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【五千十九年の因業:序】

登場人物一覧

仙狸厄狩 汰磨羈(p3p002831)
陰陽式
仙狸厄狩 汰磨羈の関係者
→ イラスト


 一つの季節があったんだ。

「君は本当に可愛いな、白瑩」
 首筋をなぞられる。『己』がいるのは主人の膝上。
 陽気なる日光を浴びながら――春の風を感じている最中だった。
 腕に包まれ、依然として首を擽られ。目が弓なりになってしまえば。
「ははは。撫でると本当に気持ち良さそうにするよねぇ――君はここが弱いのかな?」
 そうではない。御主に触れられるのならばどこでも『こう』なる。
 誰でも良い訳ではない。
 御主が良いのだ。
 御主のその手が良いのだ。

 ――彼女の名は琳瑯公主。この国の帝の娘。

 そして私の主人でもある。そう何を隠そう、この『飼い主に幸運を齎す』瑞獣である白瑩の――あ。待て琳瑯。そこはいけない。そこはおおッおぉぉぉうッ、だ、だめだ昇天してしま、琳瑯ぉんんん――!!
「ははははは、そぉーら白瑩。逃がさないぞ~?」
 腕と身の間。緩く挟まれ逃げられず。魔性の指先が白瑩の身を弄ぶ。
 先も述べたように彼女は皇族の血筋……であるのだが、そうである振る舞いは左程見受けられない。例えば作法を十全に、礼と信を持って他者と接する和の頂点者の気質は纏わず。あるいは威厳と圧によって他者を屈服させる覇者の気質も持ち合わせず。
 ――自由奔放。そうだ、彼女にはそういう言葉が最もよく似合うだろうか。
 かといってその自由さに浅ましさを感じた事はない。
 むしろ安堵する。彼女の声に、彼女の気質に。
 絹の様な抱かれ心地がそこにあったのだ。
「琳瑯公主様、公主様! どちらに在らせられますか! 指南のお時間に御座いますぞ!」
「――ああ煩い爺やめが来た。白瑩、ちょっとあの老木を引っ掻いてき……いかん、見つかった!」
 ただ、まぁ自由人故にか。彼女は自らが為したい事しかしたがらない。
 読みたい書を読み漁り、茶の風情を楽しみたく。それで万世過ごせれば良し。
 性に合わぬ剣振るいは軽く、困ったように顔を歪めて――まぁ大抵見つかるのだが。
「何故に、私が剣の稽古をせねばならぬのか。こういうのはもっとこう剣を振るう必要性がある者にだね……そうだよそうそう、ほら白瑩。白瑩に棒を持たせてやらせてみよ――」
「なーにを仰せられますか! 猫が棒を持って戦う必要性もそんな将来もありますまい! 全く、公主様はすぐにあれそれと……そもそもですな! これは陛下より賜りました命で……」
 分かった分かった百回は聞いたよ、と雑にあしらう彼女を横目に。
 太陽の輝きを受けて欠伸を一つ。
「――あぁ疲れた。全く理不尽の極みだよ、どうして誰も彼も私にさせようとするのか」
 数刻の後、彼女が隣へとやってきた。天を向いて吐息を一つ。
 分かっている。私は分かっているぞ琳瑯――私の柔らかさが必要だな?
「おお白瑩ー、撫でさせてくれ。というか顔を埋めさせて。モフっと、そうモフっと」
 御主はなんのかんのと言いながらも誰より努力しているからな。
 好みはあろうと一度たりとも投げ出さぬのは、私が今まで一番近くで見ているから知っている。ならば偶にはいいだろう、さぁ存分に私の柔らかさを知るがい……待て、待つのだ。思いっきり深呼吸するのは止めるのだ。吸引され、吸引される――ッ!

