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幸せの城
登場人物一覧
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死神、と名乗る青年がいる。
クロバ=ザ=ホロウメア。二十代半ばにして得意運命座標に見出され、復讐のために生きてきた青年。突然だが彼は今――生死の際にいた。
此処は森の浅瀬。歩き回ったのであろう、けれどもう其の気力は今にも潰えんとしていた。クロバは力なく首を傾け、足は草木で切れて傷だらけ。足だけではない、体のあちこちに焦げたり裂かれたりしたような跡が見受けられる。対敵の後だろうか。減っていた体力は森に迷わされ目減りして、今は静かに浅い吐息を繰り返すばかり。
ふと、がさ、と音がした。クロバは一部だけ色の異なる髪をさらりと傾ける程度に首を動かしはするが、音の主を確かめる気力さえない。
人ならいい。獣なら死ぬ。けれど、逃げるにはもう……
「この辺り……えっ、え! 人!? クロバさん!?」
――俺の名を、知っている。
其れが、クロバが意識を失う前に思った事だった。
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『兄さま』
声がする。これは妹だが、妹ではない。けれど大切な大切な“義妹”の声が聞こえる。
『兄さま、早く起きて。お昼を回ってしまいます』
声がする。ああ、これは夢だと判っているのに、俺はもうちょっと、と駄々をこねてしまいたくなる。
大切な妹。大切だった妹。そして出会った、大切な義妹(いもうと)。起きなければ。料理をするなと言いつけたから、きっと彼女は何も食べていないに違いない。彼女に料理を作り、2人で食べよう。今日は何がいいだろう。ああ、それにしても、あと5ふ……
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「おーきーろー!!!」
「うっわ!?」
複数の子どもの声が、甘い微睡みを切り裂くように轟いた。
どっすん、どすん。
腹に重さと痛みが走って、思わずクロバは飛び上がる。今絶対ベッドから浮いた。浮くほど……ベッド?
「……あれ……? ここ、は……」
「おきたー! 兄ちゃん起きたよ!」
「リア姉ちゃんに報告だ! 行くぞ隊員!」
「はいであります!」
「お、おい、ちょっと」
まさに嵐のよう。僅かだが傷を負っている腹部を強襲した二人の男の子は、ばたばたと走って何処かへ行ってしまった。……クロバは頭の隅に残る眠気を吹き飛ばすように頭を振る。まずは何が起こっているのか、把握する必要があるだろう。
見回すと、其処は清潔感のある部屋だった。壁には簡素だが温かみのある絵がかけられ、花瓶にはカスミソウが飾られている。ベッドのシーツは白く清潔そうで、綺麗にベッドメイクされていたであろう寝具は、自分が寝ていたから少し乱れてしまっている。
「……」
記憶をどれだけ掘り返しても、この場所にも、訪れた経緯にも覚えがない。自分は戦闘の後、見事に不運を引き当てたかのように道に迷い、獣と何度か交戦し、体力が尽きて森で意識を失った、筈。其処までは覚えているから、間違いようがない。
そういえば、誰かの声を聴いたような――
「ああ、起きましたか!」
そう、例えばこんな……
「あの、大丈夫?」
透き通って高い――
「あの! 聞こえてる!?」
突然肩を両手でつかまれ、ぐらぐらとゆすぶられた。
まて、痛い、傷が! そんな反論は揺さぶる強さの前に言葉にならない。
「はっ、私ったら。ごめんなさい! 大丈夫?」
「あ、ああ。……なんとかな。すまない、ええと……って、あれ。リア?」
「そうよ、リアです。お久しぶり、クロバさん」
全然気付いてくれないんだから。
そう頬を膨らませる少女。――リア・クォーツ。クロバの顔見知りである彼女は、シスターであり、彼と同じ得意運命座標でもある。
という事は、とクロバは視線を巡らせて。
「此処は……リアの?」
「ええ、クォーツ修道院よ。傷は浅いものばかりだったけど消耗が酷かったから、来客室を使わせてあげたの。感謝してね」
クォーツ修道院。幻想の町外れ、湖畔の脇に静かに佇む建物がそう。孤児院も兼ねていて、リアを始めとする孤児を引き取り、時に優しく、時に厳しく、教え育てている。
話にしか聞いた事はなかったが、とクロバは頷く。成程、自分が倒れたのは森の中。たまたま修道院の近くで倒れた(と思われる)のは不幸中の幸いだったのだろう。
「兄ちゃん、大丈夫?」
リアと共にいた男児の一人が無邪気に問う。彼はきっと、腹部に傷を負う、なんて事態を知りもしないのだろう。そう頭によぎった皮肉気な言葉を飲み込んで、ああ、とクロバは頷いた。
「おかげさまですっきり目が覚めたよ」
「だって! 大丈夫じゃん! ね、リア姉ちゃ……いって!」
ごつん、とリアが容赦なく男児に拳骨を落とす。大丈夫じゃありません、と凛とした声が響いた。
「だから人のお腹に乗って起こすのはやめなさいっていつもいってるでしょ! ましてクロバさんは怪我人なんだから! 後からドーレも一緒にお説教よ!」
