SS詳細
春追いの花は折られない
登場人物一覧
⚫︎稲妻閃く
「ええい、これ以上言い合っても埒が明かん!」
「わかりました、じゃあ私は好きにさせていただきますね!」
ぴしゃりと一方的な終了を突き付ける襖から目を背けても、耳は去っていく足音を未練がましく拾う。彼のことだから向かう先はきっと道場だ。そこまでわかるのに、わからない。
——どうして私を受け入れてくれないのでしょう?
エルシア・クレンオータは彼との水を掛け合うような日々を想う。喧嘩をするほど仲が良いとも、愛の反対は無関心とも言う。ならばこうして言葉が返ってくる以上、心が向いているには違いない。それでも、一歩も譲らずに愛を説き続ける自分を勝者と喜ぶのはいい加減難しく、このままでは進退窮まるという点については同意せざるを得なかった。尤も、退くつもりなんて彼女にはこれっぽっちもないのだが。
そう悶々とする耳に、失礼しますね、と涼やかな声が届く。再び開かれた戸から覗いたのは見知った顔だった。
「あら、エルシアさん、ご機嫌よう。幻介様はどちらに?」
思わず言い淀んだのは件の彼、咲々宮 幻介の名が出たからだ。この庵の主なのだから所在を問われるのはごく当たり前のことだというのに。
「……先程、鍛錬に向かわれたようですけれど、澄恋さんは」
どのような御用向きで、などと訊くのは実に配偶者らしい対応だが澄恋の薄紫は慮る色を滲ませる。何事かを察しながらも何でもない会話を続けたのは優しさだったのだろう。しかし。
「わたしは夕餉の支度です。これこのように今日は立派な南瓜が手に入りましたし、シンプルに煮物にしようかと」
「なるほど! 澄恋さんのような方が身近にいらっしゃるんですから、妻には事足りてしまうのも致し方の無い事ですね! ええ、ええ! 古今東西、男の心を掴むには胃袋からと言いますよね? ね!」
ぐわしと南瓜ごと両手を取られた澄恋はエルシアが畳み掛けるのに押されるまま頷くしかなかった。
愛しい人に美味しいご飯を。これはまさしく天啓、神のお導きだ。雷でも走ったかと錯覚するほどの衝撃に頭を打ち抜かれ、恋する少女は思い出したのだ。長命種たる者の知恵は詭弁を弄するためだけにある訳ではないことを!
⚫︎厨に熾る
思い立ったが吉日。即プランを練り始めるエルシアの瞬発力は導火線の短い爆発物にも勝る。しかしその火力を以ってしても、真っ先に立ちはだかったその壁は容易に吹き飛ばせそうにはなかった。
「リスの捌き方とかでしたら解るのですけれど……」
残念ながら彼女が知る料理はサバイバルな方面に偏り、一般的なものとは言い難かったのだ。長く森に生きた賢い幻想種であるが故の壁である。
こうなったら誰かに教えを請うべきか。一体誰に、と考える間も無く求めた人は余りにも近くに、なんなら最初から目の前にいた。渡りに船というか船頭が船を担いで来た勢いだった。
いざ、
揃いの割烹着を身に付けたエルシアに、袖を襷掛けした澄恋は持ち込んだ食材を前にして講義する。
「何より大事なのは段取り、作ることそのもの以上に準備と後片付けが物を言う世界です」
献立は予め考えておくこと。必要なものは全て手の届く場所に出しておくこと。慣れない所であれば特にこの2点は外せないと言う。
「例えば菜箸が見つからなかったとして。調理しながら探すうちに焦がしてしまうなんてことになったら、とても残念なことでしょう?」
包丁、まな板、鍋、おたま、菜箸など収納場所を共に覗き込んで調理器具の位置を確認した次は献立の説明に移る。
「和食は炊いたお米を主食に一汁三菜が基本ですね。最低限は一汁一菜ですけれど、白米ばかりでは患ってしまうこともあるとか」
花嫁たる者、旦那様の健康には気を配っておきたいものです。そう口を動かしながら手も動かす。動調理台の上には今、銀色のボウルがひとつ置かれていた。
「とは言え、一度に聞いても忘れてしまいますし。順番にやりながら、繰り返して手に覚えさせていきましょうね」
「はい、先生!」
