを浮かべている。いや、その仕草と表情が手にしたバールとミスマッチなのは……言うまでもないだろう。
「――いる事を聞いて、確かめに行ったんだけど。成程ね、飛行種も卵を産むんだ。それで、エルピ――」
ブンッとまたもバールが振り下ろされる。エルピスは意を決した様に「アトさま!」と声を張り、手をぎゅっと組み合わせる。
「わたしは、卵生ではっ、ありません……!」
酒場に響くエルピスの声に周囲の客がどよめいた。アトは参ったという調子でエルピスを見遣る。どうにも、彼女は涙ながらに「知らぬうちに産卵はしておりませんでした」と頭を覆うのだから新手の修羅場ではないか。
「わたしの卵を、アトさまに食べていただく事は……っ、できないのです……っ!
雪風さまも、わたしには教えてくださいませんでしたし、きっと、きっと、言い辛い事だったのだと……」
「いたいけな女の子を卵生だと教え込むだなんて悪い奴なのです」
泣き続けるエルピスを慰めながらユリーカはにっこりとアトへと迫った。
ああ、それでこうしてバールを握りしめて迫ってきているのかとアトはユリーカを見遣る。その鮮やかな空色の髪も、若葉の色の瞳も、曇り空の色をした翼だってどこからどう見てもローレットの情報屋であるのに――今は、暴虐の限りを尽くすモンスターにしか見えない。
「モンスター知識でも分からないな……」とぼやいたアトは両手をひらりと上げて降参を示したがユリーカはそれでは許さない。
「隙あり! なのです!」
――振り下ろされたバールは。
ローレットに程近い場所に或る木々の下を通りかかった雪風は「おーい」と呼ぶ声に顔を上げる。
「……? ……!? ア、ト、さ、ん……」
見上げれば、其処にはぶらりぶらりとぶら下げられたアトの姿。
「ど、どうし……」
「山田も逃げた方がいい。エルピスの卵生の話で『暴虐の限りを尽くす獣(ユリーカ)』がお怒りだ」
その言葉にゆっくりと振り向いた雪風は勢いよく走りだすのだった。