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雨上がりの空、手をかざして
登場人物一覧
――がたんがたん。
窓にぶつかる雨粒の音で目が覚める。
カーテンから覗かせるのは曇り空に雨模様。何の予定もない休日故にまだ微睡んでいても良いのだがどうしようか。
軽く伸びをしてベッドから降りれば、先に目覚めていた愛犬が元気な声をあげながら私の足元をぐるぐると回り始める。
「おはよう、インベル」
挨拶を返すように尻尾を振ってこちらの顔を見つめ返してくる瞳に応える為、抱き上げて部屋を出る。天気は生憎の雨ではあったが、特に約束等も無かったので問題は無い。
リビングまで足を運び、インベルを降ろす。ちょこちょこ私の傍を歩いているのはお腹を空かせているのだろう。キッチンの方から愛犬のご飯を取り出して皿に取り分ける。食事の定位置に置いてあげれば一目散に駆け寄りまだ小さな口を開けようとして。
「まて」
目線をインベルに合わせ静止の声を放つ。主人の声にピタリと動きを止め、さぁ今こそこの世で一番の楽しみだ、という所を待ったされた家族はどこか潤んだ目でこちらを見詰めてくる。
これは決してモーニングの邪魔をしたいわけでは無い。まだまだ子犬のこの子に我慢を教えてあげているだけなのだ。本音を言えば好きなタイミングで好きなだけ食べさせてあげたいのだが、これも大事な躾の一つだ。
「いいよ」
私の声に高らかな返事をあげればハグハグとご飯にかぶりつく。
誰も取らないから。と苦笑し、独り言を零しながら今度は自分の朝食を用意する。
他に居ればそこそこ手の込んだ物を作るのもやぶさかではないのだが今日は自分一人、栄養が取れて腹を満たせれば問題は無いだろうと手早く準備を始める。
残っていた卵に半端なベーコン、昨夜使いきれなかった野菜達を取り出してキッチンに立つ。解いていた髪を後ろで纏め、手を洗う。トマトとレタスを適当にカットして皿に盛り付ければ簡単なサラダだ。
熱したフライパンでベーコンを焼いて卵を落とし蓋をして蒸し焼きにする。完成したベーコンエッグに胡椒を少し振りかけてあげれば簡単な朝食の出来上がり。卵が最後の一個であったのでゆでたまごにして切り分けてサラダに添えてあげれば少々手を込んだ気分になれるのが不思議だ。
前にリンゴの皮を剥いてやったら褒められた事を思い出す。刃物の扱いは慣れている事もあって昔から苦手意識は無かった。幼少の頃から家柄もあり、料理の見栄えというのも理解はある。自分で作るようになってからそれに気を付けるようになったのも、前に褒めてくれたから。
――がたんがたん。
忙しい中で急にやるべき事が無くなると落ち着かないという事はないだろうか。
今の私がまさにそれだ。特に予定入れておらず、一通りの家事をこなした後はコーヒーを淹れてひと心地ついている所。誰かに連絡を取ろうにもこの雨では又の機会が良いかとも考えてしまう。
こういう休息もたまには必要かと思う事にしてリビングを出る。部屋に戻り、スポーツウェアに着替えて柔軟を行う。平時に日課としている鍛錬を心持多めにこなしていこうではないか。
鍛錬、と言ってもその内容は多岐にわたる。全てをこなすには時間も足りないので通常ならば今の自分に合ったものでメニューを組んでセットを組むのだが。
「(そうだな、久しぶりに組みなおしてみるか)」
己を信じて付いてきてくれる弟子、彼女に合わせた項目とツーマンセルで行えるメニューを考えながら鍛錬を始める。ただ身体を苛めながら動かす事が強くなる道ではない。効率と現状の出来上がりを理解して逐次調整していくことも肝要である。
一通りこなし、シャワーで汗を流した所で暇を持て余しているらしいインベルが私に向かって突撃してくる。主人が一日中家に居るというのも珍しいのだろう。遊んで、構ってと言うかのように膝を前脚で叩いてくるのだ。
広めの部屋に入りおもちゃを持ってインベルの方へと向きなおれば、遊んでくれると気づいたのか興奮気味に部屋を駆けている。お望みの通りに軽くボールを投げてあげれば一目散に向かって咥えて戻ってきた。もっと、もっと。とボールを渡してくるこの子がとても愛おしい。
――かたかた。
遊び疲れてうたた寝しているインベルを横に私は久しぶりにピアノの前の椅子に腰かける。手入れは欠かさず、調律も問題無いそれは鍵盤を叩くごとに立派な音を出してくれた。
観客の居ない演奏会。久しぶりでも指が、感覚が奏で方を覚えている。
思うがままに弾く。作法等は今考えない。ただ好きに、好きな演目を流していく。
誰からの拍手も無く。
何者からも称賛は無い。
当たり前だ。ここには私と愛犬しか居らず、観客などありはしないのだから。人前でない時ぐらい好きに弾きたかったのだ。
何もない日を過ごして思う。
今日の
食事を作りながら誰かを意識したこと。
誰かの為に鍛錬のメニューを考えたこと。
共に住む家族とのひと時を過ごしたこと。
自分の好きに、鍵盤を叩き奏でたこと。
この眼について、何も考えなかったこと。
私が
誰かの為の
ただ。
ただあの時より少しだけ。
或いはたくさん。
自分は変わっているのだ。
いつの間にか雨音が聞こえなくなっている。窓から見上げれば雲間から赤みがかった夕焼けの陽光が差していた。
起きてきたインベルが顔を私の足に擦り付けている。気づいたら一日も後半。まだ陽の光が届いている内に外に出ようか。
インベルが赤いスカーフを咥えている。
「仕方ないな」
言葉の内容とは違い、声音は笑っている。スカーフを着けてあげ、自分も外着に着替える。
足りないものを確認してから戸締り。外に出てみれば雨の匂いが鼻についた。小さい同行者は気にもせずに外へ遊びにいける喜びで駆け回っている。主人を急かすかのように鳴きながら前を進む姿は頼もしいボディーガードよいうよりはまだまだやんちゃな子供に映るだろう。
食材を選び、籠の中に入れる。インベルのご飯もそろそろ買い足しておいた方が良いだろう。今日の夕食はどうしようか。時間もある事だし少し手の込んだものを作ってみても良いかもしれない。
生活用品なども買い込み、パンパンになった籠を持って帰路に着く。途中、高台のベンチで休憩を挟む。家を出た時に見た陽が更に沈んでいるのがわかる。そよそよと頬をくすぐる風を感じながら一日を想う。
明日からはまた依頼に赴くことになる。たまにはこういう何も無い日があっても良いのかもしれないと考えながらベンチから立ち、帰り道を歩こうと。
――やぁ。
声を掛けられた事に反応が数瞬遅れた。
聞き慣れた、だがずっと聞いていたい彼の声。
私が変わった切っ掛けの一人。
予定には無かった筈の出会いに頬が緩むのを我慢する。
恋に焦がれたこの心。あの時の私に理解できるだろうか。
撫でられるインベル、私は意識せず小走りで駆け寄る。
歩きながら持っていた荷物を取られ、手持無沙汰となった手が彼の空いている手と触れる。
夕焼けの影がそっと重なりを見せた。