良き花嫁を志す真剣な眼差しに応えぬ者はプロ失格。澄恋は持ち得る知識の全てを伝授するべく微笑んだ。
汁物にはお味噌汁。肉や魚の主菜に、野菜や茸などで副菜2品。事前に組み立てていた献立に少しだけ手を加え、どの食材で何を作るのかをざっくりと教えてからは実演に移る。
まずは主食、米の研ぎ方からだ。きっちり計量された米をボウルに入れ、これが美味しいかどうかが和食の肝なのだと澄恋は語る。
「お米は乾燥していますから、研いでいる間も水分をぐんぐん吸います。この時に汚れも一緒に吸ってしまわないよう、ここからはスピード勝負ですよ」
湿らせるために水で濯ぐ。それから、しゃっしゃっと指を開いて軽く掻き混ぜ、また濯ぐこと数回。白濁から半透明になったならしっかり水を切る。宣言通りに無駄な動きの無い白魚の指先が真冬の冷水に赤らんでいた。
「このように桶に溜めておけば、研ぎ汁は食器の浸け置き洗いや野菜のアク抜きにも使えますよ」
「なるほど。次はこれを炊くのですよね?」
研いだ米に再び水を注ぐ姿を見てエルシアが問えば返る答えはNOだ。何故、最初に米を研ぐのか。炊く前に給水の時間が必要だからである。
「焦らず騒がず約1時間。夏場であればその半分で構いません。しっかり浸ければふっくらツヤツヤそれだけで食べられてしまう魅惑の白米が炊けるというもの!」
ごくり。喉が鳴るのは未だ見ぬ美味への期待か、それとも『他には何も要らない』というフレーズへの渇望か。判別の付かない思いと共に頭の中に刻むエルシアであった。
和食の肝その2・昆布と鰹節での出汁の取り方の後、野菜の下拵えに取りかかるふたり。まな板の上には南瓜が堂々たる風貌で横たわっている。よく聞いておいてください、と前置きした澄恋が叩いてみせたそれはコンコンと小気味良い音を返した。
「ずっしり中身が詰まっている証拠です。旬ですから特に栄養もたっぷり、食卓の彩りにもなりますよ」
硬い皮は慣れないうちは怪我をしかねないので半分にするのは先生の役目らしい。ヘタを避けて包丁の中央を当て、刃全体へ力を加える。現れた綺麗な黄色の断面を下にして皮を所々削ぎ落とすのは、味が染み込みやすくするためだ。
ここからはもうひと揃いのまな板と包丁の出番だ。一緒に角切りしながら煮崩れ防止に角も落としていく。それが終わればじゃがいもの皮剥きだ。四つ切りしたらこれも面を取り、変色防止で水に晒す。次は玉ねぎをくし切りと薄切りに。
「こうしてきちんと研いでおけば切る時に目も染みません」
刃紋の乱れは心の乱れ。日頃から道具の手入れを怠らないのも台所を預かる者の使命だ。
「確かによく切れますね。すとん、と落ちるように」
包丁の腹の艶めきの上でエルシアの薄紅色が妖しく燃える。それも刹那のことだったが。
人参は乱切り、それから千切りにし、皮も細切りにして金平牛蒡に使うようだ。生ごみを減らして環境にも配慮する、まさにエコ花嫁の鑑である。栗鼠を捌けるだけあって、ここまでエルシアの刃物の扱いも問題なさそうだった。
「それぞれに切り方が沢山あって奥深いですが、こんなに多種多様なのには何か理由があるのでしょうか?」
「目の付け所がグッドです! 同じ煮物に使うものでも食材毎に火の通りやすさが違ったりですとか、献立によって変わります」
食感の違いを出すために敢えて大きく切ったり、見栄えのために形を揃えたり、食べる人に合わせて調節したり、その工夫ひとつひとつに愛情が籠っているのだと説けばエルシアの顔はぱあっと明るくなった。
「つまり体の内側へ直接愛情を伝えられる訳ですね! これは頑張り甲斐があります!」
ジュウジュウと鍋の中で油が躍る。牛肉が色を変えていく。玉ねぎ、人参、じゃがいもに油が馴染むまで炒め、砂糖と酒、出汁を加えてひと煮立ち。
「こんな感じで大丈夫でしょうか?」
手解きを受けながら木べらを握るエルシアの横で、じゃがいもに串を刺した澄恋がゴーサインを出す。最後に醤油を回しかけて、じゃがいもがもう少し柔らかくなるまで煮たら1品目の『肉じゃが』の完成だ。和食手料理の定番ですよね、と澄恋が本来のメインから変更したものだ。幻介の元いた時代よりも後の料理の筈だが、混沌世界に来て長い彼なら食べ慣れないということもないだろう。