 もがく私。逃がそうとせぬ彼女。緑の波が遠くに見えて、舞った葉が鼻を掠めてくしゃみ一つ。

 ……ああ、とりとめなく過ぎていく季節があったんだ。春も夏も、秋も冬もそのように。
 彼女は彼女であり続け、私は『猫』であり続け。永久不変たるその日々は――しかし。
「おや。これは久しい顔がやってきたね」
 ある日、彼女は『客』を迎えたのだ。
 膝元でゆっくりとしていた私は薄く目を開け。
 ――『その男』を、横目に捉えた。

「久しぶりじゃないか――唆啓」


 奥の間――琳瑯の私室。
 そこは本来余人の立ち入れぬ場所。極一部の者達しか通されぬ、その場に三つの影があった。一つは部屋の主、琳瑯。彼女に付いている私。そしてもう一つが――
「……最近、都では人心の乱れが生じていると聞くね。過去に見た事のない病が民の中で流行り始め、隣人を信ずる事が出来なくなっているとか……」
「ええ。『もしかしたら』隣の者は病にかかっているのではないか? 『もしかしたら』隣の者を隔離せねば自分に病が移るのではないか――今は小さき火ですが、将来的には大きくなるかもしれません」
 唆啓。そう呼ばれた若い男だ。
 いや若い、とはそう見えるだけで実際の年齢は分からない。外見の割にはとても落ち着いた様子と、流暢なる言の紡ぎ。それらはとても浅い年月で構築されているように見えず――皇族たる琳瑯に物怖じしない様子からも只人ではない様子が伺える。
 ……まぁ年の話は些事だ、捨て置こう。
 とにかく重要なのは少なくとも琳瑯と対等に話せるだけの知性が彼にあるという事で。
「これらの問題はまだ帝の耳には入っていません。その下、宮内の間では『ただの流行り病』であるとの判断をしているようで……如何したものかと」
「ふむ、安心しろ唆啓。それに関しては既に手は打ってある――爺に書を持たせた。宮内の政治屋共への書をな。私の名と、後は幾分の餌も釣らせてある。解決に益があると思えば人も動こう」
 琳瑯は先述したように皇帝の娘だ。それなりの権力と、人脈を持っている。
 そんな彼女の書というのは言うに及ばず、絶大な効力だ。腰の重い輩であろうと無碍には出来まい。
「なんとお早い。流石ですね、既に病の事を調べていたのですか」
「……嫌な星が見えたんだ。今広がっている都の気は酷く不吉である、とね。
 事と次第によってはこれでも遅かったかもしれないけれど……」
「御謙遜を。しかしいや、やはり御身の下へ相談に来た『甲斐』があったようです。
 都の問題を解決できるとすれば……やはり御身でありましょう」
 唆啓はにこやかな表情で琳瑯公主を称えるが、彼女の気は晴れない。
 何故だろうか、未だに陰の気が抜けないのだ。これだけでは足りない? 或いはこれが陰の元ではないのか――どうしても心の底にしこりの様な何かが残っている、のだが。
「どうなされました? お顔が優れませんが……ああ、でしたらこちらはどうでしょう。東の国でだけ栽培されているという珍しい茶葉を入手しましてね。気晴らしに最適かと」
「――相も変わらず唆啓は用意が良い。元より土産として持ってきていたんだろう?」
「さて……しかし公主様、都の事に心を淀ませるお気持ちは分かりますが、沈み過ぎてはなりません。心が淀めば、やがて身をも蝕みましょう」
 だから、と唆啓は言葉を続けて。
「さぁお一口どうぞ。温かな飲み物こそ神経を和らげます故に……」


 ――ふ、と。私は意識を取り戻す。
 ああどうやら琳瑯とあの男の会話途中で迂闊にも寝てしまったようだ……あの部屋は妙に暖かくて居心地も良くて仕方ない。と、唆啓という男はもう帰ったようだ。目を向けた先、既に椅子に彼の姿はない。
 小難しい話ばかりだった。最後はなんだか歓談していた様子があったのをうっすらと覚えてはいるが……おや? そういえば琳瑯はどこに――
「――?」
 その時だった。部屋の隅々に視線を巡らせた、その時。
 琳瑯が居た。ただし、彼女はなぜか床に倒れ伏していて――


