SS詳細
貴女のために祈らせて
登場人物一覧
真っ暗な空間に星が流れていく。
それは次々に駆け抜けて、後ろへ過ぎ去っていった。
――ようこそ、ラピッドオリジンオンラインへ。
流暢なシステム音声が流れ、仮想世界の扉が開かれる。
アンジェラの自意識はアバターの目を開けた瞬間に、色彩を帯びて花開いた。
身体的な感覚は混沌世界に居るときと同じなのに、心の底から湧き上がる感情がある。
「これは……」
膜の掛かっていた視界はクリアになって、風に乗ってやってくるパンの良い匂いも、陽光の温かさも新鮮な感覚としてアンジェラの中に入ってきた。
働き人となって、久しく味わう事のなかった情動に高揚している。
まるで、元の世界に居たときみたいにアンジェラの中に『嬉しさ』が渦巻いていた。
石畳の上を靴をコツコツと鳴らして感触を楽しむ。
お気に入りのパラソルと、お揃いのドレスは王女候補だった頃を彷彿とさせた。
視界に揺れるフリルが可愛くて、それを身に纏える自分も特別な存在だと思える。
どうして今まで忘れていたのだろう。
世界はこんなにも色づいて美しく楽しいのに。
ふと、視線を上げれば元の世界によく似た様式の建物が見えた。
幻想国の建物より、少しだけ洗練されて整ったもの。
シンプルでいるのに込められた技術の結晶が見て取れる意匠だ。
「懐かしいなぁ」
混沌世界を歪にコピーしたネクストに、こんな所があるなんて。
其処だけまるで郷愁を切り取ったように、温かな日差しが降り注いでいる。
アイル・トーン・ブルーの空に視線を上げれば、風に乗って薄紅色の花びらが舞っていた。
それはまるで、元の世界の再現。
パラソルの中からアンジェラの金色の髪が風にながれる。
「アンジェラ?」
名を呼ばれくるりと振り返ったアンジェラは、ラピスラズリの瞳を見開いた。
其処には少女が立って居た。
驚愕の表情を浮かべ手にした果物を落した少女――親友ソフィアと同じ顔をした彼女をじっと見つめる。
「あぁ……神様。なんて奇跡なの。アンジェラが帰って来た」
涙を浮かべ、抱きついてくる少女をアンジェラは抱きしめた。
パラソルが地面にふわりと落ちる。
冷静に考えれば、彼女はネクストのNPCだ。
けれど、なぜ自分の事を知っていて、帰って来たなどと言うのだろうか。
「あの……貴女は、ソフィ?」
「ええ、ソフィよ。アンジェラ……アンジェラっ、あなた、一年前に事故で」
不慮の事故で死んでしまったのだとソフィアは告げる。
「……だったら、私が貴女のアンジェラじゃないって、分かってるの?」
「分かってるわ。あの子はもう死んでしまった。でも、嬉しいの」
別人だと分かっていながら、それでも面影を追いかけてしまう。一時の幸福に縋ってしまう。
「そう。だったら、私が代わりに傍に居てあげる」
「え? どうして?」
ソフィアは涙を零しながらアンジェラを見上げた。
「私もソフィはこの世界に居ないって分かってる。でも、貴女がとても寂しそうだったから」
お互い親友とは別人だと知っていながら、共に居たいと思ってしまった。
「果物落ちちゃったね」
アンジェラはリンゴを拾い上げ、ソフィに渡す。
働き人であるならば、真っ先に掃除を行うはずなのにと掌を見つめた。
この世界で、アンジェラは『女王候補』として自意識を覚醒させたのだ。
ログイン装置から起き上がったアンジェラは、放心状態で視線を落す。
急速に夢から覚めたような感覚。
さっきまでのソフィアとの花咲く蜜月が急速に色を失っていく恐怖に身体が震えた。
「いや……忘れたくない」
その瑞々しい感情を忘れたくないと首を振る。
働き人に戻るのは嫌だと歯を食いしばった。
足下を見遣れば決して外せない足枷が見える。
役目を思い出せと言うように主張する。
「……帰って掃除しなきゃ」
先ほどまでの情動が消え失せて、視界に膜が掛かったように灰色の世界へと変化した。
――――
――
「どうしたの、アンジェラ。浮かない顔をして」
心配そうに覗き込むソフィアの手を握り絞めるアンジェラ。
「帰りたくないの。帰ったら、貴女との思い出も全部無かった事みたいになって。私が私じゃなくなるみたいで苦しいの」
女王として、否、普通の少女が謳歌するべき青春を失いたくないとアンジェラは首を振る。
「だって、まだソフィアとカフェに行って無い。遊園地にだって、海にだって行きたいの」
――帰りたくない。
この薄紅色の花びらが舞う常春の世界で、紡げなかった思い出を歩いていきたい。
それが叶わぬ願いだと知っているからこそ。
切望してしまう。
「ソフィア……」
指先をソフィアの頬に乗せて、温かさを確かめる。
「一緒に」
逃げてくれるだろうか。
何もかもを投げ出して、彼女と二人でこの世界で生きて行けるだろうか。
アンジェラは紅色の唇を開いて、願うように言葉を紡いだ――