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パティ・レーバーの本日のおしごと
登場人物一覧
灰色にくすんだ石畳の隙間から、緑が消えつつあるこの季節。道ゆく人の両腕は外気を阻むように組まれ、俯き加減と落ちた目線からもあまりご機嫌そうには見えない。先を急ぐ靴音ばかりが坂道を占拠している通りだ。旅の者を店へ誘う声も響かない中、少年と思しき人物がひとり、誰に引き止められるでもなく歩を運ぶ。
開店準備を始めた路面店の色彩にも目を奪われず、彼――パティ・レーバーはふらりふらりと坂をのぼっていく。
どうにか辿り着いた街だ。ここで日銭を稼がねば、また一文無しで野山を超えるはめになる。山小屋では、主人の厚意に甘えようとしたものの、危険回避のための勘が働き、音も立てずに去ってきた。
ツイてなかったなあ、と息をつく彼の足運びは、重たいままだ。
何故なら。
「おなか……すいた……」
生きている以上は逃れられない、空腹という名の悪魔だから。
目覚めた
「旅の方? こんな朝早くじゃ、開いてる店も少ないでしょ」
雨戸を外していた少女の声。パティは一度のまばたきだけで彼女を織り成す要素と、彼女が作業している光景を記憶へ焼き付けた。林檎や苺の描かれた看板が掲げられ、雨戸が離れたことで内側から甘い焼き菓子の香気が漂うようになってきた。
このにおいにはパティも覚えがある。ケーキだ。
そして少女は、見た目だけならパティと大して歳も変わらない。
てきぱきと慣れた調子で動く姿から、この店で働き始めてから長いのだろうとパティは覚る。
こうして一瞬で情報を得た彼は、肝心の少女からの言葉へ微笑みを傾けた。
「うん、さっき着いたばっかりで……」
「旅する人って手荷物、少ないんだね」
ちらと娘が見やったのは、四方八方から確かめても身軽なパティの姿。
「これには海より深い事情がありまして……」
苦みを含んで答えた途端、目前で少女の双眸が輝いたものだから。
「……どうかしたの?」
流れに逆らわず尋ねてみれば、娘はふくふくとした頬を持ち上げる。
「ね! ちょっとお店番してくれない?」
それがパティの、今日という日の始まりの合図となった。
冬期にだけ飾られる木が、表情のある枝振りでパティを誘う。けれど彼の心へ樹姿は落とせない。落とす暇など与えない。
「はい、チーズタルト四つ、ローズケーキ六つでお待ちのお客様」
朗らかに声を張るパティの手足は、指定されたケーキを箱へ入れて渡しての繰り返しで多忙を極めていた。
店番と言うから、ほんの少し客足の遠退いた店で、留守を預かるだけかと思っていたのだが。
――こんなに忙しいなんて……!
開店直後から、老若男女を問わず行列がなだれ込み続けた。朝の通りはひと気と無縁とも言える状況だったのに、何処から集まってきたのか。思考を巡らす余裕もなく、パティは髪を括り、小綺麗な店員の装いで仕事を連ねた。
もう何度口にしただろう。いらっしゃいませの出迎えと、ありがとうございましたのお見送り。不慣れな身であれば接客も躊躇われるが、パティは『街の日常へ溶け込む』点に長けていた。新人さんかい、と声をかけてくる常連客もあったが、殆どがパティに気を取られることなく、買い物を終える。
そうして嵐が過ぎ去った後のケーキ屋は、これまでの時間が嘘のような
「ただいまーっ、ありがとパティくん助かったー!」
「あ、ルイズさんおかえりなさい」
この状況にパティが陥った原因でもある、朝の娘――ルイズが無事帰還した。両手に大きな袋を提げて。
「目的のもの、手に入れたみたいだね」
彼女の上気した頬と面差しから、ふふ、と小さく笑ってパティが告げる。
するとルイズも、自慢げに袋を持ち上げて応えた。
「そーなのよお! おかげであったかい冬を過ごせるわっ」
カウンターの隅へ置かれた袋には、大量の毛糸が今にも飛び出さんばかりに詰め込まれている。