「うえええ~~! リア姉ちゃんのお説教、長いんだよな……いって!」
二度目の拳骨が落ちた。
「もう歩けるなんて、流石ね」
男児はお説教まで目一杯遊びに行くと元気に部屋を出て行った。少ししてクロバもベッドの傍にあったスリッパに足を通し、リアと2人、シスター・アザレアが待つ院長室へ向かう。
「ああ。あそこまで森で迷ったのは初めてだからな……いつもならあんな事はないんだが」
「戦闘続きで迷って倒れるなんて。運ぶの本当に苦労したんだから」
「すまない、ありがとう」
「お礼ならドーレにも言ってね。彼と一緒に運んだの。 あ、ここよ。シスター、シスター・アザレア、いらっしゃいますか」
数度、リアが扉をノックする。
すると少しの沈黙の後、入っておいで、と優しく包み込むような声がした。
「失礼します。お客様が目を覚まされたので」
「ああ。これはこれは、大変でしたね……私はアザレア。このクォーツ修道院の管理をしています」
凛とした人だ、とクロバは思った。年は老人といっていい程だろうが、伸びた腰、優しく深い眼差しは、シスター・アザレアが“シスターと呼ばれる”所以を思わせる。クロバの瞳を見て、其れから頭のてっぺんから足の先までを――彼は敗れた服の代わりに、簡素だがサイズは丁度よい服を着ていた――見て、うん、と頷く。
「随分とよくなられたようで何より。リアとドーレが運んできた時はどうなる事かと思ったけれど、そんなに深い傷もなかったから、お医者様には連絡しなかったの。……連絡した方が良いかしら?」
「あ、いや、構わない。この程度の傷なら、いつもの事だ」
そう、いつもの事だ。
一人で戦う事の多いクロバにとって、この程度の擦り傷や切り傷は傷の勘定に入らない。戦闘での負傷は想定内。今回の誤算は森で迷った事、その一つだけだ。
そう、と深くシスターは頷く。
「では、うちでご飯でも食べて、ゆっくり休んでいきなさいな。幸い、此処には遊び相手はいっぱいいますよ」
「ドーレとソラの遊びには注意しないといけないですけどね……」
ぶつくさ。呟くリアに、こら、とシスターが言う。
「リアも乱暴な怒り方をしてはいけないわ。乱暴な教育では乱暴者しか育ちません。相手を支配するのではなく、納得させなければ」
「うう、はい」
「……。ふっ、はは」
まさにシスターにやりこめられてしまったリアに、思わずクロバの口から笑いが漏れる。其れをきょとん、と見た2人。……徐々にリアの頬に朱が昇り、シスターはあらあらと微笑む。
「く、クーローバーさーんー……!」
「おっと、暴力はダメだってさっきシスターに言われたばっかりだろ?」
「むっ、ぐぅう……!」
「あらあらあら。リアは少し口下手だから。手加減してあげてくださいな、クロバさん」
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其れからクロバは、数日をクォーツ修道院で過ごした。普段は人を避け、何処かに属する事を避けていたクロバだったが、修道院の子どもたちはそんなのお構いなしに話をせがみ、ちゃんばらをせがみ、虫取りを手伝ってくれとせがまれ、渋々頷いているうちに太陽が数度沈み、昇った。
そして、クロバは行かねばならないと別れを告げる。
「ありがとうございました、シスター」
「傷も問題ないみたいね。あなたのお洋服は繕っておいたわ」
渡された衣服は、判り辛い色の糸で裂かれた後が縫合され、綺麗に洗濯もされていた。しかし……シスターが縫ったにしては、少し縫い目が不器用な気がする。もしや、と同じくローレットを訪ねるつもりで隣に立っているリアをみると、つい、と視線を逸らされた。
「……ありがとうございます」
「よければまた来てね。あなたがいなくなってしまうとレミーが泣いていたわ」
「本当に泣き虫だ」
少し笑う。思えば俺も、何度も泣いた。そうクロバは思い返す。このクォーツ孤児院をすぐに離れられなかったのは、彼自身も孤児として院で育った懐かしさがあるのかも知れない。
そう、此処は懐かしい。暖かくて優しい、人の美しさを造形したような白亜の城。死神たる自分が居座るには、余りにも眩しすぎる。
そう。けれど、本当は。本当は……
「じゃあ、いってらっしゃい」
その言葉は、すとん、とクロバの胸の底に落ちた。
「え」
「あら? 出発する人にはいってらっしゃい、というものでしょう」
ころころとシスターは笑う。其れが当然だというように。……いや、彼女の中では当然なのだ。既にクロバはクォーツ修道院の客人であると同時に、シスターの家族同然なのだと。
こういう時、どう返せば良かったのだっけ。クロバは緊張したように唾を飲み込み、言葉を探した。
「いって、き、ます」
ああ、その言葉のなんと眩い事だろう。自分が口にしていい言葉なのか判らないが、ただ、眩い。
そしてまた此処に来たら、言うべき言葉がある。きっと言おう、照れながらも言おう。「ただいま」とその言葉を、皆に向けて言うのだ。
シスターも、リアも、子どもたちも。みんな笑って迎えてくれる。此処は死神も牙を潜める、幸せな白亜の城だから。