SS詳細
忘れられぬ夜空へ
登場人物一覧
――それは、眩しいばかりの夏の日だった。
「名前……名前、かぁ」
大規模召喚の日。降り立った幻想王国のローレットにて――『名前』の提示を求められた。
それに特に深い意味はない。どんな組織でも属する際に名前の把握ぐらい行われるものだ……特にローレットにとっては、一気に人数も増えるのであれば、簡易にでも把握しておきたくて。
「あああッそれにお願いしますなのです! 書きあがったらこっちに置いといてくれれば後でショウさんとかが処理してくれると思いますから! ちょっとレオンの奴はどこに行ったのですか! この忙しい時に――!」
「ちょっと、ああ……行っちゃった。忙しそうだなぁ」
青髪の情報屋――後で知ったのだが、彼女はユリーカと言うのか。ローレットに大量に訪れた人達への案内があちこちであるが故か『彼』に一枚の書類を『こ、これに書いておいてくださいなのです!』と押し付ける様にしながら、急ぎ足で駆け抜けていく。
――しかし困った。どうしたものだろうか。
名前か。普通の人であれば困りはしないのだろうが……『彼』は些か事情が異なる。
なにせ元の世界ではそもそも『名前を付けられる』様な存在ではなかったのだから。
(……紋管理用の魔術名はわからないし『僕自身の名前』はなかったなぁ。
まさかこんな所で『名前』を必要とされるだなんて……)
『彼』は――旅人。この世の理の外より至りし来訪者。
元の世界では『魔術紋』として生み出され、それは一言でいうならば――『器』であった。
魂なき体に、元の魂連れ戻して入れるまでの間。
身体の生を維持する為に付けられた存在。
……斯様な存在に名など付けられようものか。
名前はおろか人権も自由も。道具になぜそんなものが必要なのかと。
人によって作られて、人の都合で使われて。
使い終わったら記憶消されて再利用、使えないなら殺処分――その程度だ。
或いは管理上における便宜的な名前はあったかもしれないが。
それも『彼』にとっては預かり知らぬ事。
「……うん。でも必要なら、そうだな……何か考えようか」
だから『彼』は――熟考する。
名前とは、その人物そのものだ。
だから……なんだろうかと思考する。『自ら』を象徴する物とは――
「……あっ」
さすれば、ふと思い出す。
元の世界でただ一つ、自ら宛に記されたものがあった事を……
それは『この体』の持ち主が魂を切り離す前に自分の屋敷の隠し部屋に隠した。
己が体に宿される魔術紋宛ての手紙。
『この部屋はね……冒険前の秘密基地として作ったんだ。
天井に近い窓から、夜空が綺麗に見えるんだよ』
見た事のない不思議な文字。
その時の彼に――『夜空』という東方の字は難解にして、しかし。
見上げた窓から見えた『夜空』の光景はとても忘れがたいものだった。
自らの記憶に焼き尽くすように鮮明に、刻まれたあの眩さ……
「よぞら……『ヨゾラ』、か」
読めない文字。だけど読みが記されていたが故にこそ知る事は出来た文字。
――ヨゾラ。
それがふと、自らの存在にするりと。自然に落ちてきた気がした。
馴染む感覚。最早これしかないと……
だからその日から『彼』は『ヨゾラ』となった。
アルファベットでヨゾラを記述し……おっと? ミドルネームも付けられるのか。
「うーん……それじゃあエアツェールング(物語)って……あれ、入らない? おかしいな、どうしてだろう……まぁいいか。ならエアツェールにしておこう! 苗字も、あと……魔術紋だし……あれ。えーこっちも長い? なら……ヴァッペン(紋章)かな?」
そして。始まりが決まれば後は自然と筆が動くものであった。
……いや。厳密にはミドルネームにしろ苗字にしろ、もう少し長い名前にしたかったのだが、不思議と何故か入力できなかったのだ。くっ、これもこの世界の不思議な法則か……?
さっきの少女のユリーカに聞いてみようかと思ったのだが、忙しいそうだしまぁもう渡すだけでいいかと。
「おや。書けたのかい? それじゃあちょっとだけ拝見……
ふむふむ。君は――『ヨゾラ・エアツェール・ヴァッペン』か」
良い名前じゃないかと、黒猫のショウという情報屋は紡ぐ。
そう――定まりしは『ヨゾラ・エアツェール・ヴァッペン』。
他の誰でもない。『彼』の名前。
「うん。あぁ……僕は」
僕は、ヨゾラだ。
それが彼の始まり。魔術紋という名の器に非ざる、確固とした存在の黎明期。
さぁ――今日は何処に行こうか。
不思議と体が軽い気がした。どこまでも、どこまでも往けるような……
これからあちこち行ってみよう。
「そうだ。住処も探さないとだね……住めそうな館とかあるといいなぁ!」
王都郊外。人が少ない街道筋に……無人の館。
つまりは今の住居を見つけるのは――少し後の物語。
ああ。今日も彼は生を謳歌する。
――夜空の下の小さな館で。