SS詳細
終夜
登場人物一覧
あの日から、彼女の事を片時たりとも忘れたことはない。
愛おしき銀の髪。揺らぐそれに櫛を通せば可笑しそうに笑うのだ――「あなたに髪を梳いて貰うだなんて」
あの声は、もう。
曇天の空の下、アシュレイ・ヴァークライトは息を呑んだ。
聖騎士としての処断を命じられたのは経験深き殉教のおとこの娘であった。天義が信ずる唯一を無碍にして己が信仰に身を擲ったおとこは無数の人々を贄としたらしい。
極悪非道な男には一人娘が居た。まだ幼く、親の加護がなければ一人では生きてゆけぬ小さな少女。
アシュレイ・ヴァークライトは雨に打たれながら彼女を眺めていた。小さな四肢をだらんと投げ出して納屋に背を預けた子供は泣き腫らして赤く腫れた目をしている。
青紫色の瞳が此方を呆けたように見遣った。生気のない、何にも期待などしていないような瞳だ。アシュレイはひゅ、と息を呑む。
彼女の瞳は妻と同じ色をしていた。否、彼女の色彩を分けた娘と同じ。紫陽花の花が宿す美しき色彩が揺れている。
「……ヴァークライト卿」
背に掛けられた声にアシュレイは肩を振るわせた。共に任地に赴いた騎士は此方の様子を不可解そうに伺っている。
常ならば、正義の剣を振り下ろす。彼女は異教徒の、そして、極悪人の娘と同じ血が流れているのだ。親の業を子が背負うなど理不尽ではあるが、彼女とて幼い頃から教育為れて来た筈だ。我らと道を違えた『不正義』をその身に降ろしながら。
抜き身の剣を少女の首へと添えた。其の儘力を込めれば簡単に刎ねてしまえるというのにアシュレイの腕は動かない。不審そうに見遣る騎士の声から逃れるようにアシュレイは声を振り絞った。苦しげに、声音が震えていることは自分とて分る。
「君は、一体幾つだ?」
「……8」
……何と言うことだろう。神がこの運命を定めたのだとすれば随分と手酷い試練ではないか。
此まで、鍛練を積み、努力し続けてこの地位となった。神は愛しき妻のみ非ず、『娘と同い年の少女』の命をこの手で奪えというのか。
「――ッ、済まない」
アシュレイは剣を仕舞い少女の肩を抱いた。ヴァークライト卿と呼ぶ声を振り払い、少女をその腕に抱え上げる。軽い。娘、スティアよりも随分と軽い。
「ヴァークライト卿! 何を!」
非難の声音など、聞いては居られなかった。その声に足を取られては居られなかった。
騎士の責務。尊き神より齎された自身の生きる糧。
父としての――それは、只一人のために与えられた唯一無二。
痩せぎすの少女に、幼い一人娘の姿が重なったのは仕方がなかった。彼女と、この少女が別物である事を分かりながら殺す事を拒んでしまった。
背へと迫った剣を鞘で弾く。地を踏み締めて片腕で引き抜いた剣が随行する騎士の腕を割いた。
「ヴァークライト卿――!」
呼ぶ声に、誰ぞが応援を頼んだのだと知る。
アシュレイは逃げるように走った。抱え上げた少女がぎゅうとしがみついてくる。そのぬくもりが暖かで、苦しみさえ生み出した。
戻る道はない。神の意志に反する行いを咎める言葉などはない。待ち受けるのは死のみだ。抗うしか選択肢など残されては居なかった。
「……やはり此処に逃げるか」
アシュレイは唇を噛んだ。思わず毒吐いた唇は普段の温厚さを拭い去る。
ゲツガ・ロウライト。懇意にしていたロウライト家の主。日々が忙しなくとも交友を絶やすことのなかった老年の騎士は大石に腰掛けて此方を眺めていた。
「やはり、というのはどういう意味でしょう? ロウライト卿」
「問わずとも分っているでしょう、アシュレイ殿。貴殿が腕に抱えた娘の話を」
