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――Benedictus.
登場人物一覧
――婚約を破棄したい。
その言の葉が紡がれたのは、時計の針が頂点を指す前の頃。
誰もおらぬ、互いにとって一対一の場で。
彼の瞳に――嘘偽りなど何一つなかったのだ。
●
「――そうか。婚約の破棄、か」
「はい。つきましては……その為の話を、と思いまして」
穏やかに降り注ぐ陽光。凪いだ風がカーテンを揺らして頬を撫ぜる――
此処は幻想貴族の一角たるファーレル家の屋敷だ。
そして――眼前。
『彼ら』の前に座すはファーレル家の当主たるリシャール・エウリオン・ファーレル。
幻想東部に領土を持つ……リースリットの、父だ。
「しかしその後はどうする。勿論分かっている事だとは思うが――ドゥネーブに関わる一連において後見人となっているのは、曲りなりにも『関係』があればこそ、だ。婚約の破棄となればソレは消滅する」
「――ええ。分かっているつもりです」
同時。そのリシャールの瞳に先にいるのは娘、リースリットと。
件の破棄を申し出てきたベネディクト=レベンディス=マナガルム、その人だ。
――ドゥネーブ領と、それにまつわるファーレル家の支援はかつてリースリットとの婚約が行われた頃から始まった。貴族社会である幻想においては『血縁』が特に大きな意味を持ち……故にこそ儀式的な意味でも契りが交わされる事の意味は絶大。
それがあったが故にこそファーレル家がドゥネーブの――つまりはベネディクトの立場への――後見人としての大義名分があった。
が。その婚約を破棄させてほしいと彼は申し出てきたのだ。
「しかし元々、ファーレル家がドゥネーブに積極的に肩入れする理由は無い筈」
「ふむ……それに関して否定はしない。他家の領地に『手』を伸ばしていると見る輩もいるからな」
「で、あれば解消によってその輩からの追及を躱す事もできましょう」
伯爵の地位にある家との婚約解消……
本来であればそれによる利益は考えられない。しかしこの国は――多少『マシ』になってきているとはいえ、貴族の国らしい『泥』もまた存在している国だ。泥に絡めとられぬ様にする事を重視するのであれば、伯爵家との強き縁を切るにも損ばかりと言う訳でもない。
……尤も。ベネディクトが斯様な提案をしてきたのは損得の領域が念頭にあるからではないが。
「一つ、確認しておきたいが」
故に。伯爵は――一息と共に。
「婚約の破棄は、私の娘に不足でもあったが故か?」
「――とんでもない。勿体ない程の人物です」
「では、理由は?」
そも、リシャールには疑問があった。
何故なのか? ベネディクトが破棄を申し出てきた理由は。
このままファーレル家との繋がりがある方が良い筈だ。かつてわざわざ一度試練を乗り越えておきながら自ら破談とする程の理由があるのか?
それとも『娘』そのものに原因があるのかと。
リシャールは視線を微かに動かし――リースリットの方へと向けて――
「――」
しかし。リースリットの瞳には清らかであった。
濁りなく。彼女もまたこの婚約の解消を受け入れている。
その意思が過つことなくリシャールにも感じ取れ……
「お父様」
そして。彼女もまた言の葉を紡ぐ。
……先日。彼から直接告げられた言葉に驚きは、なかった。
どことなく感じていたのだ。短くない程度には歩んできた時の刻みがあればこそ。
そして何より。
――好きな
真っすぐに伝えられた。それだけで十分だった。
互いに相手を嫌悪しているのではない。互いに相手を疎んでいる訳でもない。
ただ。『違う』のだと、そう結論に至っただけの話だ。
歩む道のりの傍らに芽吹く花の種類が。
ただ、それだけの事。
「なるべき事がなる時が来ただけの事です」
「……そうか。では、すくなくとも表向きはこちらから断りを入れる形にしておこうか」
そうでなくば色々と面倒だろうからな、と。
リシャールもまたリースリットの意志を確認すれば――吐息一つ零しながらも承諾する。
……彼らが子供であれば一蹴していたかもしれない。
領地の長としても、一人の人間としても。
手放しに出来ぬ存在であれば……
けれど。
「……『勇者』としても称えられた者を子供扱いする訳にもいくまい」
「そ、それは……お父様、パレードの事は――」
「紅炎の勇者、だったな」
炎。それはファーレル家にとっては特別な意味を持っていた。
……あまり宜しくない意味で、だが。しかしリースリットはその炎をこそ称えられた。
呪いであるはずの赤目が人々にとって新たな時代の象徴の一つとして盛大に。
あの日の輝きを誰が忘れられようものか。
「……」
口を動かそうとし、一瞬逡巡して。だけれども。
「――立派になった」
ありのままに、言の葉を紡いだ。
あの日。この手に抱いた小さな子が。
紅き瞳を宿し忌み子と周囲から見られた子が――
「お、父様」
刹那の声色。
そこに滲んだ言葉に、伯爵家当主としての強靭なる硬さは無かった。
瞳の奥に熱を感じていたのは――はたしてどちらであったか。
「……いえ、私は、ただ、ありのままに歩み続けただけです」
「それをなし得る重さは私も理解しているつもりだ。
――娘との縁を破棄する事を、後悔するなよ?」
「これから如何なる歩みを経ようとも、彼女の眩しさを忘れる事はないでしょう」
紡がれる三つの意志。
黒狼の勇者と紅炎の勇者――分かたれた二人のこれからが如何に向かうは知れぬ。
それでも、きっと。
これまでを後悔する事など決してないのだと確信している。
「さて……レイネン。いるか」
「――はっ。ここに」
「解消にも根回しが必要だ。先んじて書翰を用意しておけ――後で目を通す」
「無論です、心得ました」
さすれば、リシャールは己に仕える騎士であるレイネンへと声を。
傍に控えていた彼が動き出せば――最早流れは止まらぬであろう。
婚約解消の動きが始まる。話が行き渡るのも恐らくそう時間はかからぬ筈だ……
「……感謝します、伯爵。お手を煩わせる事になりまして」
「こちらには大した事はない――それよりも、これからだぞ」
勿論、分かっていますとベネディクトは応えるものだ。
形自体は穏便に纏まる。今後はフィッツバルディ派の貴族側として――協力関係に当たる事に成ろう。
つまりは対等な立ち位置と言う訳だ。無論、元来より貴族の立場であるリシャールと、イレギュラーズであり様々な事情の上にドゥネーブの代行となったベネディクトでは真に対等と言えるかは分からぬ――が。
互いに、幻想の為に努力を重ねていく心に偽りはない。
「――リースリット。すまない、これまでの事……本当に感謝している」
「ええベネディクトさん。大丈夫です、私も……同じ気持ちです」
そして――当事者である二人もまた、形は違えど同様だ。
婚約が消滅しても、これで全ての関係が絶たれる訳ではない。
同じイレギュラーズとして。一人の友人として、また歩みが重なる事もあろう。
『どうして』も『何故』も湧き出ない。
ただ正直に、貴方のありのままを応えてくれて――ありがとう。
――どうか、
貴方のこれからに幸運を。貴方のこれからに――幸福を。
時の刻みが彼らを動かす。
どこまでも、どこまでも……