エルシアが苦労して削ったささがきの牛蒡は水でアク抜きされ、これと人参の皮を胡麻油の香る熱したフライパンへ。しんなりしたら砂糖や醤油などを合わせておいた調味料で味付けし、汁気が飛ぶまで炒めたら『金平牛蒡』もあっという間に出来上がった。
「流石の手際ですね、澄恋さん!」
称賛の言葉と共に送る視線は澄恋の手元から離れない。見て盗むのも勉強のうちだと彼女の教えを余すこと無く吸収していくエルシアの頭こそ、流石の回転率だった。
「……どうして、今回の話を受けてくれたんですか?」
『南瓜の煮物』の鍋がコトコト鳴るのを聞きながらエルシアはぽつりと尋ねた。
澄恋に指南を頼んだのは幻介と男女の関係ではないから構わないだろうと思ったからだ。その場の勢いがあったとはいえ実際に快諾してくれたのだし、そこは間違っていないはずだ。ただ、それならばここまで熱心に付き合ってくれる理由だって彼女には無いのではないか。そんな疑問だった。
「幻介様、食事になんか気を使わないんですよ」
彼女が語るのは家政婦の真似事をし始めた頃のこと。
「放っておけばそこらに生えている野草を食べていたりして、見るに見かねて手を出してしまったのですけれど」
花嫁修行にも打って付けでしたしね。そう困ったような、懐かしむような笑みを向けて。
「わたしにとっての旦那様のように、彼を想って料理を作ってくれる方がいるのでしたらそれが一番良いのではないかとも思うのです」
お料理を習うのはいかにも花嫁修行でしょう、と。核心は暈されていても伝わるものがあった。エルシアが頷いて返せば澄恋も普段通りの雰囲気に戻る。
「体を動かす方にはたんぱく質が欠かせません。今日は『鯵の南蛮漬け』にして添えましょうか」
煮物に味が入るのは冷めていく過程だ。ほっくり火の通った南瓜を一旦寝かせ、メインに使う筈だった魚を取り出した。
栗鼠がいけるなら恐らく3枚おろしも楽勝だろう。まな板の上には新聞紙を敷き、鱗を取る。特にぜいごと呼ばれる尾の付け根の硬いものは削いでおく。胸鰭を立てて刃を入れたら反対側も同じように。そのまま中骨を断って頭を落として——エルシアは一工程ずつ丁寧に包丁を滑らせる。
「形が崩れてしまった時はたたきやつみれにしても……と、その心配は要りませんね」
小骨も残さず取り除かれた綺麗な切り身は十分に合格ラインだった。
鯵を任せた澄恋は赤唐辛子の種子を除くと調味料と合わせて甘酢を用意する。薄切りの玉ねぎと千切りの人参を炒めたら漬け、後は主役を待つばかりだ。
削ぎ切りにした鯵に塩を振って置いたものの水気を拭き取る。両面に塩胡椒、薄く小麦粉を塗し、深めの油で揚げ焼きしたなら甘酢の中へ加えて味を馴染むのを待つ。跳ねる油にきゃあきゃあ言いながら、これで4品だ。
「最後に汁物ですね。『お味噌汁』はプロポーズの文句にもなるくらい大切ですよ」
出汁と小口切りにした長葱を小鍋で沸かし、豆腐を加えるのだが。
「澄恋さん!?」
徐ろに掌の上の豆腐へ包丁を入れ始めれば驚くのも無理は無い。対して澄恋は悪戯が成功したと言わんばかりのにんまり顔だ。
「ふふ、押したり引いたりしなければ切れませんよ。これも包丁を研いであるからこそ出来る技です」
すっと垂直に下げて上げるだけですよ。賽の目に切られた豆腐を鍋に落とし、ひらひらと手の無事をアピールして見せればエルシアは「もう!」とちょっとだけ照れたように怒るのだった。
戻して置いた乾燥わかめ、味噌を溶き入れたら風味を飛ばさないためにはもう沸騰させてはいけない。椀に盛る前に温め直す時にも注意だと教えた澄恋は土鍋を取り出す。
「お待たせしました……炊飯と参りましょう!」
給水させた米を土鍋に移して火にかける。火加減は強めの中火で、ゆっくり沸騰するように調整してある。沸いてきたら弱火にして10分から15分。さっと中を確認して表面に水気が残っていなければ火を止め、10分程度蒸らす。言葉で聞くだけなら複雑でもないのに、水加減に炊き加減と完璧を目指して試行錯誤するのが土鍋炊飯道である。
