SS詳細
九龍城のある一日
登場人物一覧
●蛇神の忘れ形見
それは、在りし日の練達。
まだマザーの暴走が始まる前、『いつも通りの日常』が在った頃だ。
『再現性九龍城』と呼ばれる地域に、アーマデルが隠れ家的に拠点としている『無銘霊廟』がある。廟とはいっても大層なものではなく、外観は風雨に晒されるままに荒れ果てて手入れされている様子もない。ビルとビルの隙間に捩じ込まれたような佇まいは、安全性を度外視した違法建築そのものだ。
その入口も、扉の立て付けが悪いのかそのままでは開かない。一定の手順で扉をずらし、ぎりぎりの隙間から体を滑り込ませることでしか入れないという、ある意味隠れ家としては優良物件とも言える仕組みだった。
今日も、そんな霊廟へ日没間際にやってきて予定していた作業をしようと思っていたのだが、この日は少しばかり事情が違った。
「何か用か?」
「ッ!」
いつもの開かない扉の前に、予定外の来客があった。全く顔を知らないその客は、アーマデルが声をかけると過剰に肩を跳ねさせて警戒していた。
見たところ、彼よりも年上の男性のようだったが、裏社会の人間独特の空気は感じられなかった。このような場所に縁があるとは考えにくく、アーマデルは迷いこんだ者と見て外へ返すことを考えた。『外部』であるこの辺りはまだしも、一般人が一人で『内部』まで迷い込んでしまったら無事では済まないだろう。
「ここは見ての通り、何もない霊廟だ。迷ってしまったなら、九龍城の外まで案内するが」
「ち、違う、ここで合ってる! ここは蛇神様を祀っていた霊廟だろう!?」
まだ男性は怯えていたが、外観だけでは知り得ない霊廟内部の情報を知っているようだった。今では僅かに痕跡が残るのみではあるが、確かに廟の内部には蛇神らしき薄汚れた像が転がっていたり、それらしい意匠が施されている場所もある。
元々『死』と『蛇』に所縁のあるアーマデルとしては、ここはどことなく親近感を覚えて使いやすい場所ではあった。しかし、かつての『蛇神の霊廟』としての姿を知るこの男性が来たのなら、どうすべきか。そもそも彼の目的とは何なのか。
「今は俺が使っているが……退去した方がいいのか?」
「あ、えっと……それは……。僕も、今は九龍城の外に住んでいるから……」
聞けば、男性の親はかつてここに住んでいたらしい。小規模ながら、この再現性九龍城内で活動する蛇神教団の施設でもあったようだ。
それがある日、教団が突然活動を停止。霊廟は放棄され、団員は散り散りになり、まだ子供だった男性も親と離れて親戚に預けられる身とのこと。活動を停止した原因はわからないらしい。
(まあ……九龍城だし、そういうことも有り得るだろうな……)
比較的治安のいい『外部』も、そのほとんどがチャイニーズマフィアの息がかかっているものばかりだ。昨日まであった施設や人間が突然『消える』ということそのものは、再現性九龍城ではそう珍しくもないのである。
「ただ……何か、家族のものが残っていればと……。このままでは、何もかも忘れてしまいそうで」
男性の悩みは真剣な様子だった。しかし、現在進行形で隠れ家として使っている施設に彼を招き入れるわけにもいかない。
「……九龍城の外で待ってるといい。教団関連らしいものを、いくつか持っていこう」
アーマデルが約束すると、男性は納得したのか霊廟から離れていった。それを見届けて、アーマデルも身を捩らせて霊廟内へ入る。今までこの廟を使ってきて「そういうものがある」とは認識していたが、改めて探すとなると意外に数は見つからなかった。
(大きな本尊や経典は流石に残ってない……持ち運びの観点から見ても、渡せそうなのはこの像くらいか)
それは埃と錆で汚れて、表情も摩耗してしまっているが、小さな棚でも安置できそうな蛇神像だった。このままここで朽ちさせてしまうよりは、家族の思い出としてあの男性に渡してやった方が意味のあるものになるだろう。
緩く布に包んで、九龍城の外で待っていた男性の元へ向かった。
「渡せそうなのはそれくらいだが、良かっただろうか」
「これは……!」
男性は暫しの間蛇神像を見回して、その顔を撫でて、無言で抱き締めていた。言葉で語ることはしなかったが、彼にとってどれほど大切なものかはその扱いを見ればわかる。
「ありがとうございます……あの廟にいたのがあなたで本当に良かった。何か礼をするべきなんだろうが……」
「別に、これは任務じゃない。持つべき人に返しただけだ」
この事に関して深入りする気も、報酬を要求する気もない。そう伝えると、男性は重ねて感謝の礼を述べて帰っていった。
互いに名乗ることもしなかった、おそらくこれきりの縁。
それが相手のためでもあると、それぞれに感じていたから。
おまけSS『無銘霊廟の銘』
●ある伝聞、噂話
無銘霊廟にも銘はあった。あったが消えたのだ。
それは自然の力による風化よりも遥かに早く、意図を持って消されたのだと言う人もいる。
これはそんな霊廟について詳しく知るという、謎の住人による話。
――訳知り顔の人物曰く。
その建物で霊廟を始めたのは、人殺しの濡れ衣により表社会を追われた
元々蛇神を主神と奉っていたこの旅人は、礼拝の手順などを定めると、再現性九龍城の住人を勧誘しては宗教団体として信者を増やしていったようだ。具体的な教義などは教団外の人間が知る由もないが、最盛期には小規模ながら幹部も複数いるような組織だったとか。きっと、九龍城での生活も穏やかに思えるくらい善い教えだったのだろう。
信者の人数も増え始め、活動が軌道に乗り始めた頃。その性質ゆえにマフィアから目を付けられ、何かと金銭を要求されるようになったそうだ。
金銭の他にも、悪事の手助けや人の煽動を求められ、教祖の旅人はさぞかし苦労したことだろう。要求を断ればマフィアに武力で脅されるし、呑めば信者を苦しめることになるのだから。
日に日に厳しくなる要求を、これ以上黙って受け入れる訳にはいかず。旅人はある日決断したのだ。
――蛇神を崇めるこの団体を、解散することを。
解散の告知は、信者にとっても寝耳に水だった。しかも、『解散した事実を口外してはならない』などという、あまりにも不自然な条件まで付けられたのだ。
信者の中には憤慨したり、どこまでも教祖についていくと言って聞かなかったり、当時は色々ありはしたものの。
結局、蛇神様を崇めていた宗教の名も、教祖の名も消えた。霊廟だけが放置されたまま残り、『無銘霊廟』としてあるという話。
嘘か真か、信じる信じないは各自にお任せ、という噂話。
なぜこの住人がそんな話を知っているのか。
それこそ、求めるだけ野暮というものだ。
ここは