 手が動かない。足が動かない。身体の全身の機能が失われていく。
 意識はあるのに内臓が止まっていく。歯車が欠けたかのように、一つ、一つ。
「ぐ、ぅ……!?」
 真っ先に症状が出たのは喉だ。焼ける様な熱を伴ったかと思えば――声が潰れた。
 漏れるのは掠れる様な一息二息。大きな声が出せず、誰かを呼ぶ事さえ出来なければ。
「――!!」
 そして即時に足が麻痺した。姿勢を崩し、倒れるその身。
 視線を下に動かすが――外傷の類がある訳でもないのに、全く一寸も動かせる気配がない。
 まるで石の如く。力を込めても腰から下に意識が届かない。
 感覚が、もうない。
「ぅ、が、ふッ……!」
 せり上がるモノがあったので、吐いた。黒い血塊だった。
 胃がやられたか、それとも何か別の――駄目だもはや考察する暇など無い。
 息が通らない。喉に張り付いた血の塊がもはや酸素すら肺に運ばず――地上で溺れる。
 声が出ず、動けず、這いずる力も失われて。
 なんだこれは。病気、な筈はない。今までずっと健康だった、ならば――
 毒、か? 毒なのか? そんなモノを一体いつ……!
「――」
 顔も上がらぬ中で目だけを前に、さすれば。

 ――白瑩。

 白い猫が、そこにいた。


 ――?
 なぜ倒れている? 具合が悪いのか?
 周りにある赤い色の液体はなんだ? 今度は――一体何の悪戯で――
「白、瑩……」
 何故。何故――
 何故、御主が血を吐いて倒れている!?
「……ごめん、ね」
 顔から、血の気が失われていく。
 美しかった声が、掠れていく。
 動かされる右の手が私の頭に触れた。
 ――だが指先が痙攣している。いつもの撫で方など、もはや彼女に出来る余地なく。
 それでも動かした掌が私の頭を包んで。
「ごめん、ねぇ……」
 何故。何故に御主が謝る!?
 御主は、被害者だろうに!
 私の体に触れる手が、冷たくなっていく……! 待て、だめだ。いくな。此処にいろ!
「わた、し……は……も……傍に……は……」
 喋るな! もう喋らなくていい!!
 待っていろ。直ぐに、解毒の丹を……

「ごめ……ね……ぇ」

 謝罪の言葉なんていらない!
 私は飼い主に幸運を齎す瑞獣なのだッ!!
 私に向けられる最期の言葉があるならば――それは感謝の一言だ!!

 何故だ。やめろ、まだ冷たくなるな、動いてくれ。
 これか? 解毒の丹は、それともこれか? 待ってくれ薬なら沢山あるんだ!!

 いくな!!
 今から作るからな、まだ大丈夫だ間に合うぞ琳瑯!!
 そうだ、喋らなくていい! 口元を抑えてろ、抑えるんだ琳瑯!!
 血を吐けば喉が詰まって……

 いくな。
 返事をしろ。
 なぜもう震えてないんだ。

 返事をしろ琳瑯。ほら、薬ならここに沢山……
 ――逝くなッ!!
 私は、私は飼い主に幸運を齎す瑞獣なんだッ!!
 お前を護る、存在なんだ!!
 だから、頼む。
 死なないでくれ。
 もう一度撫ぜておくれ。

 誰でも良い訳ではない。
 御主が良いのだ。
 御主のその手が良いのだ。

 ――琳瑯。

 御主でなければ、だめなんだ。


 一つの季節があったんだ。
 あの頃を例えるならば、春だったのだろう。
 全てが謳歌していた。琳瑯が居て、緑に溢れて、陽気な空があって。

 だがもはや全ては遠く、過去の事。
 都は赤に染まっている。黒き心と白き心がせめぎ合って蟲毒の様相で……陰気に塗れている。活気は失われ、美しさは汚濁へと。黒も白も、いずれなる決着を迎えても昔の様には戻るまい。