彼女は死ぬべきだと。口にするのも悍ましき言葉の欠片にアシュレイは一歩後ずさった。泥濘が己の存在を誇張する。雨音がノイズのように頭に張り付いた。
頬に張り付いた金の髪を拭うことなど出来ず、アシュレイはゲツガのかんばせを眺めている。彼の事は知っているつもりだ。否、知らずに居れるものでもない。
彼がこの場に赴いたのが神の慈悲だというならば、随分と手酷い事ばかりを選ぶ。まるでひと思いに此処で死ねとでも言うような。
「……その娘を渡して貰おうか。そして、貴殿は――」
アシュレイは勢いよく剣を引き抜いた。
目に付いたのはゲツガの持つ禍斬・月。嵐の如く苛烈な攻撃が降り注ぐ。彼より告げられるは神は、国家は己を不正義であると断じたのだという確証。
千切るかの如き痛みが腕へと走る。少女を抱いた腕を狙うゲツガの目は一度たりとも笑いはしない。友であろうと家族であろうとも、振り下ろす刃は研ぎ澄まされる。
泥濘が己の足を掬う体勢を崩したアシュレイの隙を狙うようにゲツガの剣は鋭く振り下ろされた。
「ぎゃ」
それは小さな叫びだった。だが、アシュレイの心を揺さぶるには大きすぎる。しがみついていた力が抜け、腕に全体重がだらんと乗った。其れが意味するのは。
「……ゲツガ、殿」
震える声音でアシュレイは少女を見遣る。ゲツガの表情は変わることなく『彼女』の様子を見下ろしていた。あの冴え冴えとした瞳は、何処までも己を責め立てる。
月光も見えぬ曇天で彼は冷徹にその刃を振り下ろしたのだ。曇天の空では彼の判決も下らない。判決することさえ無意味だと男の瞳が語る。
男の目がぎょろりと動く。アシュレイはだらりと腕を降ろした小さな少女の身体を眺めていた。
赤い血潮が流れ出した傷口は無念を叫ぶようにぱかりと割れている。かんばせより生の気配が失せていく痩せぎすの少女を抱き締めて、アシュレイは「どうして」と呟いた。
「子供には罪などないでしょう――!」
「『神の判決』を愚弄するとでも?」
押し黙ることしか出来ぬ。アシュレイはもう一度取り零した剣を握ろうとし――
「さらばだ、ヴァークライト卿」
ゲツガの声が聞こえる。アシュレイは目を見開いた。斬られた、と悟ったのはその後だ。
身体から血潮が退いて行く感覚に続き、身を裂かれた事による痛みが過る。己が背は宙へと投げ出されたか。臓に得た痛みが喀血を齎した。
唇が戦慄いた。己が何処に落ちていくのかさえも分らない。此が不正義による終焉だというならば何と残酷であろうか。
谷へと向けて落ちて行く己は翼もない。浮遊することが出来ないならば、只管に落ちて行くだけだ。
これが償いの死だというならば、神は随分な罪を与えたものだ。只の小さな少女一人も救えぬ己が聖騎士だと笑えてしまう。
正義を宿した男の冷たい瞳が、此方を見下ろしていた。罪の在処は此処であると告げるような酷く冴えた色彩に。
恨み言など溢れてこなかった。アシュレイの頭に過ったのは――
「スティア」
愛しい。愛しい。一人娘。己と、妻の色彩を分けた愛らしい彼女。まだ小さいあの子がどうか無事であれば。
己が不正義として処罰されたとて、彼女には何の罪もないのだから。
「アシュレイ様」――彼女が呼んでいる気がした。
「私達が愛情を注がなければ、彼女は愛を知らず、私達が向き合わなければ、彼女は人と向き合う事を知らない儘」――ああ、そうでしたね。エイル。
「私達が道を誤れば、彼女もまた道を誤ってしまう」
愛おしき人の声が、頭の中で何度も反芻された。
願わくば、愛しき小さな娘が道を違えることがなきように。愚かな父を、どうか赦しておくれ――