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鏡の中の奥の奥
登場人物一覧
水月鏡禍は妖怪である。
鏡の奥底に潜み、鏡から鏡へと飛び周り外界を見る。
鏡に映った景色に干渉して物を動かす。もしくは姿を現したり幻覚を映し出して人を脅かし、その恐怖を糧として生きてきた。
ここ混沌でこそ旅人と呼ばれているが、自分の種族は変わらない。そのはずだ。
与えられたギフトも『鏡面の中には自分はいない』ことを示している。
たとえ恐怖がいらなくとも。何かを食べることができても。誰かに、何かに触れ香りを楽しむことができるようになったとしても。
水月鏡禍は人間にはなれない。ずっと人と共にあることもできない。
「はぁ……」
ベッドに一人転がって溜息を吐く。両手で顔を覆うとあの時自分に向けられたウインクが見えた気がして、慌てて目を擦る。
目を開くとぼやけた視界にいつもの埃っぽくて薄暗い天井が映った。もちろんウインクの主などいるはずがない。
当然だ、ここは自分の部屋で来客などないのだから。
「結局、味がよくわからなかったな……」
ベッド脇の机に目を移してため息をもう一つ。机の上にはかつてトリュフの入っていた箱が置いてあった。大変お高い、有名な銘柄のそれである。中身はもらったその場で食べたものの、捨てがたくてそのまま持って帰ってきてしまったのだ。
が、肝心のトリュフの味はよくわからないまま。
間違いなくもらったその場で封を開けて食べた。その銘柄の平均的なお値段を思い出して驚いたのも覚えている。しかし、味が全く思い出せない。、
甘かった……ような気がするが、単にチョコレートだからそう認識しているだけに過ぎないかもしれない。いや、そもそもどんな色をしていた?
そう思う程度には全く覚えがなかった。理由はわかる。味よりも気持ちを奪われるものがその場にあったからだ。
チョコレートをくれた、彼女だ。
悪戯っぽいウインクが、言葉が、自分を引き付けて止まない。
振り回されている自覚は、ある。彼女はきっと自分のことをどうとも思っていないだろう。少なくともそんな対象に見られているはずがない。
ただ、わかっていてもその笑顔を見ているだけで頬が熱を持つことをやめられない。自分だって馬鹿ではない、これが何を意味するのか知らないわけではない。
……けれど。
「口に出せやしませんね」
苦笑する。自分は妖怪だ。本来なら命は奪わずとも人に害をなす存在で。忘れられない限り永久に生き続けるもの。
この気持ちが本当なのかもわからないし、本当だとしても口にするなど人である彼女にとってはきっと、迷惑だ。
人は人と共にあるのが相応しい。自分は人と共にあることのできない異端な存在なのだから。
不意に昔、鏡の中で見た光景を思い出す。
姿見の前で頬を桜色に染め、嬉しそうにくるくる回って着物を見る女性。愛しい人に会うのだと時間をかけて髪をとき、化粧をして。そんな女性を何人も見てきた。
結末は、いろいろ。
そのまま結ばれ、別の鏡では子供を抱き幸せそうな姿を見せるもの。
失意に沈み、一人泣き崩れるもの。
怒り、だろうか。鏡をかち割り大騒ぎになったこともあった。この時ばかりは逃げ出したから結末は知らないが。ろくなものではないのだろう。
同じ人でさえ想いを結び合わせるのは難しいのだと傍観者ながら思ったものだ。
妖怪仲間の中には人に憧れ、恋するものだっていた。
けれど誰一人としてうまくいかなかったと聞いている。
それはそうだろう。自分のように人を食わない妖怪ならまだしも、人食いの妖怪がその衝動を抑えられるわけもなく。愛しい人だろうが空腹時に見たらそれはただの餌だ。離れたところで人を喰らおうにも、いずれ怪しまれる。
人食いでなくとも異形の姿がバレた時点で人からは恐れられ、退治される。
隠し通すことなど到底困難。妖怪なんてそんなものだ。自分の生きざまを全うするのが一番幸せなのだ。
見てきたから自分が一番知っている。
そうだ、知っている。わかっている。嫌というほど見て、聞いてきた。
「わかってるんです」
だからこの想いに名前は付けない。わざと鈍く、馬鹿になって気づかないふりをする。
誘われるなら隣にいて、喜んで男除けにされよう。何気ない仕草で赤くなり、困ってしまおう。
振り回され続けよう、いつか良い人に巡り合うまで。からかわれ、おもちゃにされよう。そして巡り合ったその時は、そっと身を引き消え去ろう。
苦しくないといえばきっと噓になる。現に思い巡らすだけでチクチクと刺すような痛みが胸を走る。
でもこれが彼女にとって一番の幸せの形のはず、だから痛みも全部受け入れよう。
人に触れることのできる特別な状況にあるのは今だけであろうことを理解しているから。
混沌から離れるときがきたら、自分はまた鏡の中にあるべき存在として元の形に戻り、そして自分を見ることができるのがたった一人だけの孤独なあの世界に帰ることになる。
そこに当然彼女はいない。万が一いたとしても力を失い、弱り切った鏡の中の自分を認識できるわけがない。触れることも当然、叶わない。
力を取り戻そうにも人間たちの編み出した科学は自分の起こす現象をたやすく名付け、塗り替えていく。人が未知を恐れた時代には戻れない。
逆に自分と同じ鏡の世界に呼ぶことができたなら……少なくとも自分は幸せだ。孤独ではないし、いろんな鏡越しの世界を案内することができる。きっと彼女も楽しんでくれるだろう。
でもそれは自由を奪うことになる。触れることも食べることも、景色に見合った香りを楽しむこともできなくなる。そんなことは彼女が受け入れたとしても自分が望まない。
彼女には今のまま自由であってほしい。彼女らしく、生きていてほしい。
今だけ、というのもひどく不誠実だ。何より、一つ得てしまえばもっとを望むことぐらい自分のことだから、わかる。
転がっていたベットから起き上がり、これまでの思考を追い出すように首を振る。
「そんなことより、お返しを考えないといけませんね。確か三倍返しでしたっけ」
三倍かぁ……と呟く声に苦笑がにじむ。
何がいいだろうか、食べ物だとマシュマロが定番だったか。マシュマロセットがどこかで売ってたような気がする。
それとも値段と釣り合わせるようにアクセサリーのほうがいいだろうか。指輪は論外だし、ネックレスは首から十字架を下げているのを見たことがあるからなし。イヤリングぐらいならつけてくれるかもしれない。
色はどうしようか。赤は埋もれてしまうだろうから青や緑がどうだろうか。デザインもいろいろあるだろうから似合うものを探さなくては。
想像だけがいくらでも膨らんでいく。こうなってしまえば、先ほどまでの思考などまるで残ってない。
ただ純粋にお返しに高いものを期待されてしまったヘタレな男子、だ。
そう、今のまま、何も気づかない。動かさない。それが幸せだと信じて。
元の世界に戻ってすぐは、この世界での触れ合いを思い出して涙を流すのだろう。
力を振り絞って鏡を渡り彼女の痕跡を探し回るかもしれない。
いくつも作られた些細で幸せな記憶を何度も思い返して生きていくのだろう。
そしていつも願うに違いない。
どうか貴女が幸せでありますように、と。