そう、店番をパティに一任した彼女は冬を迎える前のセールという名の戦地へ赴いていたのだ。
「お疲れ様、もう大丈夫よ。お仕事代を渡すついでに……ケーキ、食べてかない?」
昼食前のこの時間。パティは腹を手の平でそっと撫でながら、ぜひ、と目許を和らげて頷く。
小さなカップに注がれた、真っ黒な飲み物。くゆる湯気からそれが何かは、パティにも分かっている。
「珈琲、だよね? しかも結構濃そうな」
「ふふん、そうなの! 深煎りってやつよ」
それはちょっと意味が違うんじゃないかと考えたパティだが、深入りはせずうんうんと相槌を打つ。
「にしてもパティくん、あの地獄の時間をよくぞ耐えきってくれたわね」
言いながらルイズがカフェテーブルへ運んできたのは、焼きたてのアップルパイ。ナパージュによりお洒落したパイは、店の灯りを浴びてきらきらと輝いていた。
「僕の仲間もがんばってくれたからね」
仲間――機械服に格納していた
「もう暫くここに居てくれてもいいのに。……はい、どうぞ召し上がれ」
ルイズも頼もしさを実感したからか、パティへそう呟く。
いただきます、とパティが視線を下ろせば、運ばれたばかりのアップルパイが、食べてもらうのを待っている。フォークでパイの欠片を作りながら、パティはそっと微笑んだ。
「僕、別の街にも行こうと思っているから」
ここに留まる理由を編み上げず、静かに答えた。早朝に街を歩いて、判ったことが彼にはある――ここでは、仕事の数もそう多くはないだろうと。仕事がなければ日銭も稼げない。ならばもっと大きな街か、人手を要する街へ出向くのが一番だ。できれば、本格的な寒さが到来する前に。
拠り所を失ったからこそ、パティは今日も今日とて旅をしているわけで。
彼の口振りに興味を示したルイズが、へえと唸る。
「気ままなその日暮らし、ってやつ?」
「んー、物は言いようだけど、そんな感じだよ」
この街で育ち、他を知らない少女には魅力的に思えたのだろうか。街の外の話を、彼女は随分と聞きたがった。だからパティも、未知の世界への好奇心を煽りも否定もせず、ただただ疑問に答えていく。時折、闇市という恐ろしい世界があるのだと恐さも交えつつ。散在した記憶がも思い出されたが、それよりも。
まろやかなアップルパイと、ふくよかな珈琲の味わいが、パティの心身を癒していく。
「おいしいね」
腹へ温もりを得てからふと、パティが改めて結わえた感想。
零れた言葉を耳にした、ルイズの眦も緩んで。
「アップルパイって、誰かと食べたくなる……そんなお菓子だと思うの、私」
だからパティくんと一緒に食べることができて、嬉しい。
ルイズは絶望をひとつも知らぬ顔で、小さく
アルバイト代と紙袋を渡されたパティは、少女と店へ別れを告げて石畳をゆく。
訪うた時には坂をのぼるばかりだったが、今度は坂を下る一方だ。坂を下り切ればトンネルがあって、くぐればいよいよ外へ発てる。朝と同じ冷たさの中、朝よりも弾む足取りでパティは進む。闇に溶けそうな髪を揺らし、喧騒の向こうへと。
しかしトンネルへ入ったところで、くんと鼻を鳴らす。紙袋の隙間から昇ってくる香りが、なんだか胃を刺激してやまない。
――ちょっとだけ、食べてこうかな。
店で食べたのとは違う、片手で持てるサイズのアップルパイだ。取り出せばまだ温かく、シナモンと林檎の香りに誘惑されてしまう。だからパティはそろりとかぶりついた。直後、咥内で元気に転がるゴロゴロとした食感。芳醇な林檎の香はパティの口から喉まで、あっという間に流れていく。
「おいひ……」
呟いた拍子に指へ少しばかり力が入ってしまい、
これなら暫くは、無慈悲な
――こういう穏やかな仕事も、たまにはいいね。
いつしかトンネルを抜け、待ち構えていた白い光が容赦なく目を刺してくる。
閉じた瞼をも貫いて滲みる日向へ踏み出せば、生きている心地をただただ実感するだけだった。