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その手にすくうは
登場人物一覧
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ゴミ溜め。誰が呼び始めたか知らないがその呼び方はいたくこの場所の雰囲気に合っていた。汚い身なりをした奴らが集まり、僅かばかりの金でその日をただ生きるだけ。
そういう場所には連鎖的に他のものも集まる。人目を忍んで取引を行うもの、おこぼれに与ろうとするもの、食い扶持を奪い取ろうとするもの――いずれにしても碌なものではない。腐臭に悪意が加わり、治安は悪化する。だが取り締まるものはいない。ここはそう言う場所だ。
不衛生と違法建築に彩られた路地を疾駆する一つの影。生物学上ではブルーブラッドであるが、そんなものが意味を成すほどこの場所はお淑やかではない。では名前は――と言いたいところだが名乗るべき名前もない。まあ、形式的に「ソレ」とでもしておこう。
ソレはご機嫌に街を駆け抜ける。その手に収まったパンを盗られてはたまらないとさっさと口に流し込む。元の持ち主は追ってこないのか、影も形もない。
「いただけないね、人の物を盗むのは罪だ」
「!?」
唐突に、そんな声が文字通り降り注いだ。道路は気にしていたが、頭上つまり屋根は意識の外だった。
ソレが肩で息をするほど全力で路地を駆け抜けたにも関わらず、頭上から埃のように舞い降りたそいつは息一つ乱れていない。
不愉快だった。その余裕ぶった表情も、高そうな衣装も、何もかも。
「なんだよ、生きるために盗んで何が悪い!?」
故に、ソレは噛み付いた。彼女はソレの全てを否定しているように見えた。謝罪の言葉を一つ述べれば、自分の生を自分で否定するような気さえした。
「生きるための行動を否定はしない。だが人である以上ルールはある。そのルールを破れば……」
どう見ても動きにくい衣装だ。だが彼女は一瞬で、ソレの認識できるより早く間合いを詰め、左手を掴み上げる。
「いてぇ!」
「暴れるなよ」
顔色一つ変えないがその力はソレの全力をもってしても敵わない。
「罰を受ける羽目になる」
「はん!? 殴るなり蹴るなり好きにしろよ!」
痛みなら星の数ほど経験している。今も腹のどこかに蹴られたときの痣が残っている筈だ。この路地では、失敗すれば何かしらのペナルティが課されるのだから。
最早染みついた習性で身体に力を込めたソレだが、帰ってきた言葉は彼女の予測の斜め上を行く。
「あたしの手伝いをして貰う」
「……はあ?」
理解が一瞬遅れ、飛び出たのは素っ頓狂な声。
「だから、あたしの手伝いをして貰う。勿論、あたしの住んでる教会に来てもらうから住処はあるし、お金も出すよ」
「はあ?」
素っ頓狂な声テイク2。それが、一方的な契約成立のサインになった。
というかさせられた。
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半ば拉致に近い形で地獄から引き揚げられた形のソレだが、その生活の名前で得たものは両の手では数えきれない。
まずは名前。天国と地獄を知るものとして、天地創造の女神から拝借して「アムタティ」という名前を貰った。彼女自身は大げさだと思ったも、連れてきた修道女が折れずに結局アムタティが折れた。
次に教養。読み書き計算、言葉遣いや簡単な礼儀作法を教会の皆から教わった。修道女が「シュメール」という名前を知り、彼女の名前を呼んだ時シュメールはとても喜んでくれた。
更にシュメールから体術を学んだ。重心移動、護身術、軽い武器の扱い方。学べば学ぶほど、シュメールの強さとの差に舌を巻く日々。
人間関係、友人、人を信じることの大切さ、愛等々。あの地獄の日々では一顧だにしなかったものが自分の中に吸収されていく度に少しずつアムタティはシュメールに感謝を素直に表すようになっていった。初めてシュメールに「ありがとう」と言ったときの彼女の驚いた表情は、今でもはっきりと覚えている。
——礼を言われた人の顔は、あんなに嬉しそうになるんだと痛感したのはこの時だった。
それから更に時間がたち、14の誕生日。アムタティは教会を飛び出した。シュメールには感謝している。だが相談すれば間違いなく止められる。だから何も言わずに飛び出した。
シュメールさえも追いつけない程遠く離れた街にひっそりと建つ日当たりの悪いアパートメント。少しだけの手持ちで借りた部屋だが、あの地獄を経験していればこの位不都合にさえ思えない。
小さな木の板にあの場所で学んだ文字を書く。学ぶのが遅かったせいか字の拙さは否めないが読めないことはない。
看板にはこう書かれていた。
「人探しから配達まで、なんでも屋アムタティのお店」
「ふふー。今日からお店の始まりっす!」
家具も殆どない小さなアパートメントの一室に、やる気と自信に漲った声が轟く。
随分と悪事に手を染めたその罪を雪ぐために、あの時シュメールが見せた笑顔をもっと見たいがために、或いはいつか彼女に会う時に、自慢できるように。
色々な思いが去来するが、とりあえずは。
「さあ、便利屋オーップン!」
新しい店と新しい生活に乾杯を捧げよう!