「それで、幻介さんはどんな『白米』がお好きなんでしょう?」
その何気ない問い掛けに澄恋は笑みを崩さぬままに首を振る。曰く——意中の方の好みに合わせたい気持ちはわかりますが、まずは基本に忠実に。同じ味を作れるようになってはじめて自分の手と舌でアレンジしていけばいい、と。
「型破りは型があって初めて成り立つもの。寒い日には生姜を足して温まってもらおうだとか、暑い日に梅で和えれば食が進むかしらだとか、今日は特に汗をかいてらしたから少し塩多めにだとか。ちょっとした気遣いをしてあげるには『いつもの味』がなくては始まりませんよ?」
それは今日の花嫁修行において最も大切な言葉だったように思えた。
⚫︎蕾へ届く
夕餉の刻限だと鍛錬を切り上げた幻介は居間へとやって来る。用意された箱膳には今日も変わらず専門の料理人が拵えたような品々が並んでいた。
「成る程、今日は肉じゃがか」
立ち上る湯気を吸い込み、ひと口。ほろほろと解れる芋と牛肉の旨みの中、微かに拾った違和感にぴくりと眉が揺れる。しかしそれも一瞬のことで、何を言うでもなく白米を運ぶ箸は止まらない。
人参。玉ねぎ。鯵。味噌汁。あんなに燃え盛っていた気持ちは鳴りを潜め、エルシアは自分が調理した食材達が彼の口へと消えていくのを見送る度にぎゅうぎゅうと胸が押し潰される心地でいた。
いっそ目を瞑ってしまおうかとすら思った頃、かちゃりと箸を置く音がしてハッとなる。静かに立ち上がった幻介の席の膳は椀も皿もすっかり空。全て腹の中に収まったことは明白だったが、何も言わない背中は「余計な真似をするな」と言っているようで——
「まあ、悪くはないのではないか?」
——そのたった一言を残して閉まる襖は、今度は優しい音を立てたのだった。
おまけSS『プロ花嫁の今日の献立・おさらい編』
⚫︎白米
まずはこれを美味しく炊けるかどうかが肝!
冷や飯になってしまいますが、1日分をまとめて炊いてお櫃に残しておく習慣もあったようですね
お夜食用におにぎりにしておいたりもします
出汁を取った昆布を佃煮にしたものを具にすると無駄が出ませんよ!
⚫︎沢庵
メインディッシュが花瓶に生けられた色とりどりの大輪の花ならば、薄く丁寧に切り揃えられた沢庵は素朴な野花です
忘れてはならない友
ご家庭ごとに少しずつ違う、ほっとする味
いずれは自分で漬けられるようにしていきましょうね!
⚫︎味噌汁
菜は減らしても汁は付きますし、具材ひとつでバリエーションが出せるのは大きいです
発酵食品を必ず摂るのにも役立ちます
今回の具材は豆腐とわかめ
豆腐は冷奴として添えたり、寒い日は湯豆腐にしたり、潰して白和にしたり
元は豆なので栄養も豊富ですし、和食といえばな食材ですね
不足しがちなミネラルは海藻や貝類が良いです
ひじきや海苔など、何かしらで加えましょう
今日は用意がないですが、貝類は精の付く栄養もたっぷりですよ
⚫︎肉じゃが
和食の手料理ならば定番
人参、じゃがいも、玉葱、とお野菜の切り方や煮込み方は他の料理にも応用できますから初級編にもぴったりです
白滝を入れても美味しいですよ
⚫︎鯵の南蛮漬け
お魚でタンパク質をちょっぴり追加しておきました
サイズも程よく、身が崩れてしまっても応用しやすい
お魚の調理には鯵で慣れるのがおすすめ!
さっぱりとした味わいに食が進むこと請け合いです
⚫︎金平牛蒡
これまた定番ですが、箸休めに
いろんなお野菜の皮で作ってお気に入りを見つけましょう!
⚫︎南瓜の煮物
冬至は過ぎてしまいましたが、まだまだ旬ですし、黄色はビタミンの色ですから
彩りにも良し
旦那様には風邪を引かないでいて欲しいものです
⚫︎今日のワンポイントアドバイス
煮込む間や扱う食材を変える際には小まめに手洗いを!
また、隙間に洗い物をしておく余裕が出来てきたら貴方も立派に料理をする人です
さぁ、継続は力なり、ですよ!