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記憶と自己と信念と
登場人物一覧
●不死の男
紅玉熊蜂《ルビー・ビー》の簡素なベッドに身を投げ出したなら、『ド根性ヒューマン』銀城 黒羽(p3p000505)の全身は、まるで鉄が冷えて固まるかのように重く変わっていた。
思えばそれも当然だろう。医者がその時の彼を診たならば、誰もが「生きているのが不思議なくらいだ」と形容したはずだ。あちこちが穴だらけになった服。その穴の周囲は赤黒く変色した血で固められていて、黒羽の全身はその重さだけでなく、匂いまで鉄そのものになったかのようだ。
(やってやった)
こうして大の字にベッドに横たわるならば、自身にこびり付いた血がベッドを汚してしまうかもしれない。けれどもそんな心配よりもまず、今日の勝利を噛み締めたい気持ちのほうが先に来る。
ただ依頼を成功させるだけならば、ここまで気持ちの良い勝利にはならなかったろう。これは自身の信念の勝利だ――今日もまた、誰ひとりとして傷つけることなく終えたことへの満足感だ。
敵に仲間を傷つけさせることなく、敵を傷つけることもせずに勝利した。今宵の血塗れた穴だらけの肉体は、まさしく彼が信念を成し遂げた代償であり、それに対する勲章でさえある……しかし。
こうして動くこともできずにいつもの天井を見上げているうちに、ふと、とある疑念が黒羽を囚えようとするのだった。
いつしか信念ではなくその代償こそを、甘美なものと感じてしまってはいなかっただろうか? すなわち、黒羽は自らの信念を、いつしか自身の肉体を痛めつけるための理由にしてやしまっておらぬだろうか?
今日と同じような勝利など、今までも幾度となく手に入れてきた。今日ばかりそんな想念に取り憑かれねばならなかった理由なんてなく、それはただのふとした偶然にすぎなかったのだろう……が。
ひとたびそんな疑惑が生まれてしまえば、今まで自分が信念だと思っていたものが、いつの間にか何か全く異質な、似て非なるものに成り代わってしまっていたかのような恐怖となって黒羽に襲いかかるのだった。『遍くモノに幸あれ』の信条を、自分はどこまで本気で貫こうとしていたのだろうか?
たとえ自分が傷つけずとも、黒羽が庇った仲間が敵を傷つける。
体に傷を負わせぬというだけで、黒羽が練った闘気の鎖は、敵を縛め弄ぶ。
特異運命座標としてローレットの依頼を受けるのならば、それらは理想と現実の狭間の、心苦しい落としどころであったろう……が、いつしかそんな矛盾に対して苦悩することさえも、自らを苦痛の中に置いたことで安心し、誤魔化し、諦めようとしてはいなかっただろうか……?
今さらそんな疑念が止め処なく溢れ出てくる理由を考えてみようとしても、心の中の異質なものが、よりくっきりとした輪郭で映るだけだった。だというのにはっきりしているのは輪郭だけで、その内にあるものを黒羽に明かしてなどくれない。
何時ごろから、こんな異物があったのだろうか……その答えさえはっきりとはしなかった。けれどもよくよく思い返したならば、ひとつの出来事が何かの切っ掛けになっていたかのように思われる。
だからその正体について少しでも多くの手がかりを得るために――黒羽の思索は半年前の悲劇の村、ドレーデンへと飛翔するのだった。
●人が記憶を奪われたなら
ひとつの山あいの村が滅びて、村人たちは全てここ最近の記憶を失っていた──そんな報告が手元に届いた瞬間に考えたことを、黒羽は今も鮮明に記憶している。
(自分がどんな人物なのかが抜け落ちてしまうほど、自分に自信を持てなくなることはない──)
我が家も、隣人も、親兄弟も失いながら、恨むべき相手も、託されたはずの言葉も判らなくなってしまった村人ら。彼らは人生を奪われたようなものだ……黒羽の心の奥底より沸き上がってきたそんな憤り。
確かに、彼らが失った記憶は全てではない。無辜なる混沌に喚ばれてすぐに、既に何も自分のことを思い出せなくなっていた黒羽と比べたら、彼は「彼らはまだマシな部類だ」と言う権利はあったかもしれない。
が……それで安心するのは記憶の強奪者の罪に目を瞑り、悪意を肯定する行為であろう。だから、不幸を比べるようなことなどしない。たとえどれほど短い期間のものであれ、人の心の芯になるような記憶を奪われてしまった者は、自分があるべき姿を失ってしまうのだ。いわば、人生そのものを奪われているのだ……記憶を失う前のその人は、二度とこの世には戻ってこない。
「ああ、俺は“別人”なんだ」
苦労して疲れ果てた肺に息を送り込み、黒羽は自身に言い聞かせるかのように言葉を吐き出した。
彼自身が『銀城 黒羽』だと思っている人物は、実際には無辜なる混沌に産み落とされた、ただの幻影にすぎないのではという気分に襲われてしまう。自分というものに実感がなくなってしまう不安と恐怖は、おそらくは生き残った村人たちも感じていたことだろう。
