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赤色の足跡
登場人物一覧
月を暗い雲が覆った。
柔らかな月の恩恵は、今はその路地裏には届かない。
そんな暗い路地裏を、ふらふらと歩く男が一人。
「良い夜だ」
──アラド・クーガー。
実力派として、いっときラサでは名の通った傭兵だった。
だが、ある男にその右腕と右目を奪われてから──彼は傭兵を引退せざるを得なくなった。
その頃から、ちょっとした仕事で日銭を稼ぎ、日がな一日酒を飲む、だらしない男に成り果てた。
『聞いたかよ。あいつ──』
『ああ、右腕と目を──』
さまざまな噂が彼の横を通り過ぎた。
それでもアラドは、ひたすらに黙していた。
(野良犬がまた吠えてんな)
スルーできるところはスルーして、気に入らなければ消せばいい。
冷酷な考えをその軽薄な仮面に隠して、アラドはただ酒を喉奥に流し込んだ。
いい感じに酔いも回り、さてと酒場を出て、路地裏に差し掛かったとき。
前から四人の男。
「よお──何処行くつもりだあ?」
「あん──?」
声をかけてくる。見覚えはない。
だが、そのならず者のような風貌からして、まあ『そういう連中』だと見当を付けていた。
「へっへっへ」
──さらに後ろから四人。
(面倒くせえなあ──)
各々、手に武器を遊ばせている。
見当は確信に変わる。『狙いは己』であると。
「聞いたぜ、クーガー。変な旅人に、その腕叩ッ斬られたってなあ」
下卑た笑みを隠そうともせず、リーダー各の男が嘲るように言った。
「てめえにはたんまりと借りがあるからよお──ここで一括返済してやろうって寸法よ」
わはは、と傭兵たちが笑う。
「俺は貸した覚えなんか無いんだがな。勝手にあんたらが借りてっただけだろ?」
すると、ワナワナと男の身体が怒りに震え始めた。
「覚えてねえってか……あの屈辱を! 俺のプライドをズタズタにした! あの時の事をッ!!」
「野良犬が何してたかなんて、いちいち覚えちゃいねえさ」
事実、本当に覚えていないのだ。この男の顔にも。
いや──興味がなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
「ふざけやがってぇえ! おめえら、掛かれ!」
リーダーの男は地団駄踏むと、後ろに控える者たちに振り返り、指示を飛ばした。
傭兵たちはおお、と野太い声を散らしながら、一斉にアラドに向かって走り寄っていく。
「仕方ねーな。遊んでやるよ」
狭い路地裏での戦い。数では圧倒的に不利。だが──。
前から振り下ろされる斧をするりと避け、後ろから伸びる槍先を屈んでやり過ごした。
愚かな『同士討ち』で二人の傭兵が冷たい石床に蹲る。
幾度も愚直な攻撃が飛ぶが、アラドはひらひらと避けていく。
片目を失った者は、戦いに必須な距離感やバランス感覚を失う事となる。
傭兵たちは困惑した。アラドの動きにそういったハンデは一切感じなかったからだ。
逃げを許さぬ挟み撃ちだったはずが、無為な攻撃で同士討ちになることを恐れ、傭兵たちは攻めあぐねてしまっていた。
「何やってんだ! 相手はたった一人、それも手負いなんだぞ!?」
リーダーの激が飛ぶものの、アラドには傷一つ付けられない。
「あーあ……こんなもんか。弱すぎるよ、あんたら」
つまらない。折角戦うのだ。熱くなれる何かを求めたい。それがアラドという男だ。
「ま、面倒くせえし──終わらせてやるか」
アラドは静かに腰に差す短剣を抜いた。
月光差さぬ暗き路地裏では、その刃は煌めかない。
「え?」
振るわれた音もなく。ただ黒い血が舞った。
「おめでたいねぇ……たかが右眼と右腕が無くなった程度で」
どぷり、と刃が肉に埋まる。
「俺との差が埋まるとでも思ったのかよ?」
「あぎっ──」
標的にされた男が、苦悶の声を上げながら倒れる。それがそのまま、彼の今生の最期の言葉になった。
嗚呼。そこにあったのは、ひたすらな絶望だった。
一人、また一人と倒れる。
「嘘だ、そんな! だって、こんな筈が──が、ぷっ」
刃が喉から伸びると、哀れな男が血を吐きながら地に頽れた。
端的に言えば、彼の実力は落ちてなどいなかった。
いや──むしろ、『更に上』の段階へと足を踏み入れているようにも。
「う、うわあああ!」
圧倒的な実力差に、恐れをなして逃げ出す者が居た。
「まッ、待て!」
「か、勝てねえ! バケモンだ!」
それから堰を切ったように、全員が武器を放り出して逃げていく。
「おっ。何だ、今度は鬼ごっこか?」
走る。走る。ごみを蹴り飛ばし、荒い息を吐きながら走る。
一人の傭兵が後ろを振り返ると、アラドの顔に一切の疲労は無く、いつもの薄ら笑いを張り付けていた。
「こわぁいこわいクーガーお兄さんがやってくるぜ? そら、早く逃げた逃げた!」
弱者を甚振る事に快楽は無い。
それではつまらない。追い詰められた者の『本気』が見たいのだ。
窮鼠猫を噛む──つまらぬ雑魚でも、『己に並ぶ』ほどのソレを持っているかもしれない。
期待はしていない。ただ可能性はゼロではないから。
何となしに石を蹴り上げる。
とんでもないスピードで蹴り飛ばされた石は矢の如く、逃げる男の足にぶち当たる。
「ぎゃあッ」
情けなく転んだ男に影が差す。
振り下ろされた刃が胸を貫く。肋骨をすり抜けて心臓まで届いた。
痙攣する男を見やる事もなく、アラドは次の獲物に走る。
そうして幾度と短剣を振るうと、もう残っているのは、あのリーダー格の男だけだった。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ──ウウッ」
足がもつれて倒れこんだ男の前に、影から隻眼が浮かんだ。
切れた息を整える間もなく、尻餅をつきながら後ずさりする哀れな男。
「で? 借りはいつ返してくれるんだ?」
そう問うと、男は涙と汗でグチャグチャな顔をゆがませ、必死に頭を石床にこすり付ける。
「嫌だ、嫌だ、助け、お願い──」
舌打ちした。
「この期に及んで命乞いか。惨めだねえ」
ま、生かしてやる義理もないけどな。
──そうして、無慈悲な刃が振るわれた。
「やれやれ、リハビリにもならないか……無駄な時間を過ごしたな」
血だまりの中、アラドは呟いた。
結局、追い詰められた者の『一撃』は見れずじまいだった。
つまらない。つまらない。
やはり、あの男しかいないのだ。
俺をここまで燃え上がらせるのは。俺を生まれたての小鹿みたいにできるのは。
アラドの目標は鬼・迅衛──ただ一人。
こんな場所で、こんな屑どもを相手に足止めを食らっている暇はない。
ぎらついた闘志を隠そうともせず、アラドは満たされぬ何かを求めるために旅に出た。
もっと強く。もっと高みへ。
アラドは男の屍を無造作に蹴り転がし、血を踏み、赤に染まった足跡を路地裏に残していった。