 ……そうでなくとも琳瑯の屋敷にも賊が入り込む程だ。
 琳瑯が死した直後、下卑た輩共が侵入し金も銀も奪い始めていった。
 今考えるとあまりにも機が合致しすぎていたと思うが――真実はもうどうでもいい。
 それよりも奴らは。血みどろになっていたというのに、もう冷たかったというのに。
 奴らは琳瑯の――足の間に身を割り込ませようとした――
「――!!」
 もはや感情は憤怒の一色。煮えたぎり、全ての景色が憎悪と共に世界を染めた。
 下衆の首を噛み砕き。即座に炎を放って全てを焼いて。
 琳瑯と過ごした部屋に自ら火を。
 琳瑯が研鑽していた修練場に自ら火を。
 琳瑯と共に花見をした――美しき庭に――
「――ァ――ァァ――」
 誰にも奪わせたくなかった。誰にも、もう触らせたくなかった。
 深い喪失感と、とめどなく溢れる悲哀と、燃え盛る憤怒に心を晒しながら。
 私は気付けば『どこか』を歩いていた。
 ……どこかは分からない。だけれども、気にも留めなかったのも事実だ。
 只管歩いて、時に嘔吐し、うなされ、怪我もして。
 彼女に美しいと言われた毛並みはずたぼろに。もはや面影の欠片もなく。
 体はとっくに痩せこけ、目は翳み、足はまともに歩けぬ程にふらついていた。
 幾日歩いたか。或いは幾週、幾年――もはや時間の感覚などとうに忘れたというのに。

 ――それでも私は生きていた。

 何故、まだ生きているのか。何故なのか。何の悪戯なのか。
 ……何時からか私は二つの意味で自問していた。

 彼女を喪った。守れなかった。
 何が幸運を齎す瑞獣だ。こんな私など、どこかで野垂れ死んでしまえばいい。
 ……なのに、何故。無様に生き続けているのか。

 或いは――私は、死ねないでいるのか? ああ、もしそうならその答えは一つしかない。
 思い当たるのは、一つしかないんだ。
 全てはあの日――

「ああ白瑩と言うんだよ――可愛いだろう? やらないぞ」
「ほう……確かにこれは見事な毛並みです。都全土を巡ってもこれ程は中々お目にかかれない」
 あの日だ。あの日、あの男が訪れた時の事は眼に焼き付いている。
「本当に可愛らしい子です。これからも大事にしてあげて下さいね」
 あれは話が始まる前、来た間際の時。すれ違った時の私に――あの男は。
「生きていれば、飼い主に幸運が訪れる事もあるでしょう」
 私の首筋を、優しく撫ぜた。
 あの時はどうとも思っていなかったが今となっては嫌悪しか湧かぬ。
 撫でられた首筋の部分を掻き毟る。掻き毟る。掻き毟る。
 剥がしてしまいたい。張り替えてしまいたい。虫に這いずり回られる感覚が抜けない!
 これからも? これからもだと? どの顔を晒してそんな事を言っていた?

 ――お前はあの後琳瑯が死ぬことを知っていただろう!!
 お前が!! お前があの茶に毒を仕込んだのだから!!

「ガ――ァ――ァ――!」
 お前が、お前が殺したというのになんだあれは。あの言い草は。
 許せない。赦せない、ゆるせないッ!
 彼女を死へと追いやった奴の事が、許せない。
 八つ裂きにしてやりたい。これ以上無い程に、惨たらしく殺してやりたい。
 その為の、力が欲しい。この怒りを押し通すだけの力が。

 彼女は言っていた。
 ――あらゆる命は『崑崙』なる地にて類稀なる力を得ると。
 それは遥か西の果て、仙界の地。只人では到底辿り着けぬ仙域。

 だが、いいだろう――行こう西の果てへ。
 彼女の無念を晴らす為に。私の悲哀と憤怒を晴らす為に。
 この心と体がどうなろうとも、必ず。

 かならずおまえをころしてやる。

 それは一匹の猫の物語。
 幸運を齎す筈のその『猫』は、憎悪と憤怒を身に宿して『仙狸』へ至る。
 逆立つ毛。泥に塗れてかつての美しさは失われ、それでも意思は衰えず西へ往く。

 これは彼女の、黎明の物語。

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