それでも彼らは――自分は、虚無ではないと信じたい。それが、あの時の黒羽の原動力だったはずだ。
必ずや、彼らを襲った悲劇の原因を突き止める。そして、犯人がいるならそれを暴いて、きっと事件を解決してみせる。そうすれば彼らの不安も少しは和らぐだろうし……何もかもがなくなっちまった黒羽にも、まだ誰かの心を救い、自分が無価値ではないことを確かめることができる――。
●“魂食み”と救い
「――なのに結局は俺が何者なのか、誰にも解らないままになっちまった!」
しばしの思索の間に少しばかり気力を取り戻した体は、思わず荒立ってしまった声を、紅玉熊蜂の自室に響かせた。
はっとして口を噤んだ後に、そっと辺りに耳をそばだてる。足音も声も聞こえない。幸いにもこのギルドの内にも外にも、彼の呻きを聞きつけて訝しんだ者はいなかったらしい。
体感時間で数分ほど、実際にはおそらく数十秒にも満たないだろう静寂の末に、彼は無意識に半ば起こしてしまっていた体を再び横たえて、思索の続きへと没頭しはじめるのだった。
確かに彼は事件の真相を暴き、犯人である“魂食み”を、その邪悪な友人である“贖罪”とともに葬った。村人たちが二度と記憶を奪われることはなく、彼は彼自身が正しいと信じること――たとえ“魂食み”が赦されざる罪を裁かれねばならぬのだとしても、その苦痛だけは受け取ってやり、安らかな最期を迎えさせてやることさえも、見事に成し遂げてみせはした。
けれどもその最期……“魂食み”は彼に向かって、一体何を告白した?
『なンだか……マえに、ニたよウナひトノきオくヲ、たべタんダ……』
あの時、“魂食み”が言った言葉が脳裏に蘇る。おそらくはそれは真実だろう……その時のことなんて全て忘れてしまったはずなのに、どうしてかそんな確信が黒羽を支配する……そして、その直感が本当に正しかったのだとすれば。
よく、事件の元凶を斃せば全てが元通りになる、なんて物語があるが、現実ではそんな都合のいいことなんて起こらなかったのだと思い知らされる。ああ、もしも“魂食み”と別の形で出会っていれば、俺はアイツの力になれたかもしれないし、俺もアイツが食ったはずの自分の記憶を、アイツから教えて貰って取り戻すことができたかもしれないのに――そんな後悔は今になっても黒羽を襲う。もっとも……そんなIFをどれほど考えたところで、それを実現する方法など思いつきはせぬのだが。
(俺は、アイツを恨まないことにすると決めたんだ)
改めて、黒羽は自らの心の奥底にわだかまる動揺を、強い意志にて封じ込めてやった。生まれた時から自分の存在に苦悩しつづけ、自己を手に入れるためには他人の記憶さえ喰らわねばならなかった“魂食み”と比べれば、どんな形であれ信念を抱き、それを実現している自分は、よほど恵まれているじゃあないか。
(ああそうだ……たとえ昔の記憶がなくて、自分自身に確信が持てないんだとしても、俺が今、正しいと信じることをできていることだけは間違いがない)
記憶を失う前もそうだった保証なんてどこにもないし、ましてやこの先もそうありつづけられるか――さらに言えば、自分が正しいと信じていることが、本当に正しいものなのか――なんて判りやしない。
それでも、自分は信念を持っていると信じることができる。それが、どれほど幸せなことか?
ならば先程の疑念などやはりふとした気の迷いにすぎなくて、何も不安になる必要などないのだと自分に言い聞かせた黒羽。そうと決まれば自身を奮わせて、彼は固まった血片が散らばるベッドから、飛び起きるようにして再び立ち上がってみせる……そして真っ直ぐに前を向き、その頃には随分と軽くなっていた体を引きずって、黒羽は再び部屋から歩み去っていった。
●Appendix:極秘資料No.■■■■■■■■(政府特別関係者以外の閲覧を禁ず)
【Name】Kureha Ginjo
【Sex】Male
【Birthday】■■-07-09
【Profession】■■■■■■■■
【Status】Missing(■■-■■-■■~)
所謂『銀城家』の一員であり、長男。■■年時点で、彼の両親を含む3名にて『任務』を執行していた事が判明している。
■■年頃迄の任務受託数は■■件、達成率は■■%、負傷率は■■%。安定した成果は、余計な感情を挟まぬ任務執行に因ったものである。
一方で、■■年以降の任務受託数は■■件と低下。感情寄りの言動が目立つようになる。原因は■■■■との交流と目されている。
■■年■■月、■■■■■■事件に関連し■■■■が死亡。同時期より任務受託数が■■件と急回復するが、同時に負傷率が重傷■■%→■■%と大幅悪化している。ある種の自棄であるものと推察された。
■■年■■月に行方不明。事故・事件の双方の可能性を視野に調査中。但し、現時点で掴めている足